第16話 価値ある者
それは、まるで魔法みたいな光景だった。
オルフェウスの掌が触れた途端、重厚な石積みの壁は、まるで元から存在していなかったように霧消していた。
「……これでいい?」
紅の騎士はルシウスを振り向き、尋ねる。
「上出来だ」
ルシウスとヴィサリオンは、闘技場の内壁にぽっかりと口を開けた破孔を見上げ、外界の様子を探っている。
密閉された空間に特有の蒸し暑さとは打って変わって、しんと冷えた夜気が肌を刺す。
すでに時刻は夜半を回っている。破孔の彼方に広がるのは、果てしない夜の闇であった。
背後に目を向ければ、とめどなく湧出を続ける地下水がすでに観客席の半ばまでを浸しつつある。
オルフェウスが穿った穴をくぐり抜ければ、ひとまず溺死するおそれはないはずであった。
問題は脱出の順序だ。
皇太子を最優先とするのは当然としても、我先に脱出したいと考えるのが人情というものだ。
いつの間にかルシウスらの周囲には観客たちが集まりだし、一様にすがりつくような視線を向けている。
「皇太子殿下、なにとぞお助けを!」
「我々はパトリキウスに謀られていただけなのです!」
ある者は激越な口調でパトリキウスを非難し、またある者は声高にみずからの潔白を叫ぶ。
彼らの願いは明白だった。
単に救出を嘆願しているというだけでなく、罪をパトリキウスに押し付けることでみずからの地位の保障をも願い出ているのだ。
ルシウスは薄笑いを浮かべながら、かれらの顔をひとしきり瞥見すると、
「案ずるな。その方らの身柄は余が責任を持って預かろう」
居並ぶ顔に一様に安堵の色が浮かんだのを見計らって、さらにこう付け加える。
「法の裁きも命あってのことだからな」
歓びから一転、絶望の淵に転落した観客たちは、口々に声にならぬ悲鳴をあげた。
悲嘆に暮れるかれらにはもはや一瞥もくれず、ルシウスはふんと鼻を鳴らす。
そんなやり取りを横目に見つつ、ヴィサリオンはオルフェウスの背をじっと眺めていた。
オルフェウスの名は聞き及んでいたが、これまで面識があった訳ではない。
にもかかわらず、なぜか見ず知らずの他人ではないように思えてならなかったのだった。
(どこか似ている――)
ラフィカの手で牢獄から救い出されたあと、ヴィサリオンは舞台の上で対峙する二人の騎士をはっきりとその目で見た。
戎装騎士であるということを除いて、何ひとつ共通点のない黒と紅の騎士。
それでも、ヴィサリオンが両者のあいだに奇妙な相似を見て取ったのは、おそらく錯覚ではなかったはずだ。
そうする間にも、にわか造りの脱出経路は完成しつつあった。
真紅の騎士は手をかざし、行く手の外壁を消失させながら、ゆるやかに前へと進んでいる。
「これでいい?」
ふいにオルフェウスの手が下がった。脱出路が完全に開通した合図だ。
それにしても、堅牢な外壁がまるで粘土のようにたやすく抉り抜かれるとは――。
実際に目の当たりにしなければルシウスとヴィサリオンも到底信じられなかったに違いない。
水はすでに観客たちの足元まで達しようとしている。
「まずは私が外の様子を確かめてきます。殿下は安全を確かめてから続いてください」
「いいだろう」
ヴィサリオンの申し出に、ルシウスは素直に頷く。
「ならば、余の次は――」
観客たちは期待の眼差しをルシウスに向ける。
声がかかると思って疑いもしないのだろう。我先に脱出しようと、互いに牽制する素振りさえみせている。
「そなたらの番だ。他の者はその後に続くがよい」
ルシウスが指差したのは、ひしめき合う観客たちではなかった。
観客たちの背後で不安そうに立ち尽くす使用人たちに向かって、ルシウスはいま一度手招きをする。
奉仕の対象である観客たちが西方人であるのとは対照的に、使用人はその全員が東方人によって占められている。
『帝国』の秩序にあって、東方人は西方人の下位に置かれるのが常であった。
そんなかれらを優先的に脱出させるというルシウスの判断に、観客たちはざわめいた。
「殿下! この非常時にお戯れを!」
「あのような薄汚く卑しい東方人どもを我々よりも先に行かせるなど、もってのほかです!」
ルシウスはふっと溜息をつくと、
「……余が戯れに申していると思うか?」
観客たちを見据えて、語気鋭く言い放った。
「パトリキウスの罪業を知ってなお、今日まですすんで愉悦に浸っていたそなたらと、命じられるがまま召し使われていたあの者たち。どちらの罪が重いかは自明だ。罪人には相応しい扱いをするまでのこと――」
「しかし殿下、我々は国家の官職を持つ身でございます」
「たしかに今はそうかもしれん。だが、明日には剥奪される位階や官職に何の意味がある?」
ルシウスの言葉はどこまでも冷たく、反論を許さぬ気迫に満ちていた。
「あの者たちは無位無官の庶民である。官位を持った罪人に比べれば、無辜の庶民のほうがよほど尊いというものだ」
観客たちの絶望の度はここに至って頂点に達したようだった。
これまで築き上げてきたものが一瞬に崩れ去ったのだ。自業自得とはいえ、意気阻喪するのも無理からぬことであった。
ルシウスはそのまま歩き出そうとして、ふいに顔を観客たちに向けると、
「もし異論がある者がいるなら、この場で申し出るがいい。余、ルシウス・アエミリウスが傾聴に値するだけの意見があるならば……だが」
冷え冷えとした声で念を押した。
