第95話 紅の追憶 (四)

 深夜――。


 兵士たちが眠りにつく時間になっても、要塞の内部ではまだかなりの数の将校が動き回っている。

 不測の事態は時を選んではくれない。夜更けだろうと早暁だろうと、戎狄バルバロイは人間の都合などおかまいなしに襲ってくる。

 前線からもたらされる急報にそなえ、当直の者が不寝番ねずのばんをするのは当然だ。


 だが、いま起きている顔ぶれを眺めてみれば、それ以外の者のほうが圧倒的に多い。

 なにも好き好んでこの時間まで仕事場に残っているわけではない。

 彼らは割り当てられた仕事を終えるまでは自室に戻ることもできず、否応なしに仕事場に留まり続けているのだ。


 それも無理からぬことであった。

 なにしろ、広大な戦線を維持するために必要な事務手続きは膨大な量にのぼる。

 各戦線への兵站線の維持、部隊の編成、死傷者の把握と補充兵の手配……

 そこにへと日々送付する報告書の数々が加わったなら、仕事の量はとても常人の手には負えなくなる。

 処理しなければならない案件は次から次へと噴出し、将校たちの仕事は明け方まで及ぶことも珍しくはない。


 軍隊といっても、その本質はあくまで行政機関である。

 何かにつけて決裁と稟議を必要とするのは、帝都の諸官庁と変わらない。

 その意味において、事務方は最前線と並ぶもうひとつの戦場といえた。一日でも彼らの仕事が滞ればたちまち組織は錆つき、その機能を停止する。


 最辺境の要塞は決して眠ることはない。

 もしこの要塞のすべてが眠るときが来るとすれば――

 それは、戎狄の猛威をまえに陥落するときを置いてほかにないはずであった。


***


 まるい月が出ていた。


 一年を通して分厚い雲が空を閉ざす北方辺境にあって、月がこうもはっきりと姿を見せるのは珍しい。


 四方を城壁に囲まれた中庭は、忙しなく稼働しつづける要塞のなかにぽっかりと生じた空隙エアポケットとでも言うべき場所だった。

 地面はむき出しの土と芝生がちょうど半々。城壁の下には申し訳程度に樹木が植えられている。

 目につくものといえばその程度だ。とりたてて見るべきものもない空き地であった。

 普段は兵士の訓練や部隊の整列に用いられているが、こんな夜更けにわざわざ訪れる者はまずいない。


 それだけに、さやけき月光に照らし出されたふたつの影は、人間が滅び去ったあとの世界にぽつねんと取り残されたような風情を漂わせていた。


「……寒くないかい?」


 問われて、オルフェウスはふるふると首を横に振った。

 少女の麗しい顔はほとんどフードに隠され、丈の長い外套に包まれた細い肢体は、一見すると少年のようにもみえる。

 いずれにせよ類まれな美貌であることに相違はない。美しさの前に男女の別など些末な問題だ。さらに言えば、人間であるかどうかさえも。


「大丈夫――」


 例によってごく短い返答に、マリウスは安堵したように頷く。

 実際のところ、寒さを感じているのは彼のほうだ。南国育ちに北方辺境の冬はこたえる。かなりの厚着をしてきたつもりだが、身体の芯からじわじわと熱を奪われていくような感覚にはいつまでも慣れない。

 歯が鳴りそうになるのをこらえながら、マリウスはオルフェウスの前に立って歩きだす。

 霜が降りた地面は、ふたりが足を動かすたびにさくさくと軽妙な音を立てた。


 顔を隠した少女を引き連れた、それはなんとも奇妙な『散歩』だった。

 一日の仕事を終えたあと、どちらともなく連れ立って外に出る。

 今日で何度目になるだろうか。オルフェウスは正確な回数を記憶しているかもしれないが、マリウスはあえて問う気にもなれなかった。


 場所は要塞の中庭。

 時間は兵士たちが寝静まった真夜中。


 最初からそれだけは変わらない。

 極力人目につかないようにとの気遣いであった。


 いくら戎装騎士ストラティオテスとはいえ、年若い少女――それも、だれもが息を呑むほどの美貌の持ち主ともなれば、好むと好まざるとにかかわらず人の耳目を集めずにはいられない。


