第91話 姫君来たる(五)(完)

 住宅街の突き当りに、その家はある。

 帝都に住む官吏や軍人向けのありふれた戸建て住宅である。

 西方風の白漆喰の壁に組み合わされるのは、東方古来の瓦葺屋根。どこかミスマッチなその印象は、『東』という国家そのものにも通じるものにちがいない。

 通りに面した門は堅く閉ざされ、だいぶ年季の入った扉の表面には、

 『売り家』

 とだけ書かれた木板が打ち付けてある。


「本当にここにいるんでしょうね?」


 イセリアは傍らのタレイアにちらと視線を向けると、訝しげに問うた。


「そうだ。アグライアはたしかにそう言っていたからな。間違える可能性は万に一つもない――」

「……だったらいいけど。それで、どうやって入るつもり?」


 家の周りをぐるりと板塀が取り囲んでいる。通りから邸内を盗み見られないようにとの配慮からか、最も低い部分でも四メートルは下るまい。

 いかに騎士ストラティオテスであっても、戎装せずにこれだけの高さを飛び越えるのは至難だ。

 まして、ここは住宅街なのである。大通りに較べればまばらであるとはいえ、道には家路につく人の姿が絶えない。

 そんななかでイセリアとタレイアが異形の戎装騎士へと変形へんぎょうを遂げれば、どんな騒ぎが起こるか知れない。もし犯人たちに気づかれれば、囚われているラエティティアの生命が危ぶまれるのだ。


