第217話 金羊館殺人事件(Ⅸ)

――――世の中には、同じ顔をした人間が三人いる。


 誰が言い出したことか、東方には古来からそんな言い伝えがある。

 その種の伝承に真偽を問うたところで詮無きことだが、これに関してはどうやら真実らしい。


 ラフザロスがそれを知ったのは、三十歳を迎えてまもないある日のことだった。

 辺境の貧しい農家に生まれたラフザロスは、長じて辺境軍の兵卒となった。

 建前上はみずからの強い希望で志願したということになっているが、実際は口減らしのために生家を追い出され、とりあえず食いつなぐためにやむなく入営したのである。

 少年時代を過ごした軍隊で酒色と賭博の味をおぼえ、二十歳を過ぎたころに酒場で暴力沙汰を起こして部隊を除籍されるところまでは、典型的な田舎のごろつきの人生そのものであった。

 もともと体格と腕力に恵まれていたこともあり、やくざ者としてのラフザロスの人生はそれなりに順調だったと言ってよい。

 博打と酒と女、そして暴力……。

 欲望の赴くままにひたすらに買い、打ち、飲むことだけに明け暮れる放蕩の日々。

 そんな刹那的な暮らしを続けていたラフザロスは、いつものように泥酔して家に戻る道すがら、屈強な男たちに拉致された。

 いかに腕っぷしにかけては人後に落ちない自負がある大男といえども、へべれけに酔っているところを狙われては為す術もない。

 男たちはまたたくまにラフザロスの両手足を縛り上げ、さらに目隠しと猿ぐつわによって完全に身動きを封じたのだった。

 殺されちまう――そんなごろつきの直感に反して、どういうわけか、男たちはそれ以上の危害を加えようとはしなかった。

 荷物のように馬車に積み込まれた後も、求めれば食事と水はいくらでも与えられた。

 どうやら殺すつもりはないらしい。そうと知れたところで、不安はますます募る一方だった。

 自分が田舎のちんけな無法者にすぎないことは、当のラフザロス自身が誰よりもよく分かっている。

 その日暮らしの男には財産と呼べるほどのものはなく、親類縁者とはすっかり縁が切れているため誘拐して身代金を請求することも出来ない。

 持ち物といえば、懐に入れた安物の蒸留酒アラックの小瓶ひとつだけ。

 男たちがこのような挙に出た目的も動機も見当がつかない分、ラフザロスの不安感はいや増すばかりであった。


 拉致されてから三昼夜も経ったころ、ラフザロスはようやく解放された。

 馬車から降ろされ、建物の一室に引き出されたところで、手足の縛めと目隠しを取られたのである。

 ようやく自由の身となったラフザロスは、しかし、その場から一歩も動くことが出来なかった。

 それも無理からぬことだ。

 贅を尽くした応接間で自分と向かい合っていたのは、まごうかたなきだったのだから。

 目の前の男が頭の先から爪先まで豪奢な衣服に身を包んでいるのに対して、ラフザロスはひどく薄汚れた粗末な身なりであるという違いこそあるものの、顔かたちも体格もまさしく生き写しだ。

 もし誰かがこの場に居合わせたなら、二人の男たちは双生児ふたごか、さもなくば巧妙な騙し絵にちがいないと断言するはずであった。


――なるほど。話には聞いていたが、見れば見るほどよく似ておる。不愉快なほどにな……。


 興味深げに言って、鏡写しの男はゆるゆると頷いた。

 その動作に合わせておもわず首肯しそうになっていることに気づいて、ラフザロスははたと我に返ると、激しい口調で男を問い詰める。

 男は慌てる素振りも見せず、相変わらず鷹揚な態度を保ったまま、ラフザロスに告げたのだった。


――おまえには今日からワシの影を務めてもらう。


 解せないといった表情を浮かべるラフザロスをよそに、男はなおも言葉を継いでいく。


――ワシは元老院議員のドロテアスという。これから末永くよろしく頼むぞ、わが影よ……。

 

***


 ドロテアスが影武者の必要性を痛感したのは、脅迫状の数もいよいよ三桁の大台に上ろうかというころだった。

 いずれも差出人は不明だが、内容はどれも似たりよったりだ。


 いわく――


『悪事の証拠はすべて掴んでいる。ただちに不正に蓄えた財産を国庫に返納しろ』

『貧しい民からなけなしの金を吸い上げる吸血鬼、恥を知れ』

『血も涙もない守銭奴。元老院の面汚し』


 そして、そうした脅迫状のほとんどは、次のような一文によって締めくくられているのもお決まりだった。


『もし行いを改めないなら、貴様と家族の生命はないものとおもえ』――


 もともと『帝国』有数の資産家であるドロテアスを妬む者は多い。

 そのうえ元老院議員という地位まで手に入れたとあっては、羨望が殺意を帯びるのも道理であった。

 脅迫状の多くは嫉妬に駆られた者たちの憂さ晴らしにすぎないが、実際にドロテアスの殺害を試みて身柄を拘束された者も一人や二人ではない。

 驚くべきことに、そのうちの一人は中央軍の現役将校であった。元老院に向かうドロテアスを帝城宮バシレイオンの廊下で待ち伏せ、だしぬけに剣を抜いて襲いかかったのである。さいわい将校はその場で衛兵に取り押さえられたが、もしあとわずかでも衛兵の到着が遅れていれば、ドロテアスは一刀のもとに斬殺されていたはずであった。

