Ⅱ.紅の追憶(過去編)
第92話 紅の追憶 (一)
ただひとつの色が世界を覆っていた。
白――。
見渡すかぎりの広漠な地平は、どこまでも単調な色に塗られている。
天と地だけではない。風さえここでは白くみえる。
それは風に巻き上げられた氷霧だ。舞い上がった氷晶はかそけき陽光を反射し、
完璧なまでに美しい世界。
そこに投じられた異物も、やはり美しかった。
赤であった。
すべてを呑み込む圧倒的な白のただなかにあって、赤は屹然とみずからの存在を画定していた。
燃えさかる炎の、その最も美しい瞬間を凝結したならば、あるいはこのような姿を取るだろうか。
透き通る真紅の装甲をまとった
ふいに足を止めた。
足元にもうひとつの赤を認めたためだ。
赤といっても、それは美しさとはほど遠いものだった。
男はほとんど雪に埋もれるように横たわっていた。
両足は根本から失せている。腰のあたりで力任せに引きちぎられたのだろう。帯みたいな
「あ……ぁ……」
真紅の人形は立ち止まったまま、男の顔を見つめる。
無貌の面であった。目鼻も唇もない顔貌には幾何学模様の
その光は、しかし男の目に届いたかどうか。双眸は濁り、血混じりの涙がたえまなく溢れている。光も音も、男はこの世界を構成する一切から切り離されつつあるさなかだった。
「寒い……よ……助けて……」
震える声で呟いた男は、虚空にむかって手を伸ばす。
血まみれの掌が真紅の装甲に触れた。
「母さん……」
人形は答えない。
男が発した言葉の意味を理解しかねているようだった。
――カ・ア・サ・ン?
わずかな時間が流れた。男の手は装甲を滑り落ちていった。汚らしい血の痕が真紅の美しい装甲を汚した。男が人として特別汚れていた訳ではない。どんな人間の身体にも美しい血など一滴も流れていないというだけのことだ。
物言わぬ亡骸をあとに残して、人形はふたたび歩きはじめた。
後ろを振り返ることもない。今しがた目にしたすべてを忘れたかのような歩み。
それとも、美しさを結晶したような人形の眼は、最初から何も見てなどいなかったのか。
風にあおられた氷霧がふいに激しく吹き荒れた。
何億とも、何十億ともしれない氷の細粒が繽紛と舞い、真紅の隻影を浚っていく。
ようやく風が熄んだとき、赤は雪原のどこにも見当たらなかった。
まるで何事もなかったかのように、世界はただただ白くそこにある。
***
馬蹄と車輪の音が街道に響いた。
大型の馬車が五台連なれば、走行中の騒音も相応に大きくなる。
しかし、いまは御者と車内にいる乗客のほかにはそれを聞く者もなかった。
すれ違う馬車もなければ、沿道には人家の一軒もない。ひたすら殺風景な荒野が広がっているだけであった。
最後に立ち寄った村落を出てから、すでに半日が経っている。
五台の馬車のうち四台までは幌馬車だが、最後尾の一台だけは箱馬車であった。
目的地に近づくにつれて、車窓を流れる風景は次第に色を失っていく。
こうも単調な景色が続くと、次第に眠気が首をもたげてくる。
長旅の疲れが身体じゅうに蓄積しているということもある。
どれほど疲れていても、将校という立場にあっては居眠りなど決して許されない。戦地が近いとなればなおさらだ。
それでも、人間の生理とは往々にしてままならないものなのだ。
赤金色の髪をかきあげ、眠気を振り払うように頭を振ったそのときだった。
「――マリウス殿」
思いがけず声をかけられて、マリウスははたと我に返った。
ごほんとひとつ咳払いをすると、努めて落ち着いたふうに居住まいを正す。
「まもなく要塞が見えてきます。長旅お疲れさまでした」
向かい合う座席には、マリウスと同じ辺境軍の軍服に身を包んだ男が座っている。
