第109話 謀叛の旗のもとに

「……なにか?」

 アレクシオスはゆっくりと背後を振り返る。

 動揺はおくびにも出さないように、努めて冷静であるように装う。

 相手が何者であれ、わずかでも怪しまれてはならない。

 万が一ここで正体が露見するようなことになれば、いままでの苦労が水の泡になるのだ。

 視線の先では、汗みずくになった兵士がぜえぜえと肩で荒い息をついている。

 先ほどの叫び声は、兵士がアレクシオスを呼び止める声であった。

 ここまで息せき切って走ってきたためか、ようよう喉を出た嗄れ声は、言葉としての体を成していなかった。

「アザリドゥス将軍はこの上におられるのだな!?」

「それは――」

 ほとんど怒鳴りつけるみたいに詰問され、アレクシオスはおもわず言いよどむ。

 アザリドゥスの居場所など知っているはずもない。むしろ、アレクシオスのほうがどこにいるか聞きたいくらいなのだ。

「どうなんだ? いるのか、いないのか!?」

「……ずいぶん急いでいるようだが、アザリドゥス将軍にどんな用件が?」

「一刻も早く将軍にお知らせしなければならんことがある。南東の砦が陥落おとされた。それも、我々の目の前で跡形もなく……」

「砦に攻め入った敵は、青と黄色の鎧を着た二人組ではなかったか?」

「そうだが……なぜ知っている? まさか、ほかの砦もそいつらにやられたのか!?」

 やはり――と、アレクシオスは心の中で手を打つ。

 イセリアとエウフロシュネーだ。城塞内にはけっして攻め込むなと伝えてあるが、城壁の外に築かれた砦を壊すなとは言っていない。

 さんざんに砲弾を撃ち込まれた腹いせといったところだろう。

 イセリアの膂力の前では、砦が石造りだろうと蝋細工だろうと大差はない。ただ力任せに突進し、怒りに任せて踏みしだくだけで、あっというまに草一本生えない更地に戻すことができる。

 ひとり合点がいった様子のアレクシオスに、伝令は胡乱げな視線を向ける。

 それに気付いたアレクシオスは、わざとらしく咳払いをしてその場を取り繕いつつ、

「火急の用件であることはよく分かった。すぐにアザリドゥス将軍のもとへ案内しよう。おれが先導する」

 伝令が何かを言うまえに、さっさと八重の楼閣に向かって走り出していた。

 本当にアザリドゥスがこの上にいるかどうかはアレクシオスの知るところではない。

 だが――都合のいいを手に入れたとなれば、これを活用しない手はなかった。

 用もなくうろついては不審がられもするが、正当な用事があれば申し開きも出来る。

 むろん、正体を看破される危険を極力少なくするためには、誰とも口を利かないことが最善だ。

 伝令を後ろに従えて、アレクシオスはいかにも深刻そうな顔つきで楼閣内を駆けていく。

 何度か歩哨に呼び止められたが、じろりとひと睨みするだけで、何も言わずとも向こうから道を開けた。

 鬼気迫る面持ちの二人である。しかも、伝令のほうは見るからに戦場から戻ってきたばかりの風体ときている。

 焦眉の急に追い立てられていることは誰の目にもあきらかであった。

 この数日は大規模な攻勢こそ途絶えているが、小規模な戦闘は城塞の各所でいまも続いている。

 戦場とは往々にしてあいまいで、つねに不確かな要素に満ちているものだ。

 いつ、どこで、どのような変化が生じるかは誰にも分からない。それは総司令官のアザリドゥスにしてもおなじだった。自力で戦場のすべてを把握することは、神ならぬ身には到底おぼつかない。