「ああもう! こんなときにあの子がいればよかったのに――」


 この場にいない亜麻色の髪の少女を思い浮かべ、イセリアは口惜しそうに呟く。

 オルフェウスの”破断の掌”を用いれば、板塀を文字通り消し去ることが出来たはずだ。もうひとつの能力である神速の動作をもってすれば、通行人に気取られる心配もない。

 そのオルフェウスは、いまはアレクシオスとともに遠く離れた場所を探している。

 いくら地団駄を踏んだところで、この場所に呼びつけるのは不可能であった。


「迷っている時間はない。ここは私が引き受ける――殿下、よろしいですね」


 タレイアの問いかけに、ルシウスは常と変わらず鷹揚に肯んずる。


「是非もない。我が妹を頼むぞ」

「皇帝直属騎士の名にかけて――」


 言い終わるが早いか、タレイアは板塀にむかって右手をぴんと伸ばす。

 指先が伸び切ったときには、前腕はすでに変形へんぎょうを終えていた。

 艷やかな黒い肌は、肘から指先まで瑪瑙色の装甲に置き換わっている。

 腕だけとはいえ、外観の無骨さは戎装したイセリアのそれに勝るとも劣らない。見た目に違わず、比類なき堅牢さと膂力と秘めているはずの剛腕であった。


「ねえちょっと、まさかとは思うけど、塀をぶん殴って叩き壊そうってわけ? 大きな音立てたら中にいる奴らに気づかれちゃうわよ」

「この私がそんな迂闊な真似をするものか。お前ではあるまいし――」


 タレイアは横顔にふっと微笑を浮かべると、


「そこで見ていろ――すぐに済む」


 装甲に覆われた指先をそっと板塀に這わせたのだった。


 塀がまるく消滅したのは次の瞬間だった。

 音もなければ、衝撃もない。まさしく忽然と消え失せたのだった。

 タレイアが触れている部分を中心に、塀にはぽっかりと穴が開いている。人ひとりくらいなら余裕を持って通れそうな大きさの穴であった。


 よく見れば、穴の縁が奇妙に歪んでいることに気づく。

 硬い板塀は、まるでくしゃくしゃに丸めた紙みたいにのだ。

 穴の向こう側は陽炎がかかったようにぼやけて見える。空間そのものに半透明の紗幕が張られているようだった。


「ちょ……ちょっと、これ、いったいどうなってんのよ!! 魔法でも使ったの!?」

「あいにく魔法の心得はない。そんなことより、さっさと内部なかに入れ。いつまでもこうしていたら目立って仕方がないだろう」

「地獄に繋がってるとかじゃないでしょうね……?」


 尻込みするイセリアをよそに、真っ先に穴に飛び込んだのはルシウスだった。 


「先に行くぞ」


 イセリアの顔にタレイアの視線が容赦なく突き刺さる。

 護衛対象であるルシウスを先に行かせては、なんのために自分たちがここにいるのか分からなくなる。

 イセリアはちいさく声にならない声を上げると、意を決して穴に飛び込んでいく。

 直後、足裏にやわらかい土の感触。

