第14話 その手をとって
「皇太子だと――」
青年が自らの正体を高らかに宣言すると、観客席はにわかにどよもした。
闘技場に集まっているのは田舎貴族とでも称すべき者たちだ。
辺境の支配階級といえば聞こえはいいが、皇帝に近侍する本物の貴顕に比べればしょせん二流、三流の家門にすぎない。
富貴の家のならいとして帝都に遊学した者や、一時は中央で官職を得ていた者もいる。山出しの田舎貴族が皇帝とその家族に接見する機会などあろうはずもない。
それでも、かれらは青年――ルシウスにただならぬものを感じて身動きが取れずにいる。
不可解と言えば、あまりに不可解だ。
本心から納得している者はおそらく一人もいないだろう。
意識とは裏腹に、かれらの肉体は青年への服従を選んでいたのだった。
古帝国が分裂し、その後継者たる『東』の帝国が大陸の東方に興ってからはや千年。
国家の頂点に立つ
いつしかどよめきは収束し、場内は水を打ったようにしんと静まり返った。
野次を飛ばす者は誰もいなかった。しわぶきさえ絶えたようであった。
もし青年の言葉が真実であった場合、我が身に降りかかる災厄を恐れているのだ。
ただひとり――州牧パトリキウスを除いて。
パトリキウスは不躾な闖入者の出自を疑いはしなかった。
各州の最高権力者である州牧は、皇帝が直々にこれを任命するのが慣例だ。
それはこの闘技場にいる人間のなかでただひとり、皇帝の尊顔を目にする機会を得ているということでもある。
あらためて青年の面立ちをつぶさに見れば、たしかに皇帝家の特徴が濃く出ている。
現在の皇太子に直接面会したことはなかったが、辺境巡察に出立したという報せはだいぶ前に帝都から届いている。
パトリキウスが治める州を訪れるのはまだ五日ほど先のはずであったが、この場にいたとしても不思議ではない。
そういった事々を踏まえて、パトリキウスは青年が皇太子ルシウスその人であることについて疑うつもりはなかった。
――だが、それがどうしたというのだ?
カミラを始めとする配下たちがことごとく色を失っているのとは対照的に、この肥満した地方権力者は泰然と青年を見据えている。
それどころか、皇太子を前にしてますます増長の度を増してさえいるようにみえる。
臆面もない視線に気付いてか、
「パトリキウス――皇帝陛下の信任によって州牧の地位を賜りながら、奢侈を尽くし国法を蔑ろにした罪状、よもや言い逃れはすまいな」
ルシウスはあくまで冷ややかに言う。
「国家に仕える
この瞬間、州牧としてのパトリキウスの命脈は完全に断たれた。
詮議が進めば、当然密かに進めていた謀反の企ても露見する。そうなれば死罪は免れない。
ただ命を奪われるだけでは済めば、まだいい。
謀反人は官位を剥奪され、最下級の庶人に落とされたうえで、能うかぎり最も屈辱的な方法で死が与えられる――。
それこそが『帝国』の厳粛なる法であり、恐怖こそが支配の根幹であった。
「……ご随意になされませい」
州牧が示した意外な従順さに、その場にいた誰もが驚かずにいられなかった。
悪あがきはかえって命取りになると悟ったか。あるいは、万に一つででも助命の可能性に賭けて忠良な臣下を装おうというのか。
先ほどまでの傲岸不遜な態度はすっかり影を潜め、心なしかその肥えた体さえ一回りちいさくみえる。
「私も『帝国』と皇帝陛下にお仕えする身。裁きは謹んで受ける所存にございます――」
パトリキウスは深々と頭を垂れてみせる。いやに芝居がかった挙措だった。
アレクシオスとオルフェウスが奇妙な振動を感じたのは、まさにそのときだった。
振動はかれらの足元よりずっと深い場所で起こったようであった。
同じころ、舞台のさらに上方で、ラフィカもまた奇妙な音を感じ取っていた。
観客たちは言うまでもなく、ラフィカの傍らにいるルシウスとヴィサリオンも何も感じていない様子であった。
ラフィカが観客席でそれを察知できたのは、常人よりもずっと鋭敏な聴覚を持っていたためだ。
地鳴りにも似たその音は、わずかずつではあるが、しかし着実に大きくなっている。
アレクシオスとラフィカが同時に異変を告げようとした、まさにその時だった。
パトリキウスはやおら立ち上がり、ルシウスに向かって口を開いた。
「ところで、殿下にはご存知でしたかな。罪とは、その証が白日の下に引き出されて初めて認められるもの」
「……何が言いたい、パトリキウス」
「ここですべてを洗い流せば、もはや我が罪を知る者はおりますまい?」
州牧はにんまりと相好を崩す。醜い笑顔であった。
「文字通り、すべてを跡形もなく水に流すといたしましょうぞ」
言って、傍らのカミラに何かを指示したかと思うと、ずん……と重い音が闘技場のそこかしこで沸いた。
間髪を置かずに観客たちから悲鳴が上がったのは、外部へと通じるすべての通路が閉ざされたことに気づいたためだ。観客席の東西南北にそれぞれ設けられていた四つの扉は、今やそのどれもが外側から強固に封じられている。
「この期に及んで何のつもりだ?」
「ご存知ですか、皇太子殿下。古帝国の時代、闘技場で行われていたのは剣闘士の試合や戦車競走だけではありませぬ。時には舞台に水を張って
得々と語るパトリキウスの言葉は、しかしルシウスにはほとんど聞き取れなかったはずだ。
闘技場の壁の各所からどっと水が噴出したのは、まさにそのときだった。
