第111話 ふたつの正義

 風を裂いて走った斬線は、ことごとく空を切った。

 いずれも必中を期した一撃。それゆえに、目の前の敵にかすり傷も与えられないのは不可思議を通り越して不条理ですらある。

 攻撃を打ち切ったアレクシオスはわずかに飛び退る。

 ひとまず距離をおいて仕切り直そうというのだ。


「不思議かね?」


 銀色の甲冑を着込んだ男は、兜の目庇を軽く跳ね上げる。

 アザリドゥスは不敵な笑みを面上に張り付けたまま、


「本来ならとっくに勝負はついていてもおかしくないはずだ――」


 両刃戦斧ハルバートを手にアレクシオスに急迫する。

 またしても甲冑姿の輪郭が揺らいだ。

 アレクシオスはとっさに防御の構えを取る。

 堅牢な防御の間隙を突くように、下方からなぞり上げるような衝撃が黒騎士を揺らしたのは、次の刹那だった。


「しかし、君の攻撃は当たらず、私の攻撃はこのとおりだ。大した痛手は与えられていないようだがね――」


 がら空きだった腹をしたたかに打たれ、アレクシオスはおもわず体勢を崩す。

 その一瞬をアザリドゥスは見逃さなかった。掌で戦斧を回転させ、追い打ちとばかりに石突を黒い胸に叩きつける。

 始動から終熄まで、すべての動作が淀みなく連環したみごとな

 先ほどとは較べものにならない黒騎士の後退ぶりは、その凄まじい威力のほどを千万の言葉より饒舌に物語っている。傍から見れば、ほとんどふっ飛ばされたように見えたはずだ。


「……ひとつ聞かせろ」


 姿勢を整えながら、アレクシオスは絞り出すような声で問うた。


「これほどの腕前と将器を持ちながら、なぜ『帝国』を裏切った?」

「まさかとは思うが、戦いの最中に話しかければ私に隙が出来ると思っているのかな」

「あれだけべらべらとしゃべっておいてよく言う。貴様はそんなタマではないだろう。まだ元気があるうちに聞いておこうと思ったまでのことだ」


 あくまで強気なアレクシオスの返答に、アザリドゥスはふっと頬を緩ませる。

 目庇に指をかけると、躊躇いもなく兜を放り捨てた。両耳を覆う形状の兜は会話の邪魔だと判断したのだ。

 とはいえ、一騎討ちのさなかに兜を取るのが常識はずれの行動であることは間違いない。よりにもよって、人体のなかで最も重要な部位を守る防具をみずから放棄するなど。

 アザリドゥスは将校たちが立ち上がろうとするのを目で制すと、


「その問いに答える前に、私からも君に問おう。軍人にとっての『正義』とはなんだ?」

「皇帝陛下と国家のため、この国に住むすべての人間のために戦うことだ!!」

「私もまったく同感だ」


 アザリドゥスの言葉に皮肉の色はない。


「だからこそ、私は皇帝を裏切ったのだ」


 あくまで落ち着いた声で、滔々とみずからの胸のうちを言の葉に変えていく。


「軍人としての正義とは、帝都みやこで玉座に就いたばかりのあの男に仕えることではない。少なくとも私にとって、軍人として正義を貫くことと、皇帝に謀叛を起こすことに矛盾はない」

「……何が言いたい?」

皇帝アウグストゥスが存在するかぎり――西方人が東方に君臨するかぎり、この『帝国くに』に住む数多くの人間は塗炭の苦しみを味わい続けるだろう。すべての人間の幸せを願うなら、この国を終わらせねばならない」


 アザリドゥスは依然として口辺に微笑を漂わせたまま、はっきりと言い切った。

 琥珀色の瞳は夜の海みたいに暗く沈んでいる。陽光が降り注いでいるにもかかわらず、冷え冷えとした空気があたりに漂いはじめたのは、あながち錯覚でもあるまい。


「西方人である貴様がそれを言うのか?」

「私の部下たちはほとんどが東方人だ。そして、かつて私が心から愛した人も彼らとおなじ東方人だった」

「その女性ひとは……」

「彼女はみずから生命を絶った。東方人である自分を娶れば私に迷惑がかかると思ったのだろう。彼女が身ごもっていたことを知ったのは、すべてが終わった後だった」

「――――」

「私は、私自身が有形無形の恩恵を受けてきたこの血のために、かけがえのないものを失った。そのときになって、ようやく目が覚めたのだよ」


 アザリドゥスは戦斧を構えなおす。

 奇妙な姿勢だった。長柄の武器を携えているにもかかわらず、重心は高いままだ。


「君の言うとおり、私は西方人だ。だからこそ、ひとにぎりの西方人が大多数を踏みにじる『帝国』の歪みもよく見える。正義を語るなら、悪しきものは糺さねばならない。軍人として当然のことだ」

