第110話 孤紅の戦騎
異様な熱気が空間を充たしていた。
長方形の部屋である。
横幅に較べればさほどではないが、高さと奥行きも相当のものだ。
そこかしこに積み上げられた木箱から、物資を保管しておくための倉庫だと分かる。
ヴラフォス城の地下にいくつか存在する貯蔵庫のなかでも、最も巨大なひとつであった。
だだっ広い部屋のちょうど中ほどで、二十人あまりの男たちが歪な輪をつくっていた。
辺境軍の兵士たちだ。
みな甲冑を着込み、手には剣や短槍を握りしめている。後列には鉄火箭を構えた者も七、八人ばかり混じっている。
これだけの人間が密集すれば、ただでさえ人いきれがするものだ。
しかも、彼らの心臓は早鐘みたいに鼓動を打ち、身体じゅうから汗が吹き出ている。
室内に気味悪いほどの熱気が充満するのも当然だった。
兵士たちの視線は一点に注がれている――というより、固定されている。
釘付けにされたとは、まさしくこんな状態を言うのだろう。
目を背けようとしても、自分の意志ではどうすることも出来ない。
本能がそいつから目を逸らすなと命じているのだ。もし視線を外せば、次の瞬間に生命があるという保証はない。
鉄火箭を運用する兵士は、もともと猟師を生業としていた者が多い。
彼らはもし山でクマや虎と出くわしたなら、絶対に目を逸らすなと父や祖父から厳しく躾けられている。
だが、猛獣よりもずっと恐ろしいものと相対したとき、人間はそうせざるをえなくなるとは、彼らもいまはじめて知ったのだった。
それにしても――。
兵士たちの
彼らは耐えがたい怖気に身を震わせながら、一方では陶然たる心地に酔いしれている。
包囲の中心で真紅の影がゆらいだ。
壁にかかった篝火に照らし出されたのは、炎とおなじ――否。
はるかに澄みきった紅の色。最も美しい瞬間に凍てついた炎の色だ。
いま、兵士たちのまえに佇むのは、世にも美しい真紅の異形であった。
凹凸ひとつないなめらかな装甲には、兵士たちの引きつった顔が映っている。
兵士たちのなかでもひときわ大柄な一人が前に出た。
身なりは他の兵士と変わらないが、どうやらこの部隊の隊長らしい。
当人は怖気を振り切って進み出たつもりだが、無意識のうちに腰が引けている。
もっとも、兵士たちのなかにそれを嗤う者は一人もいなかった。
隊長格の兵士は震える喉を必死になだめつつ、
「怯むな――かかれ!!」
あらんかぎりの
一瞬の間をおいて、背後ですさまじい怒声が連鎖した。
戦場で人が叫び声を上げるのは、敵を威嚇するためだけではない。
みずからを鼓舞し、興奮状態へと誘うためでもあるのだ。
叫びとともに恐怖心を吐き出した兵士たちは、雪崩を打って真紅の異形へと殺到する。
「でやあああ!!」
剣を振り上げた兵士が四人、裂帛の気合とともに四方から飛びかかる。
タイミングも軌道もてんでバラバラな四条の斬撃。技巧はあくまで稚拙だが、それゆえの強みもある。
各自が思い思いに動いているがゆえに、その動きを読みきるのは、達人の目を以ってしても難しい。
数をたのむ敵の恐ろしさは、まさにその一点に尽きる。
一対一の試合では圧倒的な強さを誇る剣士が、戦場において雑兵に囲まれ、あっさりと討ち取られてしまう悲劇は古今枚挙にいとまがないのだ。
殺意の嵐のただなかにあって、真紅の異形の進退は窮まったように思われた。
紅の手が閃いたのはそのときだった。
右側方から斬りかかった兵士の手首を掴むと、そのままぐいと引き寄せる。
バランスを崩した兵士の首筋に軽く手刀を当て、脱力した身体を手首の力だけで振り回す。
ふいに視界を遮られ、前方の兵士はおもわず剣筋を逸らす。
