第34話 地の底の獣たち
「撒けたか……?」
注意深く背後を振り返り、ケイルルゴスは安堵の息を吐いた。
足元はぬかるんでいる。歩を進めるたび、ねばっこい泥が絡みつく。
悪臭に満たされた暗く細長い空間は、どこまでも果てしなく続くようであった。
「まさか私がここまで追い詰められるとは……」
鳥面の下でぶつぶつと呟く。
それは、この場にいない騎士たちに向けた恨み言だ。
とはいえ、ケイルルゴス自身、おのれの悪運の強さには感心してもいる。
あそこで目眩ましを使ったのは、ほとんど悪あがきだった。
目眩ましに用いたのは、硝石と数種類の薬剤を調合したものだ。ひとたび発火すれば、数秒のあいだ激しい光を伴って燃焼する。
あのとき――ケイルルゴスは仮面を取るふりをしながら、燃焼剤を取り出したのだった。
自分の目を傷めないために、仮面に煤を塗り込んだ遮光板を差し込むことも忘れなかった。
燃焼剤は人間であれば失明に至らしめるほどの威力を発揮するが、屍徒をやすやすと殲滅した相手にどこまで通じるかは未知数だった。
それが予想外の効果を発揮したことで、ケイルルゴスは辛くも窮地を脱することが出来たのだった。
泥濘に足を取られつつ進むうち、どこからかかすかな水音が聞こえてきた。
それは地下の川が滔々と流れる音だ。
帝都イストザントが建設される以前、この地には大小さまざまな河川が存在した。
そのうちのいくつかは帝都の水路として残置されたが、多くは埋め立てられ、あるいは暗渠として地下に追いやられたのだった。
いまケイルルゴスの目の前に現れたのは、そんな名もない暗渠のひとつだった。
雨季には河川の氾濫を防止するために利用されることもあるが、平時は好き好んで立ち入る者もない。そもそも、こうした地下空間の全容を把握している人間が今の時代にどれほど残っているのか。
世間に知られていないことは、ケイルルゴスらにとっては好都合でもある。
人口過密な帝都において、身を隠すのにこれほど適した場所もほかになかった。
暗渠と地下水路を利用すれば、人目を憚ることなく帝都中を行き来できる。”犯夜の禁”によって各街区の門が閉ざされる夜間だろうと関係はない。
暗渠に沿って進むうちに、道がふっつりと途切れた。
どうやらここが暗渠の終着点らしい。
「――私だ、開けてくれ!!」
叫びながらも、ケイルルゴスは背後への警戒を怠らない。
帝都の地下は複雑に入り組んで、ほとんど迷路みたいな様相を呈している。
騎士たちがすぐに追いついてくるとは思えないが、油断は禁物だった。
一向に返事もないのにケイルルゴスが苛立ち始めたころ、どこかで重いものが動く音がした。
正面の壁には変化はない。その代わり、暗渠の側壁に人一人がようやく通れるほどの隙間が開いている。
「……何をしている。さっさと入れ」
そう言って、隙間から手招きする者がある。
ちらりと覗いたのは
「連れて行った屍徒はどうした?」
滄浪とした足取りのケイルルゴスに、イアトロスは厳しい口調で問いかける。
「……やられた」
「なに?」
「屍徒はすべてやられた。生き残ったのは、この私だけだ」
イアトロスは一語一語しぼり出すみたいに言った。
「バカな――七体すべて失ったというのか?」
「信じるか信じないかは貴様の勝手だが、すべて真実だ」
「誰にやられた? ――まさか衛兵に見つかったのか!?」
「鉄の
ケイルルゴスの声は震えていた。時おりカチカチと歯を打ち合わせる音が交じる。
一方イアトロスはといえば、そんなケイルルゴスの様子を見てくっくと小さな笑いを漏らしたのだった。
「何がおかしい!?」
「おかしいに決まっているだろう。そんな戯言をだれが真に受けるか。どうせまたしくじったのだろうが、もう少しマシな言い訳を考えたらどうだ。言うに事欠いて、鉄の怪物に出くわしたなどと……」