 だからこそ、前線と司令部をむすぶ伝令兵は、指揮官の目としてきわめて重要な役目を担っている。

 そのような立場の者を下手に足止めしては、かえって自分の立場が危うくなりかねない。多少疑わしくとも、さっさと通してしまうのが賢明なやり方だ。

 アレクシオスが一芝居打ったのも、そんな軍人の事なかれ主義につけこむためであった。指揮官が優秀でも、配下に染み付いた習い性まではどうにもならない。

 そうして一階また一階と進んでいくうちに、アレクシオスの胸にかすかな予感がさざなみのように沸き起こった。

――いる。

 むろん、根拠などなにもない。

 出たとこ勝負とばかりに突き進んでいるのはいまもおなじだ。

 それにもかかわらず、最上階に近づくほどに、胸のざわめきは大きくなっていく。

 やがて、最後の階段を上がり終えたとき、予感は確信へと変わっていた。

 アザリドゥスは、間違いなくここにいる――。


***


 アレクシオスと伝令は、扉の前で直立不動の姿勢を取っていた。

 分厚い鉄扉である。表面にはいくつも乳鋲が打たれ、雄渾な獅子を象った彫刻レリーフが二人を見下ろしている。

 ヴラフォス城の中枢――楼閣の最上階に設けられた司令部は、この扉の先にある。

 さすがにここは素通りするという訳にはいかず、護衛の兵士を通じて入室の可否を問い合わせているところであった。

 兵士が扉の向こうに消えた時点で、アレクシオスはみずからの予感が的中したことを知った。

 もしアザリドゥスが不在であれば、その場ですげなく追い返されていたはずだ。

「入れ」

 兵士の声が聞こえたが早いか、重々しい音を伴って鉄扉が開いた。

 アレクシオスと伝令は、鉄扉の隙間をくぐり抜けるようにして、素早く内側に身をすべり込ませる。

 司令部に足を踏み入れた瞬間、ふいに視界が明るくなった。

 四方の壁がガラス張りになっていることに加えて、天井にも採光窓が設けられているためだ。

 室内にはゆたかな陽光が差し込み、眼下の絶景とあいまって、とても籠城中とは思えないのどかな雰囲気が漂っている。この楼閣をそっくり展望台に転用したなら、さぞ優雅なひとときを過ごせるにちがいない。

 そうするあいだにも、アレクシオスの目はほとんど反射的に室内を一巡していた。

 部屋の中央には大ぶりな円卓テーブルが据え付けられている。

 円卓を囲むように高級将校が七人ばかり着座するなかで、その男はひときわ目を引いた。

 見つけたというよりは、知らぬまに視線が吸い寄せられたというべきだろう。

 人の上に立つ者は、本人が望むと望まざるとにかかわらず、おのずと場の中心を占めるものだ。それは上座も下座もないはずの円卓においても変わらない。

 アレクシオスが想像していたよりずっと若い。

 見た目は三十半ばといったところ。若手ぞろいの周囲の高級将校たちのなかでも、男の若々しさはいっそう水際立っていた。健康的な肌艶と、気力に満ちた相貌かおが実年齢よりひと回り若く見せているのだろう。

