第94話 紅の追憶 (三)
「”お針子”の次は教師の真似事か?」
西陽の差し込む部屋に二人の男と一人の少女はいた。
黒緑色の髪の男は、つい今しがた部屋を訪れたばかりであった。
もともと部屋にいた赤金色の髪の男は、手にしていた白墨を机の上に置くと、ふうとため息をつく。
「これはこれは。嫌味を言うためにわざわざこんなところまで足を運んでくださるとは、参謀補佐殿には頭が下がります――」
「参謀補佐代理だ。それで、貴様は待機中になにをやっている?」
「お察しのとおり、教師の真似事だよ」
マリウスはふたたび白墨を取ると、黒い書字板の上に文字を書き連ねていく。
帝国共通語。古帝国において発明されたそれは、いまなお東西世界の共通言語として用いられている。
マリウスが書字板に書いてみせたのは、もっとも基本的な文法の例だった。三、四歳の子供に読み書きを覚えさせるときに用いられるものだ。
「無駄な真似はよせ、マリウス。そいつは人間じゃない。
「参謀補佐代理殿を軍人の
「死を恐れない勇気と、国家と皇帝陛下への揺るぎない忠誠……」
「あとひとつは?」
「……知恵だ」
カルルシュは苦りきった顔で呟く。
「そのとおり。彼女は優秀な兵士だが、あまりにも知識が不足している。こうしてさまざまな事柄を知ることは、ゆくゆくは国家の利益にも繋がる……そうだろう?」
「そいつは兵士じゃない。長槍や投石機とおなじ『武器』だ。武器は人間に使われていればいい。知恵も知識も必要ない」
「私の知っている槍や投石機は人の姿をしていない」
ぴしゃりと言って、マリウスはふたたびオルフェウスに向き直る。
少女の白く細い指が何度も書字板のうえを往復する。マリウスは自分が書いた文字をオルフェウスになぞらせ、その意味を理解させているのだ。
「彼女は覚えがはやい。もう簡単な文章を読み書きすることもできる」
「そいつは貴様の真似をしているだけだ」
「誰かの真似をして成長するのが人間というものだろう?」
カルルシュはそれきり何も言わなかった。
規則的な音が部屋に響いた。白墨が書字板とすれあい、すこしずつ削れていく音だ。
掌のなかにあるものを削っていくこと。
それは、少女が戦場で数えきれないほど繰り返してきた行為だ。
しかし――その意味合いはまるでちがう。
ひたすら
***
監督役がマリウスへと引き継がれたあとも、オルフェウスの日常は変わらなかった。
出撃命令が下るのは、前線の部隊が戎狄を食い止めきれず、後方への突破を許したときだけだ。人間はもとより戦力に含まれていない以上、それは最前線に配置された戎装騎士が敗れたことを意味している。
戦線の崩壊を食い止めるために満を持して投入される、文字通りの切り札。
他の戎装騎士の手に負えない戎狄も、オルフェウスにとってさしたる脅威にはなりえない。
要請があれば北方辺境の全域にまたがる広大な戦線のどこにでも赴き、最後の一体を殲滅するまで戦う。
昼も夜も、晴天だろうと吹雪だろうと関係なかった。いつ如何なるときも少女の使命に変わりはないのだ。
そうした日々の営みは、オルフェウスがこの戦場に送られてからずっと続いている。
それでも、マリウスの赴任を境にはっきり変わったこともいくつかある。
――もう鉄檻に入れられて水中に沈められることがなくなったこと。
――あたたかい食事と少女らしい衣服を与えられるようになったこと。
――戦いがない時には文字を習い、この世界についてすこしずつ理解しはじめたこと。
玲瓏な顔は以前と同じように無表情を保ったまま、感情を表に出すこともない。
年頃の少女らしい笑顔を見せることもなければ、これまで受けてきたむごい仕打ちの数々に悔し涙を流すこともない。
傍目には何ひとつ変わっていないように見えたはずだ。少女は変わらず美しく、そして非人間的であった。
少女の内面に兆したかすかな変化に気づいたのは、長い時間をともに過ごした者にかぎられる。
数千人からの将兵がひしめく要塞のなかで、それはわずかに二人だけだ。
ひとりは現在の監督役であり、オルフェウスを取り巻く環境を変えた張本人であるマリウス。
そして、もうひとりは――。
***
「……いい加減、あの
カルルシュは盃を口に運びながら、ぼそりと呟いた。
どこまでも苦々しく、棘のある言葉。それは人を刺すための形のない凶器だ。
そんなものを口に含んだままでは、酒の味も分からないはずであった。
「貴様がいくら人間のように扱ったところで、怪物は怪物だ。人間の娘になる訳じゃない」
「おまえはいつもあの子のことばかり考えているんだな」
マリウスは呆れたように苦笑する。
あの日の夜とおなじように、二人はカルルシュの私室で
「あの娘を不憫がり、優しく接してやることで聖人にでもなったつもりか? 笑わせてくれる」
「おまえのほうこそ――わざと酷い仕打ちをしているように見えた」