 イセリアが降り立ったのは空き家の庭先だった。つい先ほどまで立っていた場所から、塀を隔ててすぐ向こう側にあたる。

 二人が穴をくぐり抜けたのを見届けたあと、タレイアは爪先から器用に身体をすべり込ませた。

 そして、タレイアの身体が離れると、一瞬前までたしかに存在していた穴は跡形もなく消滅したのだった。板塀は何事もなかったかのように復元されている。


「あんた、やっぱり魔法……」

「しつこいぞ。お前のように石頭と馬鹿力だけが取り柄ではないというだけだ」

「だれが石頭と馬鹿力だけですって!?」


 掴みかかろうとしたイセリアを軽く受け流し、タレイアはすばやく空き家に近づく。


「どうだ? 中の様子は分かりそうか」

「いえ――アグライアの話では、公主さまは壁に囲まれた物置のようなところに囚われていると」

「ふむ、ならば踏み込んで調べるしかないか」


 ルシウスは腕を組み、思案するように目を瞑る。

 家のなかから激しい物音が響いたのはそのときだった。


***


「離せ! 離さぬか! 無礼者ども――」


 声の限りに叫びながら、ラエティティアは手足をばたつかせる。

 どれだけ激しく暴れようと、年端もいかない少女の膂力などたかが知れたものだ。

 大人の男に羽交い締めにされては身動きが取れるはずもない。むなしく体力を消耗するだけであった。

 傷痕だらけの顔に残酷な笑みを浮かべながら、小柄な男はラエティティアの抵抗を眺めている。

 手下にラエティティアを拘束させ、指に嵌めた峨嵋刺を弄うように少女の眼前にちらつかせる。


「いい加減に諦めたらどうだ? いくら叫んでも助けなんざ来やしねえんだからよ」

「だまれ!! 兄上様が騎士ストラティオテスたちを連れてきっと助けに来てくれる。そうなれば、そちらはもう終わりじゃ!!」

「相変わらず威勢のいいお姫様だ。おい――」


 小柄な男は手下の一人に目配せする。


「あんまり騒がれると外に聞こえるかもしれねえ。こいつの口になんか詰めて黙らせろ。……お姫様よ、殴られたくなかったら大人しくしてるんだぜ。死に顔くらいきれいなままでいたいだろ?」


 命じられるまま、手下はラエティティアの口にボロ布を押し込もうとする。

 ぎゃっ! と短く太い悲鳴が上がった。

 後じさった手下の指から、床にぽつぽつと赤い雫が滴り落ちる。


「こ……このガキ、噛みつきやがった!」

「汚い手でわらわに触れるな!!」

「バカが――構わねえ、どうせバラすつもりだったんだ。おい、てめえら、しっかり抑え込どけ。すぐにそこに転がってる奴の後を追わせてやるからよ」


 小柄な男は峨嵋刺を構える。

 一撃のもとにラエティティアの心臓を貫こうというのだ。

 堂に入った構えであった。手と言わず腰と言わず、みずからの手で何人もの人間を殺めてきた者に特有の凄みを帯びている。


(兄上様――)


