第186話 血戦の予兆

「ちょっとちょっとお――」


 小声で言って、赤髪の少女は困惑した面持ちであたりを見回す。

 帝城宮バシレイオンの中庭である。

 皇帝の目を楽しませるためだけに整備された庭園を行き交うのは、武装した中央軍の兵士たちであった。

 ときおり上がる金切り声や、何かが激しく壊れるけたたましい物音は、王宮のそこかしこで小競り合いが生じているのだろう。

 広壮な庭園の片隅で向かい合った二人の女騎士は、そんな喧騒を意に介する様子もない。


「なんか、あたしの知らないところで勝手に話がすすんでるんですけど? 勝手に巻き込まれてるっていうか……」

「落ち着きなさい、テルクシオペ。あなたはただ私たちの指示に従っていればいいの」

「いやいや、だってこれ、誰がどう見たって反乱……」


 テルクシオペはそこで言葉を切った。

 セラスの掌が頬と唇に押し当てられたのである。

 じたばたともがくテルクシオペに注がれたのは、万象を凍てつかせる氷の視線だ。

 それだけではない。

 赤毛の少女の顔の下半分は、うっすらと霜に覆われつつある。

 文字通り顔色を失った少女にむかって、凍結の魔女は囁くように語りかける。


「口を慎みなさい。それとも、このまま氷漬けにされるのがお望みかしら? べつにあなたひとりが欠けたところで、の計画に障りはないのだけれど」

「や、やめ……!!」

「これに懲りたら、二度と迂闊なことを口にしないことね」

「ごめんなさい……もう言いません……言いませんからあぁ……」


 ふだんの威勢はどこへやら、テルクシオペは震える声でようよう答えるのが精一杯だった。

 セラスは満足げに頷くと、その場でくるりと身体を反転させる。

 すらりと伸びた白く細い指が示したのは、帝都イストザントの城下町であった。

 庭園の垣根の切れ目からは、人口百万人になんなんとする大都市の隅々までも見渡すことが出来る。

 家々の屋根は途切れることなく連なり、冬の日差しを照り返して海面うなものように輝いている。

 彼方で茫と霞むのは、都市のぐるりを囲む長大な城壁だ。

 外敵から皇帝を守護するために築かれた城壁も、すでにその内懐に侵入した敵に対してはまったくの無力であった。

 

「タレイアとアグライアの動きは封じたわ。だけど、帝都にはまだ他にも騎士ストラティオテスがいる。どのみち戦いは避けられないでしょう」

「だ、だったらあたしが始末して……」

「オルフェウスと戦えるのは私だけよ。あなたとレオンには、他の騎士たちの相手をしてもらうわ」


 すげなく言って、セラスは王宮へと歩き出していた。

 置き去りにされる格好になったテルクシオペは、あわててその背中に追いすがる。

 セラスは前方を見据えたまま、とわずがたりに語り始めた。


「私たちの役目は、エルゼリウス閣下の障害となるものを排除すること。誰にもあの御方の邪魔はさせないわ」

「そのことなんだけどさ、もし反乱……あ、いえ!! 計画が上手く行ったら、その、うちらにも何か得が……?」


 おそるおそる問いかけたテルクシオペに、セラスはするどい視線を向ける。

 少女の唇から「ひっ」とちいさな悲鳴が漏れた。

 虎の尾を踏んだ――ふたたび氷の指が押し当てられることを予感して、テルクシオペは身体をこわばらせる。

 案に相違して、セラスは慈しみに満ちた声色で語りかけたのだった。


「安心なさい。大願が成就したあとも、エルゼリウス閣下は私たちを引き続き取り立ててくださると約束してくださったわ」

「それって、つまり――」

「あの姉妹に代わって、私たちが新しい皇帝直属騎士に抜擢されるということよ」

「お城に住んで贅沢放題出来るってこと!? マジ!?」

「ええ。騎士としての務めさえしっかりと果たせば、その程度の自由は認めてくれるでしょう」


 セラスの涼やかな声は、どこか恍惚とした響きを帯びている。

 自分を北方辺境から連れ出してくれた貴公子にすっかり心酔しきっているのだ。

 それが口先だけの空約束である可能性など、この女にとっては最初から思慮の外であった。


「そのためにも、今日一日は帝城宮ここを守り抜かなければならないの。皇帝がエルゼリウス閣下の要求を呑むまで、玉座の間には誰も近づけてはいけない。……分かったわね、テルクシオペ」