「ああしてやる方があれにとっては幸せなんだ」
カルルシュは卓に拳を叩きつける。
「あれに……
「もう用済みになると言いたいのか?」
「そのとおりだ。この『
カルルシュは皮肉っぽい薄笑いを浮かべる。
『帝国』の歴史を紐解けば、悲惨な末路をたどった軍人の例は枚挙にいとまがない。
救国の英雄と讃えられた将軍は、時の皇帝に疎んじられ、ついには無実の罪によって処刑された。ようやく名誉回復が行われたのはそれから数百年が経過した後のことだ。
人間ですらそうなのだ。まして、ヒトならざる戎装騎士ともなれば――。
「どうせ人間として扱われないなら、最初からそうしてやるのが奴らのためだ。下手な温情などかけるべきじゃない」
「それでも……私は、自分のしていることが間違っているとは思わない」
「勝手にするがいいさ。それがどんなに残酷なことか、あとになって後悔してももう遅い」
カルルシュは言葉を切ると、ふたたび盃に酒を注ぎはじめる。
マリウスはしばらく押し黙っていたが、ふいに顔を上げると、カルルシュを真正面から見据えた。
「たとえ残酷でも、私は彼女に人間らしくあってほしいと思うよ」
「それでどうなる。余計に苦しませるだけだ。鼻持ちならない偽善者め――」
「その偽善者をわざわざ呼びつけたのはおまえだ」
マリウスは力強く言い切った。
「おまえはこうなることを承知で私をキュレオナイから呼んだんじゃないのか? 口先ではそう言いながら、本当はあの子が変わることを望んでいた……」
カルルシュは答えようとしなかった。皮肉な笑みはすでに消え去っている。盃を置いた。
二人の男のあいだを沈黙が埋めた。水のなかにいるような心地。どちらも言葉を発することなく、ただ時間だけが流れていく。
いつのまにか、外の景色は白く染まっている。
「……見透かしたようなことを言う。俺は貴様のそういうところが昔から気に入らなかった」
「おまえの考えていることくらい分かるさ」
短い言葉を交わしたあと、ふたたび沈黙が二人を覆う。
どちらも席を立とうとしないまま、最辺境の夜は更けていった。
***
戦いを終えた兵士はひどく汚れているものだ。
勝ち戦にせよ負け戦にせよ、その点に関しては大差はない。
少女は例外だった。
戦いから戻った身体には、わずかな汚れも見当たらない。
どれほど激しく戦っても、透き通る白皙の肌は美しいままだ。
「ただいま、マリウス――」
その美貌に似合う涼やかな声で、オルフェウスは戦場からの帰還を告げる。
「おかえり。今日の戦果はどうだった?」
「二十五体」
要塞の正門で出迎えたマリウスに、オルフェウスは手短に報告する。
相変わらず無表情のままだ。その顔は勝利の喜びに弾むこともなければ、赫々たる戦績を誇ることもない。
代わりにマリウスがよろこんでくれる。
「すごいじゃないか。怪我はしていないか?」
「大丈夫――」
「それならよかった。お腹が減っただろう。戻って昼食にしよう」
オルフェウスはマリウスに続いて要塞に入っていく。
騎士は空腹感を覚えることはない。活動に必要なエネルギーは体内で際限なく生成される。
消化や排泄といった戦いに不必要な機能はもとより持ち合わせていない。
取り込まれた食物は体内で分解され、燃焼され尽くしたあと、体表から発散される。竈に放り込んだのとおなじだ。何を食べたところで身体機能の維持にはなんら寄与することはない。
それでも、オルフェウスは食事を拒むことはしなかった。
何も食べずにいると、この人が心配そうな顔をするから――。
一緒に食事をすると、この人がうれしそうな顔をするから――。
ただそれだけだった。
マリウスの部屋に戻り、二人で食事をとる。
将校用の食事は、兵士のそれに較べるとすこしだけ豪勢だ。
兵士たちには冷たい塩漬け肉が供されるのに対して、こちらの主菜は温かい肉料理だった。
「美味しいかい?」と尋ねられ、オルフェウスは無言で頷く。これも学習の成果だった。
実際の味がどうであれ、こういうときはこうするのがいい。
マリウスとの生活を通して、オルフェウスは人間らしい反応を学んでいった。
行動という名の無数の引き出しのなかから、最適なものを取り出す。その繰り返し。マリウスの反応を観察しながら、オルフェウスは少しずつ最適解を蓄積していく。
しかし、どれほど努力しても、表情を変えることはどうしても出来なかった。
そのために必要な機能が備わっていないためだ。
理由はオルフェウスにも分かっている――無駄だからだ。泣いたり笑ったりすることは、戦闘には必要ない。
もっとも、いまではオルフェウスも改善する必要をさほど感じていない。
無表情のままでもマリウスはとくに咎めることもせず、悲しむこともない。
だから、これでいい。
この人が何も言わないなら、きっと何の問題もないはずだった。