年齢は六十に近い。濃褐色の肌には深い年輪が刻まれ、襞みたいに重なり合った瞼の奥で篤実そうな瞳が息づいている。
親と子、ともすれば祖父と孫ほども年齢が離れているにもかかわらず、つねにマリウスにへりくだっているのは、たんに生来の温厚な性質のためだけではない。
男は東方人であり、マリウスは西方人である。
『東』の官僚制度において、東方人が西方人に礼を欠くことは許されない。たとえ自分のほうがはるかに軍人としての
「こちらのほうこそ、出迎えに感謝している。北方辺境は不慣れなものでな。そちらから迎えに来てくれなければ、とてもここまでは辿り着けなかっただろう」
「たしか、マリウス殿の原隊は南部の……」
「キュレオナイの第二十七軍団だ」
自分で口にした言葉に、マリウスはふと遠い故郷を思う。
一年を通してあたたかな陽光が降り注ぎ、大地には色とりどりの木々が生い茂る。家々の白い壁。果実の甘い匂い。祭りの喧騒。
外に出るまでは当たり前のことだと思っていたすべてが懐かしく、愛おしい。
キュレオナイを離れてからすでに一ヶ月あまり。船に揺られ、馬車を乗り継いで、ようやく北方辺境最大の都市まで到達したのは、いまから三日ほど前のことだ。
到達したとはいえ、そこは入り口にすぎない。『帝国』最北端の要塞まではさらに二日を要するのだ。
前もって送迎の者を街まで寄越してくれなければ、マリウスは目的地を前にして途方に暮れていたところだった。
むろん、彼らはマリウス一人を迎えに来ただけではない。
残る四台の馬車には、各地から集められた兵士たちがすし詰めになっている。将校と兵士という違いこそあれ、どちらも補充人員であることにはちがいない。
「礼を言うのはこちらのほうです。私も戦場を離れたのは久しぶりでした。あなたを迎えに街に入ったときは、本当に生き返った心地がしたものです」
「そのことだがな。着任の前にひとつ訊きたいことがある」
「私に答えられることであれば――」
マリウスは老軍人の瞳をまっすぐに見据える。
「戦況は芳しくないと聞いている。北方軍には多くの犠牲が出ていると。戦線はすでに崩れかけていると噂する者もいる」
「…………」
「原隊には私が北方辺境に赴くと知って引き留めようとした者もいた。むろん私もすべてを本気にしている訳ではない。戦場から離れるほど噂には尾ひれがつき、得てして真実から遠ざかるものだからな。だからこそ、実際に前線を知っている者の話を聞きたい」
「……残念ながら、お聞きになった噂は本当です」
老軍人の顔の陰影がいっそう濃くなった。
「軍人になって四十年、私もそれなりに実戦を経験してきました。大規模な農民反乱の鎮圧に当たったこともあります。しかし、今回の
「それほどなのか?」
「前線では毎日のように大勢の兵士が殺されています。その多くは軍に入ったばかりの若い兵士ですよ。何も知らずに戦場に送られ、何も知らないまま死んでいく……」
老軍人の声音は次第に悲痛さを増した。胸につかえた石塊を吐くように、重々しく言葉を継いでいく。
「それでも、戦線は崩壊寸前のところでかろうじて踏みとどまっています。いや……彼らのおかげで踏みとどまることが出来ていると言うべきでしょうな」
「彼ら?」
「申し訳ありませんが、これ以上お話することは私には荷が勝ちすぎます」
それだけ言って、老軍人は長い溜息をついた。
その顔を一瞬よぎったのは、悔悟と悲嘆。そして恐怖の色だ。
「はぐらかしている訳ではありません。ただ、私のような物知らずの老いぼれには、彼らを語るのにふさわしい言葉が見つからないのです。あなたは私などよりずっと聡明な方のようだ。その目で実際に
***
要塞の営門をくぐった五台の馬車は、中庭の端で停車した。
荷台の幌が開き、武装した兵士たちがぞろぞろと降車してくる。
