第93話 紅の追憶 (二)

 時刻はとうに夜半を過ぎていた。


 北の最辺境の夜はこの世でもっとも冷たく、そして暗い。

 茫漠と広がる地平には、要塞とその周辺に築かれたいくつかの砦を除いて灯りも見当たらない。かつて近傍に存在していたいくつかの植民市や小集落は、戎狄バルバロイの出現を機にことごとく放棄された。それからというもの、北方辺境は文字通り人の住まない不毛の大地と化したのだった。


 マリウスとカルルシュは、要塞の一室でちいさなテーブルを囲んでいた。

 カルルシュの私室である。一般の兵士が兵舎で寝起きするのに対して、将校には個室が割り当てられるのが辺境軍の慣例だった。


 壁に据え付けられた暖炉のなかでは、熾き火があかあかと燃えている。

 カルルシュは陶製の酒器を傾け、手元の盃になみなみと酒を満たす。

 すでに何杯飲んだかも覚えていない。日暮れすぎに戦場から戻ってからというもの、この調子で盃を重ねつづけている。


 最辺境において、酒はただでさえ貴重な嗜好品である。

 兵士たちには慰労のために支給されるが、その量は微々たるものだ。日々の戦いを生き残った報酬としてははなはだ不十分と言うほかない。

 だが、西方人の高級将校ともなれば、やろうと思えばいくらでも融通はきくのだ。後方との連絡を担当する兵士にいくらか袖の下を渡して買い付けさせることもある。そうして集めた酒は、いまや一人では到底飲みきれないほどの量に達していた。


「……そのくらいにしておいたらどうだ」


 マリウスが見かねたように声をかけた。


「なんだ――俺の心配をしてくれるのか?」

「それもある。だが、その前に私たちは軍人で、ここは戦場だ。もしいま出撃を命じられたらどうする? そんなざまで軍人としての務めが果たせるとは思えん」


 マリウスの言葉に、カルルシュは小さく吹きだす。

 盃に残っていた酒をひと息に飲み干すと、やがて堰を切ったように笑い声を立てはじめた。


「それならなおさら無用の気遣いというものだ。そんなことより、貴様もすこしは飲んだらどうだ。俺たちがいくら酔いつぶれようと、がいれば何の問題もない。さっき見たばかりだろう?」


 投げやりに吐き捨てたカルルシュの青白い顔は、朱に染まるどころか、酔うほどにますます血の気が失せていくようであった。

 あるいは、いくら痛飲したところで、もはや心底から酔うことなど出来ないのかもしれない。カルルシュの心には鋭い氷柱が突き立っている。決して溶けることのない氷柱が。

 マリウスは指を組み、暖炉の火を見つめる。


 真紅――。

 美しい少女が変じた異形は、まさにその色をまとっていた。


***

 

 異常。

 戦場のありようは、その一語に尽きた。

 マリウスは辺境軍の将校として、古帝国時代からまで、戦争に関する広汎な知識を学んできた。すべては指揮官として部隊を統率し、有事の際に皇帝と祖国のために働くためだ。


 太平の世に生まれた軍人の常として、いまだ本格的な実戦経験はない。それでも、戦争、そして戦場がどのようなものであるかについては、自分なりに知悉しているつもりだった。

 眼前で繰り広げられた光景は、そんなマリウスの戦争観を打ち砕くのに十分だった。


 戎狄バルバロイと辺境軍とのあいだで行われていたのは、およそ戦争と呼べるものではなかった。

 戦略も戦術も、人間との戦いにおいてのみ通用するものだ。辺境軍の練度は決して高くはない。だが、たとえあの場にいたのが中央軍の最精鋭だったとしても、結果は変わらなかったはずだ。