一度も人を斬ったことのない辺境軍の兵士にとって、味方ごと敵を切り裂く決断はそうそう出来るものではない。
おなじ部隊の同僚となればなおさらだ。
すんでのところで
まばゆい宝石の塊にぶん殴られたような、華麗にして痛烈な一撃。
目から火が出るような衝撃に見舞われながら、失神しつつある兵士は、どこかうっとりとした表情を浮かべていた。
美しい異形は身体を半回転させ、勢いもそのままに左方の兵士の脇腹にするどい手刀を入れる。
「げっ」とも「うっ」ともつかない滑稽な悲鳴を上げて吹き飛んだ兵士には目もくれず、紅の軌道はさらに後方へと伸びていく。
しなやかな異形の脚がするどい上昇線を描く。
刹那、金属同士がかちあう甲高い音が鳴り渡った。
襲いくる刃を足底の装甲で受け止めたのだ。
そのまま飛び上がり、独楽みたいに回転しながら横蹴りを見舞う。
頭蓋をしたたかに揺さぶられ、膝を突いた兵士の目に映ったのは、蝶よりも軽やかに舞い降りる真紅の
時間にして、わずか一秒と数コンマ――。
周囲の兵士たちには、たんに紅い光芒が瞬いたとしか見えなかったはずだ。
あるいは失神し、あるいは苦しげに呻吟する有様を目の当たりにして、彼らはようやく仲間の身に何が起こったのかを理解したのだった。
あれほど高ぶっていた戦意は潮が引いていくみたいに失せ、恐怖心がふたたび兵士たちの心を絡め取っていく。決して戦ってはならない相手だったということを、今さらながらに思い知らされる。
それでも彼らをかろうじて戦場に踏みとどまらせているのは、功名心でも兵士としての誇りでもない。
アザリドゥス将軍への純粋な忠誠心ゆえであった。
「……まだ続ける?」
その姿形に違わず玲瓏な、しかし抑揚のない声。
「……あなたたちがそのつもりなら、私は構わない」
こともなげに異形――オルフェウスは告げる。
***
オルフェウスが城塞の最深部に辿り着いたのは、いまから十五分ほど前のことだ。
堅固な岩盤に囲まれた地下司令部は、予想どおり厳重な警備が敷かれ、正面からは近づくことさえ出来なかった。
オルフェウスは人目につかない場所で戎装し、”破断の掌”を用いて地中を掘り進んだのだった。
壁を破ると同時に漂ってきたのは、なんともいえない独特の匂い。
血と生薬が混淆となった匂いがたちこめる室内には、簡素な
オルフェウスは戎装したまま視線を巡らせる。
寝台に横たわっている男たちと目が合った。
その身体に刻まれたなまなましい戦傷を見るまでもなく、彼らが傷ついた兵士たちだということはすぐに分かった。
城塞のなかで最も安全なその場所に設けられていたのは、負傷兵の救護所であった。
ここならば、城塞が陥落するそのときまで敵が押し寄せてくる心配もない。
自力では身動きの取れない負傷兵をそもそも移動させる必要のない場所に置くのは、なるほど合理的な判断ではある。それでも、凡百の将軍であれば、我が身かわいさに決断を下しかねるだろう。
いずれにせよ、アザリドゥスはここにはいない――ハズレを引いたのだ。
それを理解したとき、オルフェウスは猛然と駆け出していた。
突然の闖入者にどよもす救護所を駆け抜け、複雑に張り巡らされた城塞の地下通路をひた走った。
追撃してきた兵士たちを引き連れたまま、手近な貯蔵庫に飛び込んだのだった。
***
挑発じみた言葉を投げかけられても、兵士たちは微動だにしない。
オルフェウスもおなじだった。先制攻撃を仕掛けるつもりなど毛頭ない。
いまのところ、オルフェウスは”破断の掌”も、加速能力も用いていない。
使う必要がないからだ。相手が人間であるかぎり、そのどちらも無用の長物であった。