すべての兵士が降りたのを確かめたあと、マリウスと老軍人は相次いで馬車を出る。
「よお――遅かったな」
背後から声がかかった。
マリウスははっとして振り返る。
視線の先に立っていたのは、ひとりの青年であった。
背格好はマリウスとさほど変わらない。辺境軍の軍服に身を包んでいるのもおなじだ。
西方人特有の白い肌は、冷気のためかいっそう青白くみえる。夏の残り香を漂わせるマリウスに対して、冬の陰鬱さを身体じゅうにまとわりつかせた男であった。整った目鼻立ちがその印象にいっそう拍車をかける。
黒緑色のくせ毛を揺らしながら、青年はゆったりとした歩調でマリウスに近づいてくる。
「カルルシュ!! 久しぶりだな! いつ以来だ?」
「こうして直接顔を合わせるのは七年ぶりだ。貴様は相変わらずだな」
「七年か――」
こともなげに言うカルルシュとは対照的に、マリウスはいかにも感慨深げな様子でしきりに肯んずる。
「そうか……おまえが北方軍に移ってから、もうそんなに経ったのか。あれから
「それはすまなかったな」
カルルシュの返事はあくまでそっけなかった。心配をかけたことも、本心では何とも思っていないようであった。
「とにかく、こうして私を呼んでくれたことを嬉しく思うよ。北で戦っている皆の力になれればと思っていたところだ。まさに渡りに舟というやつだな」
「
カルルシュの唇がわずかに歪んだ。
長年付き合ってきたマリウスは、一見すると柔和な笑みに秘められたもうひとつの意味を知っている。
それは皮肉と侮蔑を覆うためのものだ。その残酷な笑みが、失態を犯した同期や、時には無能な上官に向けられるのを、マリウスは何度も傍らで見てきた。
解せないのは、なぜいまそれが自分に向けられているのかということだ。
「いいか、マリウス。貴様には俺の後任としてある任務を引き継いでもらう。わざわざ貴様を呼んだのもそのためだ。他の誰にも任せられないからな」
「私を信頼してくれていることは光栄に思う。しかし、その任務というのはいったいなんだ? 事前の通告は何もなかったぞ」
「見れば分かる――」
カルルシュは皮肉な笑みを浮かべたまま、さっと踵を返す。
軍服の背中が『ついてこい』と言っている。
一瞬よぎった逡巡を振り切るように、マリウスは大股で歩きだしていた。
***
カルルシュを追って進むうちに、マリウスは要塞の地下に足を踏み入れていた。
煉瓦造りの回廊は、骨の芯まで凍てつくような冷気に満たされている。
地上も十分冷涼だったが、地下の寒さはさらにその上を行く。日差しは届かず、地面は数日分の冷気を蓄えているのだから、それも道理であった。
一言の会話も交わさないまま、二人の男は足早に先へ進んでいく。
やがて、どちらともなく示し合わせたように足を止めた。
重厚な鉄扉が行く手を遮っている。どうやらここが回廊の終点らしい。
「……着いたぞ」
「なあ、カルルシュ。ここに何があるか、いい加減教えてくれてもいいだろう?」
「言っておくが、この先で見聞きした一切は他言無用だ。同じ軍人でも……家族であろうと軽々しく口外することは許されん。約束出来るなら、俺と一緒に来い」
マリウスは力強く首肯する。
カルルシュの顔にふいに薄い笑みが浮かんだ。
それは皮肉や嘲笑とはあきらかに異なる感情を表している。困惑を隠しきれないマリウスを尻目に、カルルシュは慣れた手つきで鉄扉の錠に鍵を差し込む。
ぎい……と重い音を後に引いて、鉄扉が押し開かれた。
「ここは――」
マリウスは消え入りそうな声で呟いた。
鉄扉の先に広がっていたのは、十五メートル四方の空間だ。
かなり古い時代に建造されたものらしい。回廊とおなじ煉瓦造りの壁面は、元々帯びていた赤い色がすっかり褪せ、ほとんど青黒くなっている。