***
煌々と燃える松明に照らし出された黒騎士の身体は、隅々まで赤く染まっていた。
黒い装甲から数滴、赤黒いものがぽたぽたと垂れ落ちる。
それはおびただしい返り血であった。
アレクシオスの足元に目を向ければ、血達磨になって横たわるパトリキウスの私兵たちの見るも無残な姿がある。
「ご苦労さまでした、騎士アレクシオス」
戎装を解いたアレクシオスに、ラフィカが語りかける。
「どうにか片付いたな」
「ええ――それにしても、あれだけの人数を極力殺さずに大人しくさせるのは、ずいぶん骨が折れたでしょう?」
「それはそうだが……」
アレクシオスは顔にべったりと付着した血糊を拭いつつ答える。
「
百人以上のパトリキウスの私兵とアレクシオスの戦いに決着がついたのは、つい今しがたのことだ。
私兵たちの側としては、いかに戎装騎士といえども衆寡敵せず、圧倒的な戦力で追い込めば勝算はあると踏んだのだろう。
だが、彼らが失念していたことがある。
戦場の
ふた手に分かれて挟撃することも叶わず、先頭の数名のみがアレクシオスと対決せざるをえない状況では、数の優位は何の意味もなさない。
むろん、たとえ広漠な平地で戦っていたとしても、武器を携えただけの人間にすぎない彼らが騎士に勝利する可能性は限りなくゼロに近い。仮に百人が千人になったところで、おそらく結果は変わらないはずだ。
騎士のなかでは最下級に位置するアレクシオスでも、人間とのあいだには天と地ほどの戦闘能力の差が存在する。
それは、先の戦役における人間と戎狄の戦力差に等しかった。戎狄が人知を超越した怪物であるならば、それを駆逐した騎士もやはり人間の尺度では推し量れない怪物であった。
「……ところで、そっちはどうなんだ?」
「問題ないです。締め上げてしまえば逃げられないでしょう?」
言って、ラフィカは自らの背後を指差す。
ついと視線を動かせば、鉄鎖で全身を縛り上げられたパトリキウスとカミラががっくりと頭を垂れている。
「き、貴様ら……よくも儂にこんな真似を……」
へたり込んだまま、パトリキウスが恨めしげな声を上げる。
捕縛の際に抵抗したためだろう。丸々としたその顔には、いくつも青あざが浮かんでいる。元々巨大な頭部は、今や二倍ほどの大きさに膨張していた。
「まだしゃべる元気があったのか」
「もうちょっと痛めつけた方がいいかもしれませんね。アレクシオスさん、あなたもどうです?」
「やめておく――こいつの顔を見ていると、どうも手加減出来る自信がない」
アレクシオスは自分とヴィサリオンがこれまでパトリキウスから受けた屈辱的な仕打ちの数々を思い出しつつ、まるで汚いものでも見たように視線をそらす。
戎装を解いたとはいえ、戦いを終えたばかりの身体はいまだ臨戦態勢にあり、気持ちは依然として昂ぶっている。
そんな状態でパトリキウスに制裁を加えれば、うっかり息の根を止めてしまいかねなかった。
戎装を解いてなお、騎士の膂力は常人の比ではないのだ。
なによりルシウスに生け捕ることを約束した手前、うっかり殺してしまっては合わせる顔がないというものだった。
「本当にいいんですか? まあ、無理強いはしませんけどね。……この方たちには、まだまだ聞き出さなければならないこともたくさんありますし」
ラフィカが手にした鉄鎖をぐいと引っ張ると、潰れたカエルみたいな呻き声が続けざまにふたつ上がった。
「さあ、これ以上痛い目を見たくなければがんばって歩いてくださいね」
冗談めいた口調だが、それがかえって凄みを醸し出してもいる。
地下通路の出口を目指し、アレクシオスたちはなおも進んでいく。
通路の終点は、意外なほど近い場所にあった。
闘技場を囲むように生い茂る木立のなか、外界へと通じる出入り口はひっそりと闇のなかに佇んでいた。
一人身を乗り出したアレクシオスは、ざっと周辺の状況を確認すると、ラフィカを手招きした。
「どうやら伏兵はいないようだな」
先ほどアレクシオスに襲いかかった私兵軍団が、いまパトリキウスが動かせる全戦力だったのだろう。いかに権勢を誇る州牧とはいえ、この上さらに多くの私兵を養う余裕があるとは到底思えない。
と、アレクシオスは森の一角にうごめく奇妙な影を認めた。
騎士の目はとうに闇夜に順応している。
小指の先ほどの大きさの影は、ゆっくりと山肌から這い出てくる。それが人間であることはすぐに分かった。
続いて、人影がもう一つ。
暗闇の中に現れた二つの人影は、ヴィサリオンとルシウスであった。
「殿下も無事に脱出出来たようだ」
言って、アレクシオスは安堵のため息を漏らした。
オルフェウスにルシウスの警護を任せるのは不安でもあったが、どうやら滞りなく役目を果たしたらしい。
「急いで合流しましょう」
と、ラフィカ。
「あまり殿下と離れているとどうも心配で……」
いたずら盛りの子どもを持つ母親みたいな口ぶりに、アレクシオスは思わず苦笑する。
この赤銅色の髪の剣士と皇太子ルシウスとは、どうも単なる主従というだけではないようだった。
アレクシオスは問おうとして、思いとどまる。
今は詮索をしている時ではないのだ。
「おれが先導する。ついてきてくれ」
言って、アレクシオスは森を満たす闇のなかに身を踊らせた。
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