「うん!! 分かった分かった!! あたし超分かった!!」

「”分かった”は一度で充分よ」


 二人の女騎士は、ともに王宮の暗がりへと吸い込まれていった。

 太陽はいよいよ中天を過ぎようとしている。

 日没までの猶予はおよそ六時間。

 皇帝ルシウスを見舞った凶事は、いまだ帝城宮バシレイオンの外部には漏洩していない。

 エルゼリウスに同調した将兵によって門という門はすべて閉ざされ、人の出入りは完全に遮断されている。

 機密は完璧に保たれている。――そのはずであった。


***


 木漏れ日が地面に斑斑と影を落としていた。

 帝城宮の裏手にある雑木林のなかである。

 若き元老院議員スフォルツェスコ四世は、中央軍の兵士たちによって運び出されると、そのまま無造作に捨てられたのだった

 本来なら騒動が収まるまで別室に安置されるところだが、エルゼリウスは元老院議員に予期せぬ死者が出たという報告を受けるなり、


――この記念すべき日に死体など縁起でもない。どこかそのあたりに捨ててこい!! もし流行り病にでも罹っていたらどーする!!


 と、ジェルベールの反対を押し切って、城外への遺棄を命じたのだった。


 全身に包帯を巻かれたスフォルツェスコは、周囲から人気が失せたことを確かめると、もぞもぞと身体を動かす。

 もともと重度の骨折と打撲でまともに動けないのである。

 杖のようなものを見つけないことには、這いずり回って移動するしかない。

 四代に渡って元老院議員を輩出してきた名門の跡取りとも思えぬ無様な姿。

 それでも、スフォルツェスコは一片の羞恥心を抱くこともなかった。


(なんとか危機は脱した……はやく屋敷に戻らなければ……)


 死んだふりをすることで危機的状況を切り抜けた喜びと、この大事件を外部に知らせねばならないという義務感が、軽薄な青年貴族を衝き動かしている。

 ごつん、と鈍い音が雑木林に響いたのは次の瞬間だった。

 何か硬質の物体が頭にぶつかったのだ。


「にゃんら…(何だ!?)」


 顔を上げたスフォルツェスコの目交に飛び込んできたのは、黄金色の剣であった。

 剣と見えたのは、あるいは目の錯覚だったのかもしれない。

 いくつもの面から成る複雑な立体構造は、一般的な剣とは似ても似つかない。

 まばゆいほどの輝きを帯びたそれは、アグライアの身体から分離した”子機”のひとつだ。

 光子推進機フォトン・スラスターによって自在に宙を浮遊していたはずの”子機”は、木々の合間にほとんど垂直に突き立っている。

 本体から離れすぎたことでエネルギーが払底し、飛行能力を喪ったのだ。

 そうとは知らない者にとっては、いかにも奇怪で異様な光景であった。


(み、見なかったことにしよう……)


 スフォルツェスコが顔を背けたのと、”子機”が彼の背中へと倒れ込んできたのは、ほとんど同時だった。

 見た目からは想像もつかないずっしりとした重量に苦悶の声を上げながら、スフォルツェスコは背中の”子機”を見やる。


「ひ、ひゃめろおぉぉ……(やめろ!!)」


 不明瞭な言葉で叫んだところで、”子機”に通じるはずもない。

 スフォルツェスコは身動きも取れないまま、じたばたと手足を動かすのが精一杯だった。

 やがて悪あがきも限界に達しようかというとき、”子機”から一条の光が迸った。

 それが高出力のレーザー光線ビームだとは、むろんスフォルツェスコは知る由もない。

 まっすぐに伸びた白光は、近くにあった木の幹へと収束していく。

 数秒と経たないうちに周囲に漂いはじめたのは、樹皮の焼け焦げるにおいであった。

 

「……?」


 やがて、光はふっつりと途切れた。

 スフォルツェスコはこわごわ顔を上げる。

 木の幹に焼印された文字列に気づくのは容易だった。

 一見無秩序にみえる数字の羅列が意味するところも、また。


(じゅ、住所……?)