 ゆるやかなウェーブのかかった金髪を肩甲骨のあたりまで伸ばし、軍人というより芸術家みたいな雰囲気をまとっている。

「アザリドゥス将軍閣下に申し上げます――!!」

 アレクシオスの背後で伝令が声を張り上げた。

 正体不明の敵によって砦が陥落した旨をまくしたてた伝令は、ふたたび直立不動の姿勢にもどる。

 アザリドゥスは傍らの部下と一言二言交わしたあと、伝令の目を見据えて、にっこりと破顔した。

「よく報せてくれた。命令は別の者に持たせよう。君はここでしばらく休みたまえ」

「いえ、そのようなお気遣いは――」

「君たち一人ひとりがこの城の守りの要だ。私は諸君を使い潰すつもりはない。身体を休めたら、元の配置に戻るがいい」

 総司令官にそこまで言われては伝令も逆らうわけにはいかない。床につきそうなほど深々と頭を垂れ、ただ感謝の意を表するだけだ。

「ところで――」 

 アザリドゥスの目が鋭い光を帯びた。

 ほとんど黒に近い琥珀色アンバーの双眸の色合いがさらに深くなる。

「君は一階の警備を担当していたはずだが、なぜここに?」

 その言葉が自分に向けられたものだとアレクシオスが気づくまでには、わずかな時間を必要とした。

 一介の兵士に扮したつもりでいただけに、まさか声をかけられるとは思っていなかったのだ。

――どう答えるべきか。

 ただ押し黙ったままでは、かえって怪しまれる。

「伝令が将軍を探しておりましたので、ここまで案内してまいりました」

「わざわざご苦労だったね――トマス。君も下がりたまえ」

「はっ……」

 アレクシオスの心はざわめいた。

 アザリドゥスは将兵から並々ならぬ支持を集めていると聞いたが、まさか末端の兵士の名前まで把握しているとは。たまたま顔見知りだったのか、あるいは……。

「ところで、トマス、傷はもういいのか?」

「ありがとうございます。任務に支障はありません」

「それはなによりだ。きっと神のご加護があったのだろう――」

 言って、アザリドゥスはわずかに口角を上げた。

 柔らかな微笑み。

 にもかかわらず、アレクシオスの背筋にぞくりと冷たいものが走ったのはなぜか。

「トマスは二週間前に戦死した私の従卒の名だ。彼がよみがえったのでないとすれば、君は何者だ?」

 刹那、アレクシオスは激しく床を蹴った。

 少年の身体は中空で変形へんぎょうを開始する――黒い装甲に鎧われた異形の騎士ストラティオテスへと。

 無貌の面に幾何学模様を描いて赤光が走った。

「将軍をお守りしろ!!」

 将校の叫びに呼応して、二人の護衛兵がアレクシオスめがけて槍を突き出す。

 銀光を散らす刃が急迫しても、黒騎士はひるむ素振りすら見せない。

 爪の先まで装甲に覆われた手で穂先をむんずと掴み取り、そのまま力任せにへし折っただけだ。反動でのけぞった兵士の胸ぐらを引き寄せると、別の兵士に叩きつける。二人の兵士は絡み合い、ひと塊になって壁に激突した。

「おのれ、バケモノめッ!!」

 剣を手に飛びかかってきた兵士は、強烈な拳打をみぞおちに喰らい、へどを吐きながら崩折れた。

「――そこまでにしておきたまえ」

 落ち着き払った声は、はたして誰に対して向けられたものか。

 たしかなのは、その一言をきっかけに室内は水を打ったように静まり返ったということだけだ。

 誰ひとりとして勝手に動く者はない。ほんの数秒前まで床の上で苦しげにうめいていた兵士たちも、そして、敵であるアレクシオスも例外ではなかった。

 アザリドゥスは部下たちを制しつつ、アレクシオスに近づいていく。

「君の望みを聞こう……私の生命か?」

「降伏しろ、アザリドゥス。そうすれば生命までは取らない。城塞の兵士にもそう伝えるんだ」

「ふむ……」

 アザリドゥスはゆっくりと瞼を閉じる。

 瞑目して思慮にふける姿は、どこか神学者みたいな趣を帯びている。何をしていても軍人らしさとはかけ離れた男なのだ。

「残念だが、それは聞けぬ願いだ」

 返答は最初から決まっていたようであった。

「いいだろう――自分から生命を捨てるというなら、望みどおりにしてやる」

「無駄なことだ。私を殺しても兵士たちは戦いを止めはしない」

「なんだと?」

「君がどう思っているかは知らないが、彼らは私の操り人形などではない。いまこの城に残っているのは、みずからの意思で戦いに参加した者たちだけだ。末端の一兵士に至るまで、この城塞にいる全員が例外なく……だ」

 愕然とするアレクシオスに視線を向けたまま、アザリドゥスは傍らの護衛兵を差しまねく。

 護衛兵がうやうやしく手渡したのは、長大な両刃戦斧ハルバートであった。

 長身のアザリドゥスが持てばさほど大ぶりに見えないが、刃先から石突までの長さは大人の背丈ほどもあろう。両刃の一方は槍みたいにするどく突出し、もう一方は三日月状に湾曲した刃のかたちを取っている。

「さて……黒い戦士よ。それでも私と戦うつもりなら、相手になろう。これでも武芸に関しては人後に落ちないと自負している。もし君が勝ったときは、私を殺すなり、帝都に連行するなり好きにするがいい」