 ラエティティアは固く両目を閉じる。

 その姿は、一見すると諦めたようにもみえる。もはや助からないことを悟り、高貴な姫君らしく従容と最期の時を迎えようというのか。


「覚悟しな、お姫様!!」


 小柄な男が突進に入ろうとしたとき、床が激しく揺れはじめた。

 床だけではない。壁も、天井も、崩れんばかりに震え、動揺している。


「なんだ――地震か!?」


 小柄な男と手下たちは、互いに顔を見合わせる。

 予想外の事態に焦りを隠せない彼らをよそに、ラエティティアは顔を上げる。

 少女の碧い瞳にありありと浮かんだのは、まぎれもない希望の色であった。

 轟音。続いて、すさまじい衝撃が走り抜ける。

 すべてが熄んだとき、窓のない部屋は跡形もなく消え失せていた。

 四方の壁と天井がほとんど同時に吹き飛び、もはや部屋としての用を成さなくなったのだ。


 もうもうと立ち込める塵埃のなか、男たちはようよう目を開ける。

 目を開けたきり、どいつもこいつも動けなくなった。

 塵を噛んだ目の痛みも忘れ、ただただ血の気の失せた顔で立ち尽くすばかり。


 それも無理からぬことだ。

 彼らの目の前に立っていたのは、人ならざる二体の異形――。

 黄褐色と瑪瑙色の装甲をまとった二騎の戎装騎士ストラティオテスであった。


「な……なんだ、てめえらは――」

「貴様らのような外道に名乗る名はない」


 瑪瑙色の騎士――タレイアが一歩を踏み出す。

 五体は分厚く堅牢な装甲に鎧われている。その重厚な外貌フォルムは、まさに動く城郭と呼ぶに相応しい。

 なかでも目を引くのは、両肩に据え付けられた一対の円盾だ。

 その巨大さたるや、まともに構えれば上半身の大部分を覆い隠すほど。ややもすれば自身の動きさえ阻害しかねない、それは尋常ならざる防具であった。

 兜の前方に大きく張り出した目庇まびさし状の装甲の下で、紫紺の光がまばゆく迸る。


「公主さま、ご無事ですか?」

「その声はタレイアか!?」

「はい。遅くなって申し訳ありません。戎装騎士ストラティオテスタレイア、ただいま参上しました」


 タレイアの言葉を追いかけるように、硬質の物体同士を叩きつける快音が響いた。

 イセリアが横合いから思いきり円盾を小突いたのだ。


「あたしも忘れてもらっちゃ困るわよ!!」

「そちはイセリアであろう!! わらわを助けに来てくれたのか!?」


 ラエティティアの叫びに、イセリアは大きく頷く。


「あたしたちが来たからにはもう大丈夫!! さあ悪党ども、覚悟しなさい!!」

「じょ、冗談じゃねえ……何がどうなってやがるんだ……」


 小柄な男は震える声で呟く。

 四人の手下は早くも衝撃から立ち直ったようだった。白茶けた顔には血の気が戻りつつある。

 冷えびえとしたものが辺りに漂いはじめた。殺気はしばしば氷に似る。玄人同士の死闘の場が熱気と無縁なのはそのためだ。


「構わねえ――やっちまえ!!」


 その言葉を待っていたように、四人の身体が踊った。

 手下たちはイセリアとタレイア目がけてまっすぐに突き進む。


「おい――分かっているな」

「子供の前だということを忘れるな……って言いたいんでしょ?」

「私も


 それだけ言って、タレイアは近づいてきた男にむかって右手を挙げる。


「――――!?」


 短刀を手にした男は、飛び上がった姿勢のまま

 タレイアが右手を軽く真横に動かすと、男はその姿勢を保ったまま吹き飛んでいった。


「なんだ……こいつ……」

「どうした? 呆けている場合ではないだろう。安心するといい。そいつに較べれば私はまだ優しいからな」


 二人の男は一瞬顔を合わせると、すばやく左右に散った。

 息の合った動作であった。どうやら二方向から同時に襲いかかるつもりらしい。

 合理的な戦術だ。人間の肉体は、同じだけの注意を同時に二つの方向に向けられるようには出来ていない。


 そう――であれば。


 タレイアの両肩で重い音が生じた。

 両肩の円盾が中心部から二つに分離したのだ。

 盾の分離に合わせて、背中と脇腹から四本の副腕が伸張する。

 副腕はそれぞれ半円状の小盾を保持し、互いに組み合わせることでひとつの大盾を形作っていたのだ。

 タレイアはその場から一歩も動かず、副腕で男たちを迎え撃つ。

 盾に触れた瞬間、男たちははっきりとそれを見た。

 みずからの肉体が奇妙に歪み、引き伸ばされ、彼方へと遠ざかっていくさまを――。

 



 ”盾のタレイア”――。


 彼女にとって、物理的な盾はあくまで『発生器』にすぎない。

 その能力の真の主体は、発生器を通して生成される不可視の力場にある。

 力場はタレイアの意思のもとで完璧に制御され、外界から加えられるあらゆる攻撃を無効化する。

 ひとたび力場の内部なかに引き込まれたが最後、何人なんぴとも自力で脱出することは叶わない。

 斥力を働かせて弾き飛ばすも、別々の方向に生じさせた引力によって身体をねじ切るも、タレイアの胸三寸で決まるのだ。


 たんなる重装甲とは一線を画する異能の守り。数多の戎装騎士のなかでも、こと防御に関してタレイアの右に出る者はいない。

 すべては最強の矛である長姉アグライアをあらゆる脅威から守護するため。

 その二つ名が示すとおり、あらゆる災厄を寄せ付けない最強の盾として、三姉妹の次女タレイアはこの世に生を受けたのだった。

 