「それが貴様が挙兵した理由か?」


 アレクシオスの無貌の面に赤光が流れた。


「同情はする。だが、城塞ひとつを乗っ取っただけで国家を揺るがそうなど、まともな人間の考えることじゃない。貴様がやろうとしていることはバカげた夢想だ」

「どうかな――それは


 アザリドゥスの顔から笑みが消えた。


「さて、お互い納得も出来たところで、戦いを再開するとしよう」


 言い終えるが早いか、アザリドゥスは音もなくアレクシオスの懐に飛び込んでいた。


「そう何度もおなじ手を食うと思うな!!」


 戦斧が風を巻き込んで振り下ろされても、アレクシオスは避ける素振りもみせない。

 それどころか、戦斧の軌跡を遮るように右手を突き出している。

 刃を掴み取ろうというのだ。戎装騎士ストラティオテスの装甲に覆われた手指なら、刃をまともに受け止めることも出来る。

 アザリドゥスの輪郭がまたしてもかげろうみたいに揺らいだ。

 戦斧が忽然と消え失せたかと思うと、アレクシオスの横っ面をすさまじい衝撃が突き抜けていった。


「だから言っただろう。君は戦いの機微がまるで分かっていないと」


 突っ伏したアレクシオスを見下ろしながら、アザリドゥスは冷然と言い放つ。

 黒騎士は無言のままゆっくりと身を起こす。漆黒の装甲は砂にまみれ、黒曜石を思わせるつややかな表層もすっかり薄汚れてみえる。


「たしかにそうかもしれない。だが、おかげですこし分かってきた」

「何がだ?」

「貴様の言う”戦いの機微”というやつが、だ」


 アレクシオスはふたたび構えを取る。


「残念だが、何度やってもおなじことだ。戦いの技法は一朝一夕に身につくものではない。君の戦いぶりが劇的に変わるとは到底思えない」

「やってみなければわからん」


 アザリドゥスはもはや何も言わなかった。

 やはり奇妙に重心を高く据えた姿勢のまま、アレクシオスとの距離をじりじりと詰めていく。

 凄まじい轟音が噴き上がったのは次の瞬間だった。

 アレクシオスの右脚を見れば、膝下の装甲が大きく展開し、内蔵された推進器があらわになっている。


「何をするつもりか知らないが、しょせん付け焼き刃――」


 なおも突進を続けながら、アザリドゥスは瞠目した。

 アレクシオスは左脚を軸として、右脚を半円状に旋回させたのだ。推進力に後押しされた鉄の脚は、練兵場の地面を深々とえぐり、青白い噴射炎は土砂を高く巻き上げていく。


 煙幕を用いた目くらまし。

 古典的な手だが、それだけに実戦における有用性も高い。

 事実、もうもうと立ち込める土煙はアレクシオスの姿を覆い隠している。

 轟音は土煙の向こう側でもう一度だけ上がり、それきり静寂が降りた。

 このような場合は、いったん距離を取り、ふたたび視界が開けるのを待つのが戦いの定石セオリーであるはずだった。

 だが――アザリドゥスは怯むことなく、土色の紗幕へと飛び込んでいった。

 相手の手の内をすべて見通しているという自信のゆえであった。

 たとえ視界が利かなくとも、未熟な相手がどう動くかは手に取るように分かる。

 戦いとは、つねに相手の一手先、二手先を読みあう行為にほかならない。一見遠回りに見える手を積み重ね、最後には勝利を引き寄せる。それは将軍として采配を振るう場合でも、一介の戦士として戦場で戦う場合でもおなじだった。