 男だけの集団である軍隊において、それがどのような意味を持つか。

 おなじ組織に身を置く者として、将校のマリウスにも兵士たちの心はよく分かっている。

 普段は善良な人間も、戦場という極限状態のなかではたやすく理性を失うものだ。

 そして、ひとたび理性を失った人間は、もはや本能に逆らえない。

 下卑た視線を向けられるだけならまだしも、よからぬ企みを画策する不埒者が出ないともかぎらない。オルフェウスが人間に何をされても抵抗しないとなればなおさらだった。


 カルルシュがオルフェウスを鉄檻に閉じ込め、水中に沈めるという常軌を逸した行動に出たのも、あいつなりに彼女の身を慮ってのことだったのかもしれない――。

 ふと脳裏をかすめたそんな考えを、マリウスは必死に打ち消す。

 たとえどんな理由があろうと、あんな真似が許されるはずはない。

 カルルシュの行為にわずかでも理解を示すことは、オルフェウスの尊厳を踏みにじることにほかならない。

 他の人間はどうあれ、自分だけは何があろうと否定しなければ――。


「マリウス、どうしたの?」


 オルフェウスはフードに覆われた顔をわずかに向ける。

 相も変わらずの無表情だが、どうやら彼女なりにマリウスを心配しているらしい。

 心のなかを覗き込まれたようで肝を冷やしたが、それも一瞬のことだ。すぐに笑顔を浮かべ、『なんでもないよ』と努めて明るい声で答える。


 オルフェウスはちいさく頷いただけだ。

 どちらも押し黙ったまま、ただ中庭を歩く。

 霜を踏みしだく小気味いい音は、鳴ったそばから冷えきった空気に溶けていくようだった。


 と、マリウスが小走りに駆け出した。

 月明かりに照らされた庭の片隅になにかを見つけたらしい。


「おいで――」


 手招きするマリウスにむかって、オルフェウスはゆっくりと近づいていく。

 マリウスが指さした先にあるのは一輪のちいさな花だ。

 白く可憐な花弁は提灯みたいに垂れ下がっている。城壁にちかい地面にひっそりと咲いた花は、だれにも気づかれることなく夜露に濡れていた。


「マツユキソウだ。このあたりの山でよく見かけると聞いていたが、要塞のなかに咲いていたとは知らなかった」


 オルフェウスは不思議そうに花を見つめている。

 なにか新しいものを見つけても、少女はただ真紅の瞳を向けるだけだ。決して手で触れようとはしない。

 まるで、自分が触れることで跡形もなく消えてしまうことを恐れているように。


「この花の名前だよ。教えるのはこれが初めてだったね」

「……よく分からない。ただの花とは違うの?」

「たしかに花は花だが、この世にあるものはそれぞれ名前があるんだ」


 マリウスの言葉に、オルフェウスは小首をかしげて考え込むような素振りを見せる。

 見えない引き出しを手探りに探っているのだ。反応を収めた無数の棚のなかから、少女はこの状況にもっとも適するものを取り出そうとしている。

 そのまえにマリウスが口を開いた。


「私は、君にいろいろな物の名前を覚えてほしいと思っている」

「なぜ――」

「この世界はちいさな物がたくさん寄り集まって出来ている。木が集まれば森になり、水が集まれば河や湖や海になる。この国にしても、大勢の人間が集まって出来ている。一つひとつの物の名前を覚えていくということは、世界を知るということなんだよ」

「世界を知って、どうするの?」

「それは……」


 マリウスはいったん言葉を区切る。

 やがて意を決したように息を吸い込むと、オルフェウスの瞳を真正面から見据えた。


「……世界を知ることは、自分を知ることだ。生まれた時から自分が何者なのか知っている人間などどこにもいない。だから、自分を取り巻く世界のことを知ろうとする。自分以外のものを知っていくうちに、自分という人間のかたちがすこしずつ分かってくる――」