「戦場はどうだった?」
食事を終えたあと、マリウスはオルフェウスに問いかけた。
「いつもと変わらないよ」
「変わらない……というのは?」
「
「戦場にいたのは
「人間……」
「そういう言い方はやめなさい。君もりっぱな人間だ。彼らと同じなんだよ」
「味方――大勢死んでた」
オルフェウスはこともなげに言う。
玲瓏な声音は、どこまでも冷たく、そして抑揚に乏しい。
「君はそれを見てどう思った?」
「どう――って?」
「どんなことでもいい。彼らを見て思ったことがあるなら、それを私に教えてくれないか」
オルフェウスは真紅の瞳をマリウスに向けたまま、わずかに首を傾げた。
「……分からない」
とぼけている訳でも、はぐらかしている訳でもない。
それが偽らざる感想だということを、マリウスは理解していた。
「よく聞きなさい。君はたしかに強い。この戦場で誰よりも多くの戎狄を仕留めている。しかし、それだけでは不十分なんだ」
「…………」
オルフェウスはだまって耳を傾けるばかりだった。
マリウスの言葉に対して、どの引き出しから反応を取り出せばよいものか分かりかねている。少女にとってまったく未知の状況なのだ。
「敵を倒しても、味方が全滅したら意味がない。それが戦いというものだ」
「戎狄を倒すだけじゃ、だめ――?」
「そうだ。君が到着したときには、もう助からない兵士も多いだろう。それでも、まだ戦場には生き残っている兵士もいるはずだ。ただ戎狄を倒すだけでなく、彼らを救うことも考えてほしい」
「……なぜ?」
オルフェウスは即座に問い返す。
純粋であるがゆえに、その言葉はどこまでも残酷な響きを帯びる。
マリウスは深く息を吸い込むと、
「……一度死んでしまった人間は生き返ることはないからだ」
言葉を区切りながら、目の前の少女に語りかける。
「兵士たちの一人ひとりに故郷で待っている家族がいる。親兄弟に友人、恋人、妻や子供……みんな生きて大事な人のところに帰りたいと思っている。死んでしまえば、それも叶わなくなるんだよ」
「分からない――」
マリウスははっと息を呑む。
少女に家族はない。友もいない。人を愛することを知らない。
オルフェウスにとって、戦場で目にする兵士たちは、言うなればただそこにいるだけの物体にすぎない。
危害を加えもしなければ、あえて守ることもしない。血迷った兵士に斬りかかられた一件にしても、少女はたんに無視しただけなのだ。
彼ら一人ひとりに家族があり、来し方行く末があることなど、少女にはまったく想像の埒外であるにちがいなかった。
「……私も彼らと同じだ。故郷に家族を残してきた。出来るならこの戦場から生きて帰りたいと思ってる」
「心配いらない。私が戎狄を倒すから――」
「お願いだ。戦場にいる味方を私だと思って助けてやってくれ」
「あの人達はマリウスじゃない」
マリウスはそれきり言葉を継ぐことが出来なかった。
人間らしい心が芽生えつつある――そんな甘い考えをあっさりと打ち砕くような返答だった。
オルフェウスは、自分のことは大事に思っているのだろう。それは分かっている。
だが、対象が人間全般に及んだとき、目の前の少女は途端に非人間的な反応を示すようになる。
愛情――そう表現することも出来なくはない。
言ってみれば、それは猟犬や馬が主人に忠誠を尽くすのと変わらない。犬馬が主人以外の人間には懐こうとしないように、オルフェウスもマリウス以外の人間にはまるで興味を示していない。
マリウスはオルフェウスの主人になりたい訳ではなかった。そのように考えたことは一度もない。
マリウスが少女に願ったことはひとつだけだ。
一人の自我を持った人間として、『帝国』の兵士として、この世界と人間を守るために戦うこと。鉄檻から出したのも、読み書きを教えたのも、すべてはそのためだった。
それとも、カルルシュが言うように、自分のしてきたことはやはり無駄だったのか――。
「……すまなかった。今日は疲れただろう。次の命令があるまでゆっくり休みなさい」
オルフェウスはこくりと頷く。
その背中が遠ざかるのを見つめながら、マリウスはひどく疲労していることを自覚する。
――人間ではないものを人間らしく扱おうとしたからだろうか?
ふと胸のうちに浮かんだ言葉をつよく否定する。
それを肯定してしまえば、自分は二度とオルフェウスと向き合う資格を失うような気がした。
マリウスはおぼつかない足取りで窓に近づき、外の景色をみる。
気を紛らわせるものなどなにもないことはむろん知っている。
分厚い雲に閉ざされた灰色の空と、どこまでも続く荒涼とした大地。
いまのマリウスの心を映し出したように、北の天地はただ寂寞と広がっていた。
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