 はたして、アザリドゥスの予想は的中した。

 黒騎士はそこにいた。一歩も動いていないのは意外だったが、アザリドゥスの読みどおり、アレクシオスは土煙のなかで敵を待ち構えていたのだ。

 渾身の力を込めて、アザリドゥスは戦斧を振り下ろす。

 確実にアレクシオスの首を捉えたはずの一撃は、しかし、土煙をむなしく裂くばかり。


「なに――」


 ふいに右側方から黒い手が伸びた。

 戦斧の柄を掴み取ろうとする手から逃れるため、アザリドゥスはたたらを踏むようにして、わずかに後退する。


「むうっ!?」


 足元に生じた違和感にアザリドゥスはおもわず視線を落としかける。

 赤光が瞬いたのはそのときだった。土煙に遮られてなおあざやかな光芒にむかって、アザリドゥスはほとんど反射的に戦斧を叩きつけていた。

 攻撃の瞬間、アザリドゥスの輪郭は、常とかわらず明瞭な線を保ったままだった。

 白刃取り――アレクシオスは戦斧を掌で受け止めると、軽く手首をひねり、柄ごとへし折る。

 戦斧を放り捨てたアレクシオスは、反動でよろけたアザリドゥスに急迫する。二つの身体が重なったのと、鉄と鉄とがぶつかり合う音が響きわたったのは、ほとんど同時だった。


 ふいに天井から強風が吹き込んだ。

 土煙がまたたく間にかき消されると、まるで何事もなかったみたいに、練兵場は本来の姿へと戻っていた。

 そのなかで対峙する二人の戦士は、先ほどまでとはあきらかに様相を異にしている。

 アレクシオスは立ちつくしたままアザリドゥスを見下ろしていた。

 アザリドゥスはとっさに立ち上がろうとして、苦しげな声を漏らす。

 胴鎧の胸のあたりが大きく凹んでいる。アレクシオスの拳を当てたなら、ぴったりと嵌まるはずだ。

 アザリドゥスの唇から赤いものが流れでた。激しく咳き込んだあと、


「……よく私の攻撃を読み切った」

「貴様の武器を見るのをやめたからだ」

「ほう……?」

「貴様の本当の武器は戦斧じゃない。攻撃を仕掛けるときの足さばきだ。だから、おれの攻撃は当たらず、貴様は一方的に仕掛けることが出来た……違うか?」


 あのとき――。

 土煙が立ち込めるなか、アレクシオスは地面に数条の深い溝を掘り、アザリドゥスの自在な足さばきを阻害する環境を作り上げていた。土煙はあくまでそれを覆い隠すための欺瞞カモフラージュにすぎなかったのだ。

 アレクシオスの思惑どおり、アザリドゥスは溝に足を取られ、ついに敗れ去ったのだった。

 アザリドゥスの顔貌かおに浮かんだのは、紛れもない微笑だった。

 敗者にはおよそ不似合いな笑みも、この男には不思議とよく似合っている。


「そのとおりだ。私としたことが君を見くびっていたようだ。これほど早く見破られるとは、まったく恐れ入った――」


 言いさして、アザリドゥスははたと気付いたみたいにアレクシオスをみる。


「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな」

「おれはアレクシオス。――戎装騎士ストラティオテスアレクシオスだ」

「いい名だ。私も武人のはしくれとして、自分を破った相手の名前くらいは覚えておきたい」

「それより、戦いの前に交わした約束は覚えているだろうな」


 アレクシオスは戎装を解いている。敵が戦闘能力を失っている以上、戦いのための姿を保つ必要はどこにもない。


 と、練兵場に一人の兵士が駆け込んできた。

 武器は腰に下げた長剣ひとつだけだ。加勢しにきた訳ではないらしい。


「戦いが終わるまで、ここには入ってくるなと言いおいたはずだが――」

「申し訳ありません。しかし、喫緊の事態につき、どうしても将軍のお耳に入れておかねばと……」

「……なんだね?」


 兵士は背筋を伸ばすと、喉を震わせながら報告をはじめる。


「城塞の地下に敵が現れました。それもたった一人です。守備隊が包囲しておりますが、目下苦戦を強いられており……」

「そいつは赤い鎧を着ていなかったか?」

「なぜ、それを――」


 アレクシオスの言葉に、兵士は目を丸くする。


「おれの仲間だ。二手に分かれて貴様を探していたが、どうやら見つかったらしい」

戎装騎士ストラティオテスか。それでは、我が兵がどれほど束になっても勝ち目はないだろう」

「そのとおりだ。好き好んで他人を傷つけるような奴じゃないが、これ以上怪我人が増えないうちに戦いをやめさせることだな」


 アザリドゥスはだまって肯んずると、兵士に小声で命令を伝える。

 兵士が練兵場から出ていったのをたしかめたあと、アレクシオスにふたたび視線を向けた。


「戎装騎士は城の外に二人、そして城のなかに二人……四人、か」

「それがどうした。たった四人にこの城塞しろを攻略されたのが悔しいか?」

「いや――


 まるでひとりごとみたいにアザリドゥスはぽつりと呟いた。

 アレクシオスの反問を阻むように、アザリドゥスは間髪をいれずに続ける。


「それで、さっきの話だが……勝者である君は、敗れ去った私をどうしようというのかな」

「殺しはしない。ただ、おれの言うことを聞いてもらう」

「と、言うと?」

「この城塞の指揮官として、籠城中のすべての兵士に武装解除と投降を呼びかけろ。貴様にしか出来ないことだ」


 わずかな沈黙が流れた。

 アレクシオスは拳を握りしめる。考えるまでもなく、拒絶される可能性のほうが高い。

 そうなれば、城塞としての機能が完全に失われるまで、二万の兵士たちと泥沼の戦いを繰り広げることになる。


「いいだろう」


 アザリドゥスはアレクシオスを見据えると、こともなげに言った。


「ヴラフォス城はただいまをもって開城。私と我が指揮下にあるすべての将兵は、『帝国』に降伏する――」

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