オルフェウスのふたつの能力は、強力な威力をほこる反面、著しくエネルギーを消耗する。
触れただけで万物を跡形もなく消滅させる”破断の掌”に至っては、全力で使用すればものの十分と経たないうちに戎装を保てなくなる。
今しがた地中を掘り進んだことで、すでに相当量のエネルギーを失っていることもある。
もし体内のエネルギーが完全に払底すれば、ふたたび戎装することはおろか、身動きさえまま思うに任せなくなるのだ。
回復するまでには少なく見積もって一時間はかかる。孤立無援の状況でそうなることは絶対に避けねばならない。
最強の騎士はみずからの能力を封印し、体術だけでこの局面を切り抜けるつもりだった。
どれほど多くの敵を相手にしても、能力さえ使わなければ、エネルギー切れで動けなくなる心配はまずない。
上手く加減すれば、極力相手の生命を奪わずに無力化できるという利点もある。
とはいうものの、これまで
ただ、アレクシオスが毎朝詰め所の軒先で練習に励む姿を見ていただけだ。
来る日も来る日も、飽かずおのれを鍛える少年を見るうちに、大まかな
足の運び、拳の型、そして、攻撃を受けた際の体捌き……。
たとえ見よう見まねでも、
兵士たちの背後でいきおいよく扉が開け放たれた。
「敵はどこにいる!?」
怒声を上げながら突入してくる兵士たちの数は、ざっと百人を下るまい。
おそらく貯蔵庫に入る前に増援を呼んでいたのだろう。
オルフェウスの姿を認めた途端、重装備に身を固めた一団は、ぎょっとしたように足を止めた。
それも一瞬のことだ。突入から一分と経たないうちに、先ほどとは較べものにならないほど分厚い包囲が敷かれていた。
十重二十重に取り囲まれても、オルフェウスは慌てる素振りもない。
真紅の騎士はゆっくりと一歩を踏み出す。
まるで無人の野を行くみたいな悠然たる歩み。
他者への害意など欠片もありはしない。たとえ目の前にいるのが自分を殺そうとしている敵であろうとも。
それでも、ただ近づいてくるというだけで、相対した者を恐怖させるには十分だった。
すさまじい怒号とともに押し寄せた兵士たちに飲み込まれ、あざやかな紅はすっかり覆い隠された。
ふたたびその色が表れたとき、あれだけ大勢いた兵士は、目に見えてその数を減らしていた。
――そういえば……。
全方位から迫りくる攻撃をことごとく受け流し、すかさず
紅い四肢が閃くたび、数人の兵士が束になって倒れ、あるいは吹き飛ばされた。
たえまなく身体を駆動させながら、オルフェウスは戦いとはまるで別のことを考えていた。
――アレクシオスが助けに来てくれるって言ってたっけ。
別れ際、少年はたしかにそう言った。
もし危なくなったら、必ず自分が助けにいく――と。
その言葉を疑うつもりはない。彼はきっと約束を守ってくれるはずだ。
ちいさな爆発音が立て続けに起こっても、オルフェウスの思考が途切れることはない。
――ここでアレクシオスを待っていよう。
指で受け止めた鉄火箭の弾を、天井に向けて放る。
もしそうしていなければ、弾丸は装甲にはじかれ、飛び散った破片が周囲の兵士を無差別に殺傷していただろう。
戦うことと殺すことは、似ているようでまるでちがう。
だからこそ、戦っている相手の生命を助けることにはなんの矛盾もないのだ。
救われたとはつゆ知らず、兵士たちはなおも襲いかかってくる。
オルフェウスはやはり淡々と片付けていく。
――ああ、でも……
何十人目か知れない敵を叩き伏せながら、オルフェウスはふと思う。
――いつまで待っていればいいか、聞けばよかったな。
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