 一騎討ちに応じるというアザリドゥスの言葉に衝撃を受けたのは、もう一方の当事者であるアレクシオスだけではない。

「おやめください! 将軍!」

「このような者と戦ったところで利はございません。ここは我らに任せ、いそぎ安全な場所へ退避を!!」

 どよもす部下たちにアザリドゥスが与えたのは、場違いな微笑みだけだった。

 歳の割には若く見えるこの男が相好を崩すと、まるで少年みたいにみえる。

 それで十分だった。

 アザリドゥス麾下の将兵は、苦境のたびにこの顔を見せられ、魅せられてきた。

 この人ならきっと大丈夫だと、理屈抜きに信じさせてくれる。いま男が浮かべているのは、そんな笑顔だった。

「さあ、では行こう。ここは君には狭すぎるだろう。心配するな、心置きなく戦える場所がある――」

 戦斧をひょいと担ぎ上げると、アザリドゥスはさっさと歩き出していた。


***


 風が吹いていた。

 壁面のそこかしこに吊り下げられた旗が風にあおられ、ばたばたと音をたてる。

 どれも辺境軍の軍団旗や部隊旗だ。『帝国』の国旗はひとつとして、ない。

 かつてはあったにちがいないが、すべて引きずり降ろされたのだろう。

 おそらく、かつて日々掲揚していたであろう兵士たちのその手によって。

 『帝国』に仇なす反乱軍の居城にふさわしい景観であった。

 そんなヴラフォス城の一角に、空に向かってぽっかりと開いた茶色い口がある。

 半ドーム状の建造物である。天井が大きく開け放たれ、地面が露わになっているためにそう見えるのだ。

 もともとは練兵場として使われていたが、籠城戦が始まると同時に閉鎖され、今日までその使途は宙ぶらりんになっていた。

 練兵場の中心で、アレクシオスとアザリドゥスは対峙していた。

 司令部を出る直前にいったん戎装を解いたアレクシオスは、ふたたび黒騎士に変じている。

 その上方、本来は練兵を監督する教官のために設けられた座席では、数名の将校が固唾をのんで二人を見つめている。彼らだけが立会人としてこの場に留まることを許されたのだ。

「君は存外に礼儀をわきまえているようだ」

 甲冑をまとったアザリドゥスは、兜の下で薄く微笑む。

「一度は司令部に乱入して私の生命を狙っておきながら、こうして律儀に一騎討ちに応じるとは」

「自分を殺しても意味がないと言ったのは貴様だ」

「たしかにそう言ったが、信じたのは君だ。そのまっすぐな心は、きっと君の美徳なのだろう――」

 言いつつ、アザリドゥスは戦斧の柄をくるくると掌で回す。まるで物干し竿かなにかを弄うようだが、むろん重量は比べものにならない。

「さっそく始めるとしよう。お互い忙しい身のようだ」

「望むところだ」

 アレクシオスは腰を落とし、戦闘態勢を取る。

 両手首の付け根から槍牙カウリオドスが展開する。白い槍は陽光を照り返し、光の珠が弾けた。

「ほう――槍か。それはいい。丸腰ならなにか武器を貸そうかと思っていたのだが」

「余計なお世話だ。そんなことより、自分の心配をするがいい!!」

 言い終わるが早いか、先に動いたのはアレクシオスだった。

 逞しい鉄脚が地面を蹴り、黒い騎士の身体を高々と跳ね上げる。

 アレクシオスは空中で身体をひねり、アザリドゥスめがけて飛び蹴りを繰り出す。

 ただの蹴りではない。戎装騎士ストラティオテスの脚力を最大限に活かした一撃は、大樹の幹を叩き折り、分厚い鉄扉をたやすく穿つ威力がある。

 肉体的には平凡な人間であるアザリドゥスがまともに受ければ、むろん即死は免れない。

 鈍い銀色にかがやく甲冑がゆらりと動いた。

 その瞬間、アレクシオスの下肢――向こう脛と脹ら脛の装甲が展開したかと思うと、耳を聾する轟音が練兵場を領した。

 両脚の推進器スラスターが作動したのだ。アレクシオスは空中で急激に方向を転換し、転がるように着地する。

 砂埃が舞う強風のなかで、二人の戦士はあらためて向かい合う。

「貴様……ッ」

「おかしな真似をする。あのまま進んでいれば、私の身体は砕け散っていただろうに」

 アザリドゥスは戦斧を手に、ゆっくりとアレクシオスに近づいてくる。

「容赦はしない――そう言ったのではなかったかな」

 そのまま数歩進んだところで、アザリドゥスの輪郭がかげろうみたいに揺らいだ。

 訝しむ暇もなく、アレクシオスの胸部に鋭い衝撃が走った。

 目の前の敵が戦斧の突きを繰り出したのだと分かったのは、さらに数撃が加えられた後だった。

 刺突と斬撃だけではない。鈍器として殴打し、ありったけの重量を乗せて圧し切る――。

 槍と斧の特性を兼ね備えた戦斧は、使い手の技量によって、まさしく千変万化の攻撃を連環させることが出来るのだ。

 連撃をまともに浴びた黒騎士は、よろめきながら後じさる。

 装甲は無事だ。どこにも逃げ場のない衝撃はアレクシオスの全身に伝播し、四肢の末端までも震撼させたのだった。

 もし鎧を着込んだだけの人間であれば、とうに戦いは終わっていたはずだ。

 戎装騎士をもたじろがせる電光石火の攻め手――人間離れした芸当をこなした張本人は、しかしあくまで飄然と佇んでいる。

「やってくれたな……」

「相手の武器ばかりを見ているからそうなる」

「なに?」

戎装騎士ストラティオテスの能力は噂以上のものだ。しかし、戦士としての君はあくまで未熟。戦いの機微がまるで分かっていない」

 アザリドゥスは戦斧を構え、じりじりと間合いを詰めてくる。

「それをいまから教えよう」

 琥珀色の双眸に冷たい光が宿った。

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