「……私は人間じゃない」

「君は人間だ。人間ではないと言うなら、これからなればいい」


 あくまで力強く言い切ったマリウスに、オルフェウスはそれ以上言葉を返そうとはしなかった。

 少女は真紅の双眸を閉ざし、沈思する。目の前の人間が口にした言葉の意味を理解しようとしているのだ。


「この戦いが終わったら……」


 マリウスは夜空を見上げながら、独り言みたいにつぶやく。


「君を私の故郷ふるさとに連れていきたい。ここからずっと南にある都市まちでね。一年じゅう温かくて、そして自然が豊かな場所だ。花も木もこことは比べ物にならないくらいたくさんある」


 オルフェウスはしばらくマリウスをじっと眺めたあと、


「戦いが、終わる?」


 心底から不思議そうに問うたのだった。

 少女にとって戦いはすべてだった。戎狄を追って荒涼たる大地を駆け巡り、そして倒す。

 戦いが終わったあとには虚無だけがあった。

 言葉も知らず、文字も知らず、冷たい水のなかで次の戦いを待つ。

 日々はそんな単調な繰り返しのうちに過ぎていった。


 そう――あの日、マリウスに出会うまでは。


 いまでは戦いだけがすべてではないと知っている。

 マリウスが教えてくれたからだ。

 それでも、おのれの根幹を形作るその営みに終わりが来るとは、オルフェウスにはどうしても想像出来なかった。


「そうだ。北方辺境からすべての戎狄を一掃すれば、この戦いは終わる――」

「それは、いつ?」

「……分からない。それでも、きっといつか終わりが来る。そうなれば、もう戦場で戦う必要もなくなる。君も戎装騎士ストラティオテスとしてではなく、ひとりの人間として生きていくんだ」


 オルフェウスはやはり理解に苦しんでいるようだったが、マリウスの目にその様子は好ましい兆候として映った。

 悩むこと。考えること。それは人間として生きていくための第一歩なのだから。


 ふいに背後で足音が生じたのはそのときだった。


「月光の下で花を愛でるとは、風流なことだ――」


 振り返るよりさきに、芝居がかった台詞がふたりの耳に飛び込んできた。

 顔は見えなくても、皮肉をたっぷりと含んだ声音は聞き間違えるはずもない。


「……カルルシュ。おまえ、どうしてここに……」

「貴様のほうこそ、俺たちが仕事をしている最中にと逢引とはいいご身分じゃないか」

「なるほど。道理で今日は酔っ払っていないわけだ――」

 負けじと応じたマリウスに、カルルシュはちいさく舌打ちをする。


「自分の部屋にしけ込みたいのはやまやまだがな。に恵まれたおかげでこのざまだ。奴ら、自分たちの仕事まで俺に押し付けてくる。なにが参謀だ。ろくに文書の作り方も知らない田舎貴族どもめ……」