水は最下層の舞台へと流れ込み、あっというまにアレクシオスとオルフェウスの膝上まで達する。
突然の事態にすっかり恐慌状態に陥った場内をざっと見渡し、パトリキウスは呵呵と高笑いを上げる。
「この水は地下から汲み上げたもの。このまま浸水が進めば、いずれ闘技場のすべてが地の底に飲み込まれるという算段よ」
その言葉が届いているかどうかはもはや問題ではなかった。
遠からず死ぬ人間に説明したところで、そこに自己満足以上の意味はないのだ。
パトリキウスは勝ち誇ったような笑みを浮かべると、カミラとともに特別室の奥へと消えていった。
一方、闘技場の最下層――。
押し寄せる水勢のなかで、二人の騎士は辛うじて自立を保っていた。
「オルフェウス、掴まれ!」
胸元まで水に浸かりながら、アレクシオスはふたたび戎装する。
オルフェウスは言葉を返さなかった。
ただ、黒く分厚い甲冑に覆われた手にその白い指先を重ねただけだ。
互いに離れないよう強く手を握ると、アレクシオスは両足に意識を集中させる。
アレクシオスの推進器は、体内に取り込んだ酸素を圧縮・燃焼させることで推力に変換する。そのため酸素の乏しい水中では本来の性能を発揮できないのだ。
余分な重量が加わったこの状態で跳躍が可能か、どうか。
(たのむ――)
ごぼ、と足元で水音が立った。
同時に、水が激しく渦を巻きはじめる。
体内に残っていたわずかな酸素を用いて、観客席への跳躍を試みようというのだ。
水面下で轟音が沸き、水しぶきが上がった。
まとわりつく水を払うように、二騎の身体は高く舞い上がる。
ふとアレクシオスが下方に目をやると、つい先ほどまで足をおいていた舞台は無残に崩れ、底の見えない深淵が青黒い口を開けている。地下からの急激な取水に加え、跳躍が致命的な崩壊を誘発したことは明らかだった。
「――ありがとう。ここからは、もう大丈夫」
少女の身体は騎士のそれへと変貌を遂げていた。
紅と黒の騎士はどちらともなく手を離すと、それぞれ思い思いの姿勢で着地する。
と、アレクシオスは走ってくるヴィサリオンの姿を認めた。
「ヴィサリオン! 動けるのか?」
「ええ。私は心配いりません。……それより、殿下を!」
ルシウスは泰然と椅子に腰を下ろし、パニックに陥った観客たちを冷ややかに眺めている。上へ上へと逃げまどい、
「お言葉ですが、殿下。もう少しお慌てになった方がよろしいのでは?」
「慌ててどうにかなるならとっくにそうしている」
「ごもっとも……と言いたいところですが、高貴な立ち振舞いも時と場合によります」
ラフィカはわざとらしくため息をついてみせる。
軽口を叩きあっていられる状況ではないことは承知しているが、そこは慣れたものだった。
そうするあいだにも、闘技場の底に生じた大穴は急速にその大きさを広げつつある。すでに観客席の下層、そして塞がれた出入り口は水没した後だった。
このペースで崩壊が進めば、まもなく闘技場は深い水底へ呑み込まれるだろう。
地下水を引き入れる機構自体、謀反が露見しそうになった場合に備え、すべての証拠を隠滅するために仕組まれたものであったにちがいない。
人里離れた山奥の地下に作られた施設である。人知れずすべてを葬り去るにはこれ以上の好立地もない。
ルシウスは駆け寄ってくる二人の騎士をそれぞれ一瞥し、
「この場を切り抜けるためにはそなたらの力が必要だ。騎士が仕えるのはあくまで皇帝だが、今だけは余に従ってもらうぞ」
それが当然であるとでもいうような口ぶりで言った。
「御意のままに――」
アレクシオスはすかさず答える。
先ほどから遠目にその姿を認めていたとはいえ、アレクシオスにとってはまさしく雲上人だ。緊張が鋼の身体をますます強張らせたようであった。
「……私は何をすればいいの?」
いつの間にかアレクシオスの傍らに立っていたオルフェウスは、ルシウスを前に飄然と言った。
「オルフェウス、無礼だぞ!!」
「かまわぬ――今は礼法に拘泥している場合ではない」
ルシウスは事もなげに言うと、闘技場内の二箇所を指差してみせた。
ひとつは南東に面した壁面。
もうひとつは、最上部に設けられた特別室であった。
「オルフェウス、あの壁を壊せ。そこから外に出られるはずだ」
真紅の騎士はこくりと頷く。
「そしてアレクシオス、そなたはパトリキウスを追え。絶対に奴をここから逃がすな。生かすも殺すもそなた次第だが――」
「必ず生け捕りにしてまいります!」
「いい返事だ」
意気込んで答えたアレクシオスに、ルシウスはふっと口元を緩ませる。
「ラフィカ、お前もアレクシオスと共に行け」
「殿下をお守りするのが私の役目ですよ」
「最強の騎士がついているのだ。この上我が身に何の心配がある?」
そんな主従のやり取りを耳にして、ヴィサリオンも「微力ながら……」と警護役に名乗りを上げる。いかにも文官然とした優男が戦力としてあてになりそうもないのは誰の目にも明らかだったが、ルシウスはただ頷くだけだった。
ルシウスはあらためてアレクシオスとオルフェウスに視線を向ける。
異形の騎士を前にしているにもかかわらず、その目にはわずかな恐怖も嫌悪も浮かんでいない。
「今はそなたら騎士の力が頼りである。両名とも、存分に己が務めを果たせ」
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