「戯言か。奴らが目の前に現れるまでそう思っているがいい」
イアトロスの笑い声が止んだ。
仮面の下の顔は凍りついているにちがいない。
「奴らは私を追ってきている。ここまで来るのも時間の問題だろうな」
ケイルルゴスはもはやどうとでもなれと言うように、投げやりに吐き捨てる。
「後をつけられたのか!? ケイルルゴス、迂闊な真似を!!」
「たしかに私の責任だ。だがなイアトロス、失敗したのはお前も同じだということを忘れるなよ」
「失敗? 何の話だ……?」
謂れのない誹謗と思ったのだろう。イアトロスは怪訝そうに問い返す。
「我々のことを嗅ぎ回っている連中がいたと言っていたな」
「それがどうした? もう済んだ話だ。その連中ならとっくに死んで……」
「生きていたんだよ。貴様に茶を振る舞われたという男が訪ねてくるのをこの目で確かめたからな。今日に限ってあの連中が外で待ち構えていたのもおかしな話だが、奴から足がついたなら納得がいく」
ケイルルゴスは勝ち誇ったように言い放つ。
これまで何かにつけて自分を下に見てきたイアトロスだが、いまやその優位は音を立てて崩壊しつつある。ケイルルゴスにとってそれが愉快でないはずがない。
イアトロスはあくまで冷静な風を装っているが、その体は小刻みに震えている。
それは怒りのためか。
あるいは、おのれの犯した失態が危機を招いたことへの自責の念からか。
いずれにせよ、同門の筆頭としての余裕はすっかり消え失せ、柄にもなく狼狽しているのはケイルルゴスの目にも明らかだった。
「我が師の調薬が誤っているはずがない。奴を仕留め損ねたのは間違いなく貴様の不手際だ。ちがうか、イアトロス?」
「バカな――私がしくじるなど……!!」
嘲弄するようなその言葉に、イアトロスはおもわず声を荒げる。
ケイルルゴスは安易な買い言葉で応ずることもせず、ただ仮面の下でにんまりと笑みを浮かべる。
「あまり大きい声を出すと敵に聞こえるぞ。なあイアトロス、さっきも言ったが、我々は失敗を犯した者同士だ。ここはいがみ合うのではなく、協力してこの窮地を乗り越えようじゃないか」
「協力? 私と貴様がか?」
なおも疑わしげなイアトロスの肩を抱き、ケイルルゴスは何度も肯んずる。
イアトロスに追い越されて以来、忘れかけていた兄弟子としての威厳をにわかに取り戻したようであった。
「イアトロス、他の者にも声をかけろ。いま動かせる屍徒はすべて起こせ。奴らがここに来る前に迎え撃つ準備を整えるんだ。急げ、あまり時間はないぞ」
「しかし……まずは我が師の許可を得なければ……」
「そんな暇があると思うか? ……先生はきっと許してくださる。手塩にかけて育てた弟子の筆頭と次席をそう簡単に切り捨てはしないさ。それどころか、私たちだけで解決したことを褒めてくれるはずだ」
ケイルルゴスはさも自信ありげに断言してみせる。
実際のところ、弟子の独断専行を師が認めてくれる保証はどこにもない。
しかし、ここで何もしなければさらに事態は悪化するだろう。
「前から育てていたあれもそろそろ使えるのだろう? 奴らは手強い。出し惜しみはするなよ」
「……本当に大丈夫なのだろうな」
「私たちが手を組めば怖いものはない。先生にも認められた天才なんだろう? だったら、自信を持てよ――ミハイル」
仮面をかぶっているあいだは本名を口にしてはならない――
ケイルルゴスがその禁忌をあえて破ったのは、戦いに向けて奮い立たせるためだ。
二人の獣面は互いにうなずき合うと、ともに闇の奥へと駆けていった。
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