第15話 騎士、追撃

 闘技場から外部へと通じる秘密の脱出路。

 いま、細く暗いそのなかを一心不乱に駆け続ける一団がある。


「あの中にいた者どもは、まず助かるまい」


 豪奢な装飾が施された輿の上で、パトリキウスはひとりごちた。

 パトリキウスを乗せた輿を動かすには、それだけで四人の兵士を必要とした。カミラと他の護衛も含めれば、ざっと十五人ほどの集団になる。


「騎士どもは生き延びるかもしれんが、ルシウスと内情を知る来賓客さえ始末できればひとまずは安心よ」

「ですが閣下、この件の始末は如何様に?」

「なんの、案ずるには及ばん。……儂に考えがある」


 パトリキウスはカミラにちらと視線を向ける。


「ここを出たらすぐ州都に早馬を出し、我が屋敷に火を放たせるとしよう。表向きには客人は儂の屋敷に招かれたことになっておる……奴らは残らず焼け死んだということにしておけば、ひとまずの言い訳はできる」

「ですが、仮にも皇太子がいるとなればそう簡単には……」

「ふん。本来の視察の予定を外れ、ろくな護衛も連れずにふらりとこんな場所に現れるような破落戸ごろつきは、どこで野垂れ死んだとしても不思議はなかろう。なにしろ辺境は物騒だからの」


 ぬけぬけと言いのけたパトリキウスの顔には、隠しようもない憤怒の相が表れている。

 それも無理からぬことだ。

 いまや謀反の計画はほとんど破綻しかかっている。

 実行にあたって支援者となるはずであった州の有力者の大部分を失ったのだ。長年かけて進めてきた計画は大幅な修正を余儀なくされるだろう。

 中央からの追求をうまく切り抜けたとして、はたして野望の再建が成るかどうか――。

 二人の騎士を手中に収め、もはや成功は確実と思われた反乱の企ては、一夜のうちに風前の灯火となっている。


(こうなったのもあの若造のせいよ――)


 あの場にルシウスが現れさえしなければ、このような苦杯を嘗めさせられることもなかったのだ。

 パトリキウスの怒りは、ほとんど逆恨みに近いかたちでルシウスに向けられていた。


「カミラ。”駒”はどうなっておる?」

「は――すでに兵に命じてシデロフォロスらを呼びにやらせております。間もなく馳せ参じるかと……」


 カミラの時宜を得た対応に満足してか、パトリキウスは満足げに頷く。


「もとより”駒”どもに期待などしておらんがな。生命と引き換えに足止めの役さえ果たしてくれれば、それで充分よ」


 どこまでも冷たい語調で言い捨てる。

 哀れな”駒”たちだけではない。この男にとって、おのれを取り巻くすべては都合よく使い捨てられる存在にすぎなかった。

 それは腹心であるカミラも例外ではない。もし自分が逃げ延びるために必要とあれば、パトリキウスは躊躇なく彼女をも切り捨てるだろう。

 と、最後尾を固める兵から「ぎゃっ!」と短い叫びが上がった。


「なにごとだ!?」

「怯むな! 閣下を守りなさい!」


 突然の事態に色めき立つ兵たちをカミラが叱責する。

 そうする間にも、また一人兵士が斃れた。


「残って敵を食い止めるのです!」


 カミラの叱咤もむなしく、残った兵士たちはすでに統制を失いつつある。


「見つけたぞ――パトリキウス!」


 背後で上がったのはアレクシオスの声だ。

 騎士の強靭な脚力をもってすれば、先行するパトリキウスらに追いつく程度は造作もないことだった。

 そのすぐ背後にはラフィカの姿がある。

 ここまでの道中をアレクシオスと同等の速度で駆け続けているにもかかわらず、息も切らしていないのは不思議であった。

 たったいま二人の兵士を斃したのも、ラフィカが投擲したクナイだ。


「雑兵の相手は私が。パトリキウスは任せます」

「そのつもりだ!」


 力づく首肯したかと思うと、アレクシオスは間髪をおかず推進器を作動させる。

 黒騎士の両足はすでに地を離れ、その身体は一筋の矢のように飛んだ。

 薄暗い通路のなかにあって、漆黒の甲冑は闇に溶け込むかのよう。ただ、噴射炎があざやかに朱の軌跡を描いて伸びていく。

 あっけにとられたように見つめる兵士たちの頭上を飛び越すと、アレクシオスは一行の進路を塞ぐように着地した。


「もう逃げ場はないぞ、いい加減に観念することだな」

「ほざけ! 武器もない騎士に何が出来る?」


 その言葉を聞くなり、アレクシオスは石積みの壁に手を伸ばして、人の頭ほどもある石塊を掴み取る。そのまま軽く指を曲げると、黒騎士の手の中で石塊は跡形もなく砕け散った。