 タレイアが軽く腕を振ると、二人の男はそれぞれ別の方向に弾き飛ばされた。

 男たちが力場に触れていたのは、実際には一秒にも満たないわずかな時間にすぎない。

 もっとも、それはあくまで現実こちらで流れた時間だ。

 男たちの顔には、例えようもない恐怖がまざまざと刻み込まれていた。致命傷は負っていないにもかかわらず、どちらも気死したように動けずにいる。


「ちょっと!! 一人でそんなに倒しちゃってどういうつもりよ!? あたしの立場ってものがないじゃない!!」


 イセリアは手下のなかでただ一人残った男を尾で絡め取り、ぶんぶんと振り回しながら叫ぶ。


「まだ一匹残っているだろう。そいつはくれてやる。私はこんなクズ共を何人倒したかなどこれっぽっちも興味がないのでな」

「あらそう――言っとくけど、お礼なんて言わないわよ」


 言い争う二人の騎士を尻目に、小柄な男はそそくさと逃げ支度に入っていた。

 手下をすべて倒され、もはや勝ち目はない。裏社会で生き抜くためには、敵に背を向けることを厭わない厚顔さと抜け目なさが必要なのだ。

 数歩進んだところで、小柄な男はそれ以上進めなくなった。

 むろん、自分の意志で足を止まった訳ではない。

 おそるおそる足元を見れば、仰向けになったままの髭面の男が目に入った。太い手がしっかと足首を掴み、小柄な男は一歩も動けない。


「一人だけ逃げようなんていい根性してるわね。ほら、忘れ物よ――!」


 イセリアの尾が風を切った。

 先ほどから振り回していた手下を力任せに投げつけたのだ。

 二人の男はもつれあったまま床を転がり、やがて勢いもそのままに手近な壁にぶちあたる。


「もう出てきても構わぬか?」

「敵は一掃しました。何も問題はありません」


 柱の陰からかかった声に、タレイアはこともなげに答える。

 ややあって、部屋のなかに進み出た人影を認めた途端、ラエティティアは感極まったように叫んでいた。


「兄上様!!」

「ラエティティア、怪我はないか?」

「はい……でも……」


 ラエティティアは床の上で呻吟する髭面の男をちらと見る。


「あの男がどうかしたのか。あれも犯人の一味なのだろう?」

「兄上様、あの者は身を挺してわらわを庇ってくれたのです。それに、他の者と違って、根は悪人ではありません。お願いです。あの者に特別の宥恕ゆうじょを――」

「ふむ……」


 タレイアが二人のあいだに割り込むように進み出てきた。

 いつのまにか戎装を解き、普段の姿に戻っている。ただ、表情だけは依然として鉄を貼り付けたように硬い。


「お言葉ですが、公主さま。この者たちは全員極刑に処さねばなりません。『帝国』の法ではそのように定められております。皇帝陛下に仕える騎士として、たとえ皇族の方々であろうと、国法を蔑ろにされるのを見過ごす訳には参りません」

「それは……」


 ラエティティアは唇を噛む。

 いまだあどけなさの残る少女も、自分の立場については誰よりよく理解している。国家の第一人者アウグストゥスである皇帝を筆頭として、皇族は国法を遵守せねばならない。範を示すべき彼らが法を軽んじれば、臣下もそれに倣うに違いないからだ。


「法に違えることは、むろんわらわも承知している。それでも、せめてあの者だけでも助けることは出来ぬのか?」

「残念ながら――」


 タレイアのにべもない反応に、ラエティティアはおもわず涙ぐみそうになる。

 正論とは時に残酷ですらある。つい先ほどまでは神が遣わした天使のようであった戎装騎士ストラティオテスも、いまのラエティティアには地獄の閻魔みたいにみえる。

 そんな二人にイセリアはなんと声をかけていいか分からず、落ち着きなく視線を泳がせるばかり。


「そういうことなら、ここは余に任せておくがいい」


 よく通る声が重い沈黙を破った。

 ルシウスはラエティティアをちらと一瞥すると、



 まるで芝居の台本を読み上げるみたいに、朗々と言葉を紡いでいく。


――」

「兄上様、なにを……?」

「此度の一件に厳正な処罰を下すなら、犯人の首が飛ぶだけでは済まん。監督不行き届きの女官長も、脱走を許した衛兵も、等しく罰さねばならぬ。それが『帝国』の法というものだ」


 ルシウスの声音に剣呑なものが混じった。

 ラエティティアはびくりと肩を震わせるが、それでも目だけは逸らさない。


「たとえ皇帝の子女といえども、国法を曲げることはまかりならぬ。しかし、法とは適用されるべき事柄が存在して初めて成り立つものだ。


 ここに至って、ようやくラエティティアもルシウスの意図を理解したようであった。

 ルシウスは今この瞬間ラエティティアとともにいることを根拠として、誘拐事件そのものをなかったことにしようというのだ。

 法が曲げられることはない。曲げられるのは、その前提となる事実のほうだ。


「もっとも、この凶賊どもを無罪放免とするつもりはない。二度と不埒な真似をせぬよう取り計らうつもりである。そして、そこの男についてだが――」


 ルシウスは髭面の男に視線を落とす。


「早く医者に診せてやるがいい。どうやら急所は外れているようだからな」

「兄上様!」

「生命の借りは、やはり生命でしか返せないものだ。我が身を顧みずそなたを守った功績に免じて、この者の罪は不問とする」


 タレイアはといえば、やはり鉄のような表情でルシウスを見つめている。


「殿下は最初からそのつもりで私たちに同行なさったのですか――」

「国法を尊ぶそなたの心意気は立派だ、タレイア。しかし、まつりごとの良し悪しは、どれだけ多くの首を飛ばしたかで決まる訳ではない。愛する妹のために、今回に限っては首の飛ばぬ道を選んだまでのことだ」