 帝都の住所は、他の都市とは異なった様式をもつ。

 文字を用いることなく、すべてが数字だけで表現されるのである。

 各街区にはそれぞれ独自の番号が割り振られている。そこに通りや区画を表す番号を繋げていくことで、数字だけで詳細な住所を読み解くことが出来るのである。

 日々発生する膨大な量の行政文書を効率的に処理し、住所管理を容易にするために考案されたシステム。

 まさに人口稠密な巨大都市ならではの工夫であった。

 帝都での暮らしが長い者であれば、一見しただけでおおまかな位置を推測することさえ可能なのだ。


(この番地は官庁街のあたりか? とにかく、私には関係ない……)


 気取られぬようにその場を離れようとしたスフォルツェスコは、ふたたび”子機”の下敷きになった。

 この場所に連れて行け――と言っているらしい。

 おもわず跳ねのけようとして、スフォルツェスコははたと我に返った。

 分厚い樹皮に一瞬で焼き文字を刻んだあの光。

 あれをまともに浴びれば、人間などひとたまりもない。

 この得体の知れない黄金色の物体は、になりさえすれば、いつでも自分を殺すことが出来る――。

 そう思ったとたん、スフォルツェスコは全身の肌が粟立つのを自覚していた。

 おそるおそる腕を伸ばし、”子機”を掴み上げる。

 これまで触れたことのあるどんな金属とも異なる、いわく言いがたい手触り。

 わずかな逡巡を経て、青年貴族は”子機”を杖にしてようよう立ち上がる。

 お互い自力では動けない一人と一基は、人目につかないように雑木林を抜けると、城下町へと向かったのだった。


***


 けだるい空気が昼下がりの騎士庁ストラテギオンを覆っていた。

 騎士たちは全員本部に集まっているものの、今日に限ってはどういうわけか仕事らしい仕事もない。

 各部屋の掃除に書類の整理、さまざまな備品の点検……。

 仕方なく始めた雑用も、昼前にほとんど片付いてしまっている。


「はーあ、今日はホント楽でいいわ。毎日こんな感じだといいんだけどね――」


 長机に上半身を投げ出しながら、イセリアはしみじみと言った。

 その顔は緊張感のかけらもないほどに弛緩しきっている。

 アレクシオスは酢を含んだような表情を浮かべると、イセリアを横目で睨む。


「イセリア!! せめて日が高いうちくらい真面目にしろ!!」

「なによう、べつにいいじゃない。どうせ暇なんだし、ダラダラしてても誰にも迷惑かかんないわ。それに、アレクシオスだってやることないのは同じでしょ?」

「それは――」


 図星を指されたアレクシオスは、気まずそうに視線をそらす。

 手持ち無沙汰なのは、オルフェウスやエウフロシュネー、レヴィとラケルにしても同様だ。

 雑用が終わってからというもの、とくにやることもなく、それぞれが思い思いに時間を過ごしている。


(本当なら、おれたちも皇帝陛下の近くで……)


 アレクシオスの脳裏をよぎったのは、昨日のラフィカの言葉だ。

 今日、反皇帝派の筆頭として知られるエルゼリウス・アグリッパが皇帝に謁見する。

 まさか皇帝に危害を加えるとは思えないが、万が一ということもある。

 出来ることなら身辺警護のために帝城宮バシレイオンに赴きたいところだが、皇帝や元老院の命令もなしに騎士が独断で動くことは許されていない。


 アレクシオスは釈然としない気持ちを抱えたまま、台所から出てきた細面の青年に声をかける。


「ヴィサリオン、おまえ、本当に何も聞いてないのか? おれたちも城に来るように元老院から命令が来ているとか……」

「いいえ、私はとくに何も聞いていませんね」

「そうか……」


 戸を叩く音が聞こえたのはそのときだった。

 誰かが玄関に立っている。

 騎士庁ストラテギオンを訪う人間はさほど多くはない。

 客人か、あるいはか。

 いかに騎士の聴覚が優れていても、こればかりは扉を開けてみなければ判然としない。

 

「イセリア、おまえが行って来い」

「なんであたし? どうせみんな暇してるんだし、べつにあたしじゃなくても――」

「おまえは掃除のときも何もしなかっただろう。すこしは動け!!」


 アレクシオスに言われて、イセリアはしぶしぶ席を立った。

 栗色の髪の少女は「めんどくさい……」としきりにぼやきながら、部屋を後にする。

 甲高い悲鳴がボロ屋を揺さぶったのは、それから一分と経たないうちだった。


「お……お……お化け――――っ!! 玄関にお化けがいる!!」

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