 将校が襲いかかりざまに放った「天誅!」の絶叫は、”巨象エレパス”と渾名された偉丈夫を恐怖させるのに充分だった。

 今後ドロテアスが官界においていっそうの栄達を果たし、さらなる地位と特権を手にしたなら、いよいよ暗殺は現実味を帯びてくる。

 愛する妻と、生後まもない一人息子フォルネウスを守るためにも、ここで生命を落とす訳にはいかない。


(殺される前に手を打たねばならぬ……)


 そんな折、ドロテアスは妙な風聞うわさを小耳に挟んだ。

 南部辺境の田舎町で、さびれた娼館に入っていく自分の姿を見かけたというのである。

 むろん、栄誉ある元老院議員であるドロテアスが、そのようないかがわしい場所に足を運ぶはずはない。だいいち、この五年のあいだ帝都イストザントからは一歩たりとも外には出ていないのである。


 となれば、考えられる可能性はただひとつ。

 この『帝国』のどこかに、自分と瓜二つの外見を持った男がいるということだ。

 ドロテアスは金に飽かせてほうぼうに人を送り、の捜索に当たらせた。

 もし発見出来たなら、有無を言わさずに帝都まで連行し、あわよくば自分の影武者に仕立て上げようというのである。


 いにしえの昔より暗殺を防ぐ手立ては数多く考案されてきたが、なかでも影武者は最も効果的な手段のひとつとされている。

 なにしろ、ひとりの人間をそっくり別人と入れ替えてしまうのだ。暗殺者がいかなる手練手管を弄したところで、標的がすり替わっていることに気づかなければ、暗殺はむろん失敗に終わる。