「私は騎士ストラティオテスです。法を守ることは出来ますが、それ以前の判断を論じる資格はありません。……今は皇太子殿下のお考えが最善であったと信じます」


 一瞬、鉄の表情がわずかに緩んだように見えたのは、はたして錯覚かどうか。

 緊張が途切れたところで、イセリアはとびきり長いため息をつく。

 然るべき後始末が済みさえすれば、今夜ここで起きた事件を証明するものは何もなくなる。

 真実は、この場に居合わせた人々の記憶のなかだけに残りつづけるのだ。

 それもいずれ風化し、跡形もなく消え失せるはずであった。戎装騎士ストラティオテスも例外ではない。遅かれ早かれ、この宇宙に存在する万物にその時は訪れるのだから。


「さあ――城に戻るとしよう。今度ははぐれぬよう、余の手をしっかり握っているのだぞ」


 兄と妹は、寄り添うようにして歩き出していた。


***


 あたたかな日差しが降り注いでいた。

 燦々たる陽光を浴びて、帝都の大城門はその威容をいっそう輝かせている。

 それ自体が一個の城塞みたいな大城門には、馬車を一時的に駐めるための巨大な円環広場ロータリーが併設されている。


 貴人のために作られた屋根付きの乗降場のなかで、出発の時を待つ一両の馬車がある。

 六頭立ての豪奢な箱馬車であった。

 それはラエティティアが領地と帝都との往還に用いる専用馬車だ。

 三十分ほど前に帝城宮バシレイオンを出立した馬車は、大城門をくぐらずに広場に入ったのだった。

 ラエティティアのたっての願いで予定を変更し、急遽ここに立ち寄ったのである。


 乗降場内の待合室には、アレクシオスとオルフェウス、そしてイセリアが整然と並んでいる。

 ラエティティアは騎士たち一人ひとりの手を取ると、


「そちらには迷惑をかけた。わらわも反省しておる。こうして無事でいられるのもそちらが骨を折ってくれたおかげじゃ。あらためて礼を言わせてほしい――」


 大げさな身振り手振りを交えながら、今回の件について感謝の言葉を述べていく。

 アレクシオスはぎこちなく、オルフェウスは相変わらず美しい顔に無表情を貼り付けたまま、姫君の賛辞に聞き入っている。

 やがてイセリアの前まで来ると、ラエティティアは言葉をかける代わりにぐいと袖を引いた。


「イセリア、近う――」

「な……なんですか? 公主さま?」

「他人行儀な言い方はやめよ。初めて会ったときのように話すがよい」


 イセリアはちらと周囲を見回したあと、ラエティティアとともに馬車の横に回る。ちょうどアレクシオスたちからは死角になる位置であった。

 聞かれまいと顔を近づけすぎたため、ほとんど頬が触れそうになっている。


「……なによ? あたしになにか用?」

「そちに謝りたかったのだ。あのときは勝手に菓子を食べてすまなかった」

「いいわよ――そんなの。べつに気にしてないし。そっちこそ無事でよかったわ」

「わらわももう護衛なしで街に出るような軽挙はせぬ。だから、今度帝都に来たときは、二人であの茶楼に行こう。あれほど美味な菓子であれば、わらわは毎日だって食べたいくらい」

「いいけど、今度はあんたの奢りよ。あたしの分食べたんだから、それでおあいこにしたげる」

「うむ、約束しよう!!」


 それから数分と経たないうちに、ラエティティアを乗せた馬車は乗降場を離れていた。

 その後姿がまっすぐに大城門へと吸い込まれていったのを見届けたあと、アレクシオスはイセリアに問いかける。


「おまえ、公主さまといったい何を話していたんだ?」

「何って……その……」


 イセリアは口ごもる。


「なんて言えばいいかしら――そう、女同士の約束ってやつ!」


 胡乱げな視線を向けるアレクシオスから逃げるように、イセリアは円環広場ロータリーへと駆け出す。

 日差しがまぶしい。沿道の木々を風が揺らすたび、薄紅色の花びらが舞い散る。

 少女は春に吹く一陣の風みたいに訪れ、そして去っていった。

 花びらのなかを駆けながら、イセリアは次の季節を思う。

 ふたたび巡ってくるその日も、こんなあたたかな陽光に包まれていますように。


 だって、あの菓子を食べるなら、春が一番いいに決まっているもの!


【完】

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