「これで分かっただろう。貴様らの相手をするのに武器など必要ない」


 怖気づいた様子のパトリキウスとカミラにむかって、アレクシオスはゆっくりとにじり寄る。

 後退しようにも、背後ではラフィカが剣を構えて立ちふさがっている。

 まさに前門の虎、後門の狼。進退窮まった状況とは、このような場面を言うのだろう。


「これまでの礼をしてやりたいのはやまやまだが――」


 アレクシオスは、しかしそれ以上言葉を継げなかった。

 背後から飛来した鉄鎖が首に絡みつき、恐るべき膂力で締め上げたのだ。


「州牧閣下――ご無事……で……?」


 鉄鎖を手繰りながらシデロフォロスがぬっと姿を現す。


 「おお、シデロフォロス! よい所に来てくれた!」


 状況が好転した安堵感からか、パトリキウスの声もどこか上ずっている。


「ぐ……っ!!」

「シデロフォロス! 構わん、そやつを縊り殺せえ!」


 命じられるまま、シデロフォロスは鉄鎖を手繰る両腕に力を込める。対象が普通の人間であれば、とうに首が引きちぎれているはずであった。


「アレクシオスさん!」

「おれは心配ない! それより、パトリキウスを……!」


 鉄鎖を力任せに引き剥がしながら、アレクシオスはラフィカに向かって叫ぶ。


「こんなもので……!」


 そのまま両腕をぐいと広げると、耳障りな音とともに鉄環の連なりが爆ぜた。

 いかに熟練の闘士といえども、ふいに生じた反動を制御することは至難というものだ。拘束が解けた一瞬、シデロフォロスに生じた隙をアレクシオスは見逃さなかった。

 狭い通路のなか、両脚の推進器を全開して一気に距離を詰める。

 シデロフォロスはとっさにアレクシオスめがけて新たな鎖を投擲するが、黒騎士には掠りもしない。

 懐からもう一条の鎖を取り出そうとするシデロフォロスの手がふいに止まった。


「が……ッ!」


 凄まじい衝撃とともにアレクシオスの右拳が胴体に食い込み、シデロフォロスはたまらず呻吟する。

 アレクシオスの拳には、オルフェウスの”破断の掌”のような異能の力は存在しない。

 超硬質の装甲に覆われた騎士の拳は、それだけで恐るべき凶器となるのだ。

 まして、加速によって慣性が加わっているとなれば、その威力は想像を絶する。

 防御のため幾重にも胴体に巻かれた鉄鎖は一瞬に砕かれ、衝撃の余波はシデロフォロスの肋骨をことごとく破砕していた。


「しばらくそこで寝ていろ!」


 血泡を吹いてくずおれるシデロフォロスを一瞥し、アレクシオスは短く吐き捨てた。

 追い打ちをかけないのは、この状況であえて息の根を止める意味もないと判断したためだ。

 もっとも――ぶくぶくと血泡を吹き上げるシデロフォロスにとっては、あるいはひと思いに生命を奪われた方がまだ苦痛は少なかっただろうが。


「さあ、パトリキウス、次は貴様の番だ!」


 叫んだところで、アレクシオスは奇妙な違和感を覚えた。

 ふと通路の彼方に視線を向ければ、先ほどまで闇が広がるばかりだった空間にぽつぽつと浮かび上がるものがある。

 何者かが掲げた松明の火だ。

 それも、一つや二つではない。

 松明を手に彼方から迫りくるのは、完全武装の男たちだった。

 かなりの大人数であった。少なく見積もっても百人は下るまい。統一感のない武装と鎧は、正規軍のそれとは明らかに様相を異にしている。

 それもそのはず――パトリキウスが謀反に備えて編成した私兵の一団であった。


「おお、ようやく来たか!」


 すっかり血色が失せたパトリキウスの顔にふたたび生気が戻った。


「これで形勢逆転だ! オルフェウスほどの猛者ならいざしらず、貴様ら二人でこれだけの数を相手に出来るか!?」

「……どこまでも往生際の悪いやつだ」

「なにい?」

「あんな連中が何人来ようと関係ない。貴様はここで終わりだ」


 言い放ったアレクシオスの言葉に、怒りの色はもはやなかった。

 ただパトリキウスに対する冷たい軽蔑だけがある。


「ラフィカ――そいつらから目を離すな」

「本当に一人で大丈夫ですか? 手助けが要るなら……」

「任せておけ」


 アレクシオスはラフィカを手で制する。

 そうこうしているあいだに、私兵の集団は三メートルばかり離れたところで足を止めた。

 長剣、手斧、槍、棍棒、鉄球、偃月刀、破城槌……男たちの手には思い思いの武装が握られている。

 いかにも荒くれ者然とした男たちは、珍しい獲物を吟味するような視線をアレクシオスに向ける。戎装騎士を前にしても恐れている様子はない。無知ゆえの蛮勇であった。


「おまえたち、容赦はいらん! その化け物を殺してしまえ!」

「うおお――ッ!!」


 州牧の憎々しげな言葉に、いかにも荒くれ者の寄せ集めらしく、男たちは獣じみた叫声で応える。

 一方のアレクシオスはといえば、物怖じする様子もなくかれらの眼前に立つと、


「まとめてかかって来い、人間。騎士おれを殺せるかどうか、試してみろ――」


 くい、と手招きをしてみせた。

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