ひときわ目を引くのは、床の中心部をくり抜いて掘られた
水槽の淵に歩を進めたところで、マリウスははっと息を呑んだ。
世にも美しい人形が水のなかに佇んでいた。
人間ではない。直感的にそう思ったのは、あまりにも整いすぎた容貌のためだ。
一糸まとわぬ姿の少女であった。
薄く華奢な体つき。成熟した女が多かれ少なかれもつ猥雑さとはまるで無縁の、どこまでも楚々とした可憐さだけがある。
水中に広がった亜麻色の長い髪は、黄金の花弁を想起させた。
人は美しいものを好む。
だが、もし仮に純粋な美しさだけを抽出したなら、それは見る者に強烈な違和感を喚起するにちがいない。少女はその証明だった。
およそ完璧なものが存在しないこの世界において、完璧な美しさは不自然きわまりないものだからだ。
形而上の理想は、決して実現されないことを前提としている。
形而下の世界に立ち現れたとき、だから、それはあってはならないものとして認識される。
「なんだ? これは? ここで何をやっている!?」
「そう慌てるな。――信じられないだろうが、こいつはこれでも生きている。いまからその証拠を見せてやるよ」
それだけ言って、カルルシュは壁の一面に据え付けられた機械に近づいていく。
木の骨組みに滑車を備えたそれは、どうやら
レバーを倒すと、歯車が噛み合う音が生じた。滑車が回り、鎖が巻き上げられる。
数秒の間をおいて、鉄檻は天井近くまで引き揚げられていた。
水という支えを失ったためか、少女は力なく崩折れていた。
カルルシュは鉄檻の前面を開くと、少女の腕を掴んで引きずり出す。
固唾をのんでその様子を見守りながら、マリウスは祈るように念じていた。
――たのむ。起き上がらないでくれ。
本当に人形であればいい。
生命のない人形であれば。人間でなければ。人間であっていいはずがない。
それも一瞬のことだ。
マリウスの見ている前で、少女はみずからの足で立ち上がったのだった。
べったりと張り付いた亜麻色の前髪のあいだから、真紅の双眸が覗いている。
澄んだ瞳には何の意思も感情も宿らない。それゆえひたぶるに美しい。
「これが俺たちの切り札――
「戎装騎士……」
「そのなかでもこれは特別だ。たった半年のあいだに
カルルシュは独り言みたいに呟いたあと、マリウスを見据えた。
「何を呆けている、マリウス。今日から貴様がこいつを使うんだ。そのためにわざわざ南から呼び寄せたんだからな」
「私が、この子を?」
「俺はもうお役御免だ。この
と、駆けてくる足音が廊下に反響した。
伝令は部屋に飛び込むなり、マリウスとカルルシュにむかって大音声で叫ぶ。
「前線より急報です!! 北西の砦に
「さっそくお呼びがかかったか――」
カルルシュは眉根を寄せる。
「マリウス、貴様も来い。まだ実際の戦場を見たことはないのだろう?
言い終えたときには、カルルシュは少女の手を引いて歩き出していた。
壁にかかっていた外套をひったくると、全裸の少女に着せる。辺境軍の兵士が身につける野戦外套はあきらかに体型に合っていないが、少女はまるで意に介していないようだった。それどころか、身体から水が滴っているというのに、少女は寒がる素振りさえない。
「待て! その子を戦場に連れて行くつもりか!?」
「当然だ。貴様、さっきの俺の話を聞いていなかったのか? 戦場で
カルルシュは振り向かずに答える。
少女は無表情のままマリウスを見つめている。言葉の意味を理解している風ではなかった。ただ、音がしたから注意を向けているだけだ。
それに気づいたのか、カルルシュは苛立ったように少女の手を掴む。
「――行くぞ。オルフェウス」
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