 カルルシュは苦々しげに吐き捨てる。


「おまけにこの要塞で唯一頼りになりそうな奴は、こんなところで人間のなりそこないと喋々喃々ちょうちょうなんなんと来たものだ。嫌味の一つも言わせろ」

「私のことはなんとでも言ってくれていい。だが、彼女を侮辱するのはやめろ」

「本当のことを言って何が悪い? それとも、『おままごと』をしているうちにいよいよ情が移ったか?」


 カルルシュはそれだけ言うと、オルフェウスを睨めつける。

 ぶしつけな視線を向けられてなお、オルフェウスはたじろぐ素振りも見せない。

 少女は一歩前に進み出て、カルルシュにちいさく黙礼を送ったのだった。


「ほお――しばらく見ないうちにだいぶ人間の真似が上手くなったな」

「……言葉には気をつけろ、カルルシュ」

「これもおまえが教え込んだんだろう? 大した調教師ぶりだ。この分なら完璧に人間になりすますことだって出来るだろう。いやはや、恐れ入った――」


 カルルシュは芝居がかった身振り手振りを交えながら、マリウスとオルフェウスに近づいていく。

 長靴が霜を踏むたび、足元でかすかな音が弾ける。つい先ほどは快く響いていたはずのそれは、いまはひどく耳障りに聞こえる。


「だがな、こいつらの中身は戎狄バルバロイとおなじだ。どんなに表面を取り繕っても本性までは変えられない。……そうだろう?」


 オルフェウスは答えなかった。

 ただ、真紅の双眸をカルルシュに向けただけだ。顔のほとんどをフードに覆われてなお、その透き通った瞳は見るものを震撼させずにはおかない。まさしく魔性の瞳であった。


 カルルシュは数秒と経たないうちに視線を外すと、


「……怪物バケモノめ」


 心底から忌々しげに呟いた。


 眉をひそめてその様子を見つめていたマリウスだったが、


「忙しいと言っていた割には、嫌がらせをしにくる余裕はあるんだな」

「まさか――貴様に上層部うえからの命令を伝えに来たんだよ。としてな」


 先ほどまでの嘲りや皮肉の色はもはやない。謹厳実直な軍人の声でカルルシュはなおも続ける。


「各地の砦の視察だ。明日から貴様に行ってもらうことになる。護衛の戎装騎士ストラティオテスもつけさせるが、最前線に近づくことはない。戎狄バルバロイの攻撃を受ける心配はないはずだ」


 マリウスの顔にわずかな迷いが浮かんだ。

 軍人として命令に背くことは出来ない。だからこそ悩ましいこともある。


「私が留守にしているあいだ、この子はどうする?」

「連れていけるはずがないだろう。こいつは貴様の私物じゃない。いつもどおり要請があるまで待機させるだけだ。どうせ前線に送り出してしまえば、あとは帰ってくるのを待つだけだからな」


 カルルシュは怪訝な顔でそう言うと、その場でさっと踵を返す。


「分かったなら、貴様はさっさと戻って休め。俺はまだ仕事が残っている。明日の見送りは期待するなよ」


 霜を踏む音が絶えるまで、マリウスとオルフェウスはその場にただじっと立ち尽くしていた。


***


 明け方から降りはじめた雪は、日が昇ってからも熄む気配を見せなかった。


 正午を過ぎたころには、黒土に覆われた北方辺境の大地はすっかり白く染まっていた。どこまでも続く一色の広がりは、塗り替えられてもやはり単調なままだ。


「……本当に行くの?」


 要塞の正門の前に停まった一台の馬車。

 その傍らで、外套姿の少女は呟くように問うた。


 雪はいまも降り続いている。

 少女の青い外套はうっすらと白く彩られ、淡いまだら模様を帯びている。


「ああ。この程度の雪なら通行には問題ないそうだ。多少天気が悪くても、やるべき仕事を先延ばしにする訳にもいかないからね」 


 マリウスは馬車の天蓋に荷物を結びながら、オルフェウスに微笑みかける。

 本来なら部下に任せる仕事だが、マリウスはどうしても自分の手でやりたがった。

 荷物を結んでいるあいだは、車外に身を乗り出していられる。少女と言葉を交わす時間が取れるということだ。


「それに、最初の砦で護衛の戎装騎士ストラティオテスと合流する手筈になっている。もし途中で戎狄バルバロイに襲われたとしても、きっと大丈夫だ」


 だって、君と同じ騎士が守ってくれるのだから――言外にそんな意味を込めたつもりだが、はたしてオルフェウスは汲み取ってくれたかどうか。

 荷物が固定されたことを確かめると、マリウスは御者台に合図を送る。


「そろそろ出発だ。もし私が留守のあいだに困ったことがあれば……」


 そこまで言ったところで、喉まで出かかったカルルシュの名前をぐいと呑み込む。

 この子をあいつに近づけたくない。たとえ何があったとしても。


「……困ったことがあったら、いつも部屋に来る当番兵に言うんだ。彼には君のことを頼むと言ってある。――では、行ってくる」


 御者台の兵士が鞭を入れると、馬車はゆっくりと動き出した。重い車体が雪を轢いて前進する。

 半開きになっていた乗降扉が完全に閉ざされ、マリウスの姿は見えなくなる。

 要塞の正門をくぐり、馬車はすこしずつ速度を上げていく。

 この世の果てまで伸びていくような細い街道の上で、角ばった後姿は次第に黒い点へと変わる。


 オルフェウスは正門の前に立ったまま、遠ざかっていく馬車をいつまでも眺めていた。


 それが、少女がマリウスを見た最後だった。

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