 一方的な虐殺だった。

 隊列は為す術もないまま崩され、陣地のそこかしこで悲鳴が上がった。遠目にも雪原が赤く染まっているのがみえた。人間の血。兵士たちはただ殺されるためだけにそこにいた。


 わずか数時間前のことだ。


 戦場を蹂躙する戎狄バルバロイの奇怪な姿形も、いまとなっては霞んでいる。

 思い出そうとしても、マリウスの瞼には、オルフェウスと呼ばれた少女のあざやかな後ろ姿が焼き付いて離れない。

 カルルシュが『行け』と命じたのと、オルフェウスが馬車の荷台を飛び出したのは、はたしてどちらが疾かったのか。

 少女は空中で真紅の異形へと変貌し、着地と同時にを開始した。

 その瞬間から始まったのは、やはり戦闘と呼べるものではなかった。

 つい数秒前まで兵士たちを殺戮していた戎狄は、少女のまえに累々と屍を重ねていった。

 なんのことはない。たんに虐殺の対象が切り替わったというだけのことだ。いずれにせよ、それはマリウスの知る戦争とはかけ離れていた。


 結局、戦場から戎狄が一掃されるまで数分とかからなかった。

 巨大な戎狄は砂粒みたいに崩れ、跡形もなく消え失せていった。

 すべてが終わったあとに残されたのは、雪原に撒き散らされた人体の残骸と、血だるまになって呻吟する負傷兵だけだ。オルフェウスは足元で苦しむ彼らには目もくれず、悠揚迫らぬ足取りで戻ってくる。

 言葉を失ったまま立ち尽くすマリウスに、カルルシュは皮肉に満ちた薄笑いを向けた。


――貴様もよく分かっただろう。これが俺たちの戦場だ。何もかも狂っているのさ。


***


 ふと窓の外に目を向けると、白いものがちらついている。

 雪。北方辺境では珍しくもないが、はらはらと舞い落ちる雪片は、南部出身のマリウスの目にはなんとも奇異なものとして映った。


 南では数日ごとの激しい驟雨スコールが大地を洗う。

 しかし、どれほど降り積もっても、雪は戦場の血を洗い流すことはしないだろう。ただ覆い隠すだけだ。まっさらな大地の下には、惨たらしいものが眠りつづける。

 戎狄バルバロイ、そして戎装騎士ストラティオテスの存在もおなじだった。


 この戦場で起こっていることは、決して表に出ることはない。

 辺境軍の将校であるマリウスでさえ、どうやら予想外の苦戦を強いられているらしいと仄聞するだけだったのだ。


 苦戦――いま思えば、その言葉のなんと生ぬるいことか。

 得体の知れない怪物によって友軍が虐殺されているなどとは、実際に最前線に足を運ぶまで知る由もなかった。今日の戦いにしてもそうだ。もしオルフェウスが現れなければ、前線は総崩れになっていたにちがいない。


「彼女は……戎装騎士ストラティオテスとは、いったい何なんだ」


 マリウスはしぼり出すように問うた。

 カルルシュは盃を唇から離すと、マリウスを横目で睨む。


「知るものかよ――俺が聞きたいくらいだ。あの連中が何者で、どこからやってきたのか? なにもかも分からないことだらけさ。俺はあれを上手く使うように上層部うえから押し付けられただけだ」

「しかし、彼女は窮地に陥っていた味方を救ってくれた。私たちを助けようとしてくれているんじゃないのか?」

「たしかにあれは人間は襲わない。殺すのは戎狄バルバロイだけだ」


 カルルシュの目に暗い光が灯った。


「……あれがこの戦場にやってきてまもないころだ。深手を負って半狂乱になった兵士が――前線ではよくあることだ。剣を振りかざして、見境もなくあれに斬りかかってきた。向こうから仕掛けてきたなら、返り討ちにしても咎められることはない。そのとき、あれはどうしたと思う?」

「殺したのか? ……その兵士を……」

「そうであればまだよかったんだがな」


 飲みさしの盃をテーブルに置いて、カルルシュはなおも続ける。


「何もせず、ただ斬りつけられるに任せていたんだよ。もっとも、剣であれを傷つけることなど出来はしない。戎狄バルバロイに歯が立たないのと同じようにな」

「その兵士はどうなったんだ……?」

「俺が殺した――」


 こともなげに言うカルルシュに、マリウスはただ俯くばかりだった。

 戦場で味方に攻撃を仕掛けることは、あきらかに軍規に反している。将校による処刑は妥当だ。

 しかし、いま重要なのは、そこではない。


「あれはそうまでされても人間に危害を加えないということだ。俺に言わせれば、そっちのほうがよほど不気味だ。だってそうだろう。軍馬や騾馬には目もくれず、人間だけを選んで殺す戎狄バルバロイと、正当な理由があっても人間を殺そうとしないあいつ。奴らはまるで鏡写しじゃないか?」