 たとえ影武者が殺されたところで本人は痛痒ともしないだけでなく、暗殺を企んだ者を間髪をいれずにあぶり出すことさえ出来る。

 自分と瓜二つの人間を用意するという最大の難題さえ乗り越えてしまえば、ドロテアスはを手に入れたも同然であった。


 はたして、件の男はほどなくして見つかった。

 名前と素性はすでに調べがついている。

 ラフザロス。いちおう西方人ではあるものの、ドロテアスからみれば、塵芥ちりあくたにも等しい下流階級のごろつきである。

 言うまでもなく両者には血縁などあるはずもなく、まさしく神のいたずらによって同じ顔を持って生まれたのだった。

 本来であれば一生交わることがなかった二人の男の運命は、このときを境に奇妙に交差しはじめた。

 ドロテアスの影武者を務めることに当初は難色を示していたラフザロスだったが、それも報酬と待遇を提示されるまでのことだ。


――影武者を引き受けてくれたなら、一生遊んで暮らせるほどの謝礼と、何不自由ない帝都での暮らしを約束しよう。


 ドロテアスの言葉に嘘は感じられなかった。

 相手に生命がけの仕事を依頼する以上、充分な見返りを提供するのは当然でもある。

 なにより、下手に吝嗇りんしょくぶりを発揮して、せっかく手に入れた身代わりに逃げられでもしたら元も子もない。


 ラフザロスはもはや迷わなかった。

 自分の名前、そしてこれまでの人生を捨てるにあたって、さほどのためらいはなかった。

 当然だ。彼の人生には、もともと惜しむほどの値打ちがあるものなどなにもなかったのだから。

 引き換えに手に入れたのは、莫大な報酬と、帝都でのきらびやかな暮らし。

 ほんのすこし前まで地べたを這いずり回るような悲惨な暮らしを送っていたラフザロスは、思いがけず栄光のきざはしを駆け上がったのだった。


 むろん、ただ見た目が似ているというだけでは影武者は務まらない。

 ドロテアスになりきるために、ラフザロスは上流階級としての立ち振舞や政治知識、宮廷における煩瑣な礼儀作法マナーを徹底的に叩き込まれたのである。

 金銭と地位への執着は、自分の名前すら満足に書けなかったチンピラを勤勉無比な学徒に変えた。

 やがて一年が経つころには、ラフザロスはドロテアスの挙措を寸分違わず再現出来るようになっていた。

 よほど専門的な知識を要する質問をされないかぎり、他の人間にはドロテアスと見分けはつかない。

 そうして二年、三年と勉学に打ち込むうちに、ラフザロスは外面のみならず、内面までも元老院議員ドロテアスその人になりきることが出来るようになっていた。

 政治であれ経済であれ、ドロテアスになりきったラフザロスの見識は、本物とまったく遜色ない水準に至ったのである。

 数年前までその日暮らし自堕落な生活を送っていた男とは思えない、それは驚くべき才能の開花であった。

 ドロテアスは影武者の予想以上の仕上がりにおおいに満足し、この頃からは元老院にもラフザロスを送り出すようになっていた。

 そうして忙しない日々から解放されたドロテアスは、これまでの穴埋めをするように、妻と息子を慈しむようになった。

 さしもの”巨象”も、家族の幸せな時間がまもなく終わりを迎えるとは、この時点では夢にも思っていなかった。


***


 ”六月事件”が起こったその日も、ラフザロスはいつものように元老院議員の正装を整え、登城のために馬車に乗り込んだ。

 使用人のなかでも、を知っているのはごくわずかである。

 屋敷の女中メイドも下男も、本物の主人と信じて疑うことなく、ドロテアスになりきったラフザロスを送り出した。

 馬車が帝都の目抜き通りを横切り、帝城宮バシレイオンへと至る長い直線に差し掛かったときだった。

 ふいに道の両脇から武装した兵士たちの一団が飛び出し、馬車の進路を阻んだのである。

 

――国賊ドロテアス、潔く出てこい!! そこにいることは分かっている!!


 鋭く叫んだのは、中央軍の軍服をまとった青年将校だ。

 青年将校の命令一下、剣を抜いた兵士たちはまたたくまに馬車を取り囲んでいく。

 もはや万事休す。ラフザロスが望むと望まざるとにかかわらず、影武者としての本懐を果たすときが訪れたのだ。

 乾いた音が路上に響いたのはそのときだった。

 兵士たちの視線が音の生じた方向に集束していく。

 馬車の車窓から路面に放られたのは、茶色がかった小瓶だった。


――残念だが、人違いだ。あのドロテアスがこんな下品な酒を飲むと思うのか?


 青年将校は訝しがりつつ小瓶を手に取る。

 おそるおそる栓を抜くと、むっとするような酒精アルコールの匂いが鼻を突いた。

 瓶の中身は葡萄酒ワインではなく、蒸留酒アラックらしい。

 もっぱら『帝国』における被支配人種である東方人や、西方人のなかでも下流階級に属する人々が愛飲する酒である。

 ドロテアスともあろう大資産家が、こんな安酒を持ち歩いていることは万が一にもありえない。

 青年将校は苦虫を噛み潰したような表情で馬車を睨むと、兵士たちにむかって右手を上げた。

 

――構わん、行かせてやれ。こいつはドロテアスじゃない。


 青年将校が命じるが早いか、兵士たちは一斉に馬車を離れ、路肩に停めてある軍用馬車に乗り込んでいく。


――ドロテアスはまだ屋敷にいる。逃がすな!!


 遠ざかっていく車輪と蹄の音を聞きながら、顔中に汗を浮かべたラフザロスは、ようやく人心地がついたように息を吐いた。

 自分がラフザロスであることの唯一の証拠として肌身離さずに持ち歩いていた酒瓶。

 いまとなっては思い出したくもない過去の象徴によって、影武者は九死に一生を得たのだった。


 のちに”六月事件”最悪の惨事として知られるドロテアス邸の大殺戮を、ラフザロスは元老院の議場で知った。

 屋敷にいた人間は使用人見習いの少年に至るまで徹底的に殺し尽くされ、なかでも至近距離から鉄火箭てっかせんを打ち込まれた死体は、肉親でも見分けがつかないほどに激しく損壊していたという。

 その後、鎮圧のために駆けつけた中央軍の治安部隊との戦闘のすえ、青年将校と部下の兵士たちもやはり全員が死亡したとのことだった。


 妻子の死という衝撃的な一報に打ちのめされた演技の裏で、ラフザロスの思考を占めたのは、あくまで冷徹な計算だった。

 

(本物のドロテアスが死んだ……)


 ラフザロスは額から滴った脂汗を拳で拭うと、ちいさく首を横に振った。


――ちがう。この俺がドロテアスなのだ。


 その後、ドロテアスは惨劇の舞台となった屋敷を取り壊し、すべての犠牲者を埋葬した。

 一切の証拠を隠滅し、そもそも影武者が存在したことを悟られないための処置であることは言うまでもない。

 本物のドロテアスがすでにこの世にいないことを知っているのは、もはやラフザロスのみ。

 すり替わったことを知られないかぎり、ラフザロスはもはやドロテアス以外の何者でもないはずであった。

 元老院の序列において最後までデキムスの次席に甘んじたのは、うかつに頭角を現す愚を犯さなかっただけのことだ。

 政界を引退したラフザロスは、帝都から離れた土地に金羊館きんようかんを建設し、終の棲家と定めた。


 名声と財産、引退後に娶った美しい妻……。

 田舎のごろつきにすぎなかった男は、ドロテアスとしてあらゆるものを手に入れた。

 誰にも気づかれることなく、本物以上に本物を演じきっているという揺るぎない自信があった。

 何もかもが順調に進んでいるかに思われた。

 死んだはずの息子――フォルネウスからの手紙が届くまでは。

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