 マリウスは何も言わなかった。

 無言で盃を傾けていたカルルシュだったが、ふいに空の盃を掴むと、マリウスの前に置いた。


「貴様も一杯くらい付き合えよ。昔は気を失うまでっただろう」

「私は遠慮しておく。明日はこの要塞の司令官に着任報告に行かなければ――」

「来た道をはるばる戻るつもりか? ご苦労だな」

「なに?」


 予想していたとおりの反応に、カルルシュはくっくと肩を震わせる。


「貴様を迎えにやらせた街に大きな城があっただろう。あれがこの前線のだ。我らが偉大なる司令官閣下と賢明なる副官がたはそこから一歩も動かん。よりにもよって戦場から馬車で二日もかかる場所にとはな。笑わせてくれる――」

「バカな……」

「本当だとも。司令部には戎狄バルバロイを実際に見たことがある人間は何人いるのかな」


 すっかり言葉を失った様子のマリウスを眺めながら、カルルシュは目を細める。まるで最高の肴を得たとでも言いたげだった。


「さすが上層部うえは賢いよ。いいか、この戦争はな、怪物バケモノ怪物バケモノの戦いなんだ。俺たち人間は蚊帳の外さ。たまたまこの場所が奴らの殺し合いの舞台に選ばれたというだけだが、たとえ領土の端であっても国家としては見過ごせない……」


 おどけているようでいて、いまにも泣き出しそうな声でカルルシュは言う。


「兵士は『帝国』の体面を保つため、無意味に殺されるためだけに送られてくる。将校おれたちもおなじだ。間違っても手柄を立てようなどとは思わないことだな」

「そんなことはない……死んでいった兵士たちは、祖国のために生命を……」

「だまれ! 昨日今日ここに来たばかりの貴様に何が分かる!!」


 鋭い音が響いた。カルルシュが盃を勢いよく床に叩きつけたのだ。

 投げつけたまま体勢を崩しかかっているのは、全身に回った酔いのためだ。


「……よく聞け、マリウス。せいぜいあの怪物バケモノを上手く飼いならすことだ。この狂った戦場から生きて帰りたいなら、あれに頼るしかない……俺も、貴様も……」

「すこし飲みすぎたな。寝床まで肩を貸そう」

「余計なお世話だ……」


 マリウスはほとんど横抱きの格好でカルルシュを持ち上げると、隣の部屋の寝床へと向かう。

 そのあいだも、酒臭い息を吐きながら、カルルシュは熱に浮かされたみたいにぶつぶつと呟いている。


「なあ……俺の手足はついてるか……?」

「ああ。手も足もちゃんとついているから心配するな」

「違う……俺には、もう手も足もないんだよ……戦場で失くした……なにもかも……」

「そのときはこうして支えてやるよ」


 寝床に横たえられたカルルシュは、ほどなく寝息を立てはじめた。

 マリウスは部屋を出かかったところで、ふと椅子にかけられたままになっている軍服の上衣に気づく。

 混沌とする記憶のなかから、要塞の地下での出来事を能うかぎり鮮明に思い出そうと努める。

 あのとき、カルルシュは右の衣嚢ポケットから鍵を取り出していた。


 魔が差した――言い訳としては、多少苦しい。


***


 翌日の早朝――。


 マリウスの部屋の前で時ならぬ騒音が生じた。

 その音は少なからぬ将校を叩き起こしたらしい。何事かと顔を出した彼らは、しかしすぐに部屋に引っ込んでいった。

 血相を変えてドアを叩くカルルシュを認めたためであった。

 要塞に勤務する将校のあいだで、カルルシュの名は知れ渡っている。

 むろん、悪い意味でだ。

 眠りを妨げられたことには業腹でも、そんな男と積極的に関わり合いになろうとする者は皆無だった。


「マリウス!! 出てこい!! そこにいるのは分かっているんだぞ――」


 カルルシュもそれを承知しているのか、遠慮なく怒鳴り散らす。

 と、ふいにドアが開いた。


「おはよう。あれだけ飲んだ割には寝覚めがいいんだな」

「そんなことを言っている場合か? 貴様、あれが消えたことは知っているのか!?」

「ああ、もちろん知っている」


 マリウスは悪気もなく言いのける。

 すっと指さした先にあるものを認めて、カルルシュは絶句した。

 カルルシュが怒声を張り上げようとしたところで、機先を制するように言葉を発したのはマリウスだった。


「おまえも”お針子”の腕前はご存知だろう? ……どうかな、『新作』の出来栄えは」


 ”お針子”――それは、マリウスのかつてのあだ名だ。


 辺境軍の将校の多くは、各地に存在する軍学校の出身である。マリウスとカルルシュもむろん例外ではない。

 未来の将校とはいえ、彼らはあくまで見習いにすぎない。在学中の教官や先輩学生からの指導は苛烈をきわめる。

 軍人として修めるべき学業や武芸の鍛錬は言うに及ばず、指導の範囲は生活態度全般に及ぶ。


 マリウスとカルルシュが在籍していた軍学校は、軍服の管理に関してとくに厳しいことで有名だった。

 もし軍服のほつれや破損が教官や上級生に見つかったなら、その場で容赦ない制裁が加えられるのが常だった。

 マリウスが同期生のあいだで”お針子”と呼ばれたのは、彼が裁縫仕事に抜群の才能を発揮したからにほかならない。

 軍服のほつれどころか、片袖が取れた程度であればたちまちに修復してしまう。在学中は何人の同期が泣きつき、すんでのところで制裁を免れたか知れない。カルルシュは世話になったことこそなかったが、その腕前はだれよりもよく知っている。


 いま――亜麻色の髪の少女は、窓際に佇んでいる。


 むろん、全裸ではない。大きさの合わない野戦外套をまとっている訳でもない。

 華奢な肢体がまとうのは、身体に合った清楚な白いドレスだ。


 マリウスは予備のシーツを器用に裁ち切り、縫製し、即席のワンピースドレスへと仕立て上げたのだった。

 古帝国風の衣装。理想的な西方人の特徴を備えたオルフェウスが身につけたなら、殺風景な要塞の部屋もまるで神話の一場面みたいにみえる。


「マリウス、貴様、いったいどういうつもりだ――」

「今日から私があの娘を使うことになると言ったのはおまえだろう」

「分かっているのか!? あれは危険な怪物なんだぞ! 檻に入れて水の中に沈めておかなければ、とても……」

「彼女は決して人間に危害を加えないと言ったのもおまえだ」


 それきり、カルルシュは二の句を継げなくなった。

 口いっぱいに酢を含んだような表情は、言い負かされた証だ。


「とにかく、彼女は私が責任を持って監督する。そのためにここへ呼んだのだろう。だったら、信じて任せてくれ」

「勝手にしろ!!」


 言い捨てたが早いか、カルルシュは床を蹴立てるように踵を返した。

 その背中が廊下の角を曲がるのを見届けたあと、マリウスはオルフェウスに向き直る。


「……すまない。今日まで君にはたくさんの非礼があったと思う。あれでも私にとっては昔馴染みの友人なんだ。彼に代わって謝罪させてほしい」


 オルフェウスは答えなかった。


 真紅の瞳をマリウスに向けたまま、呆けたように立ちつくしている。

 どこか間が抜けたような姿も、この少女においては生まれ持った美しさをいっそう引き立たせるだけだった。


「本当は君のような女の子を戦わせるべきじゃない――それは私も分かっている。でも、いまの私たちには君の力が必要だ。だから……」


 マリウスはオルフェウスの前に進み出ると、恭しく膝を突いた。


「君の力を私たちに……私に貸してくれないか。道具や兵器としてではなく、ともに戦う仲間として――」


 オルフェウスは沈黙している。

 拒絶するでもなく、かといって肯定するでもない。

 あるいは、そのどちらも少女は持ち合わせていないのかもしれなかった。


 気づけば、窓の外では太陽が昇っている。

 最辺境の夜はもっとも寂しく、その朝はこの世でもっとも美しい。


 陽射しを背負った亜麻色の髪は、どこまでもまばゆく輝いていた。

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