第218話 金羊館殺人事件(Ⅹ)(完)

「……聞いてのとおりだ。これが二十年前の真実さ」


 そっけなく言って、ダミアンは長い息を吐いた。


「あの日、両親は生命がけで幼い私を逃してくれた。それからのことは察しがつくだろう。ラフザロスが我が父ドロテアスの名を騙って政財界をほしいままにする一方で、私は身寄りのない浮浪児としてどん底の日々を送った。もし生きていると知れればラフザロスに殺されるとなれば、親類縁者を頼ることも出来なかったからな……」


 ダミアンの語り口はいたって落ち着いているが、その言葉にはひどく暗く重いものがまとわりついている。

 それも当然だ。

 大富豪の御曹司から一転、最下層の貧民として食うや食わずの生活を送ってきたのである。

 二十年という歳月は、ひとりの人間を復讐鬼へと変えるには充分だった。


「ラフザロスへの怨みを忘れたことは一日としてなかった。今日まで私を生かしてくれたのはあの男への怒りと憎しみだ。私は奴に復讐するために泥水をすすり、ダミアンという仮の名前を手に入れて、この金羊館に入り込んだ……」


 ひとりごちるみたいに呟いて、ダミアンは薄い微笑を浮かべる。

 ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、マルシャンはおもわずのけぞっていた。


「ま、待て……なにをするつもりだ!?」

「ラフザロスは死んだ。私が生きている理由もなくなったということだ」

「なんだと――」


 次の瞬間、ダミアンが右の袖口から取り出したものを認めて、広間ホールの全員が身体を強張らせた。

 いったいどのように隠し持っていたのか。それは細長いナイフであった。

 刺されるとでも思ったのか、マルシャンは肥満体を鞠のように弾ませて、いちはやく飛び退いている。

 そんな周囲の動揺など素知らぬ顔で、ダミアンは研ぎ上げられた白刃を、自分自身の首筋へと這わせていく。


「これでもラフザロスには死なずに済む道を与えてやったつもりだったのだがな」

「どういうこと?」


 訝しげに問うたイセリアに、ダミアンは冷えきった視線で応じる。


「奴が自分の正体を――二十年前のあの日に本当はなにがあったのかをおおやけにしたなら、生命だけは助けてやるつもりだった。もともと生命惜しさにあのような男を影武者に仕立てた私の父にも責任の一端はあるのだからな。だが、再三の機会をくれてやったというのに、あの男はあくまでもに固執し続けた……」


 ダミアンの言葉には、どこか自嘲するような響きがある。

 今日まで頑なに正体を隠し続けたのは、ラフザロスだけではない。

 いかに両親の仇を討つためとはいえ、フォルネリウスという本来の名前を捨て去り、身分を偽ってきたのはダミアンにしても同じことなのだ。


「だから、両親の命日でもある”六月事件”の当日に毒殺したってわけ?」

「そういうことだ。復讐を果たした以上、もう思い残すこともない」

「ちょっと、ひとりで勝手に話を終わらせてんじゃないわよ。あんたを殺人容疑で帝都に連行するわ!」

「好きにしてくれ。……すべてが終わってからな」


 イセリアの言葉になど聞く耳を持たないというように、ダミアンは首筋に刃を立てる。

 小ぶりなナイフとはいえ、刃渡りは人間の頸動脈を切り裂くには充分だ。

 ひとたび大出血が起こったなら、救命することはまず不可能である。

 ダミアンは瞼を閉じると、ためらいなく刃を皮膚へと沈めていく。

 さしたる抵抗もなく切り裂かれた首筋からはうっすらと血が滲み、襟首を染めていく。

 血飛沫が床と天井を染めるかと思われたそのときだった。


「なっ――!?」


 ダミアンはあっけにとられたように目を見開いていた。

 右手に握られていたはずのナイフは、いつのまにか影も形もなく消失している。

 首筋にかすかな痛みはあるが、失血死に至るような深手にはほど遠い。

 困惑したように周囲を見渡せば、消えたはずのナイフはあっけなく見つかった。

 ほんの一瞬前までダミアンが手にしていたナイフは、いつのまにか亜麻色の髪の少女の掌中へと所を移している。


「バカな……!! なぜだ!?」


 ダミアンが当惑したのも無理からぬことであった。

 すくなくとも十メートルは離れた場所に立っていたはずのオルフェウスが、なぜ一瞬にナイフを奪うことが出来たのか。

 オルフェウスが行った一連の動作――すなわち、転瞬倏忽てんしゅんしゅっこつの間に行われた戎装と、加速能力の発動は、常人にすぎないダミアンの認識外でことごとく完結したのだった。

 ダミアンだけではない。

 美しい少女が異形へと変貌を遂げ、犯人の自殺を阻止したとは、この場にいる誰もがおよそ知り得ないことであった。

 

「これでよかったかな、イセリア?」

「上出来よ。言われる前に動くなんて、あんたも気が利くようになったじゃない」

「あの人を死なせるのはよくないなと思ったから」


 イセリアはオルフェウスからナイフを受け取ると、指先で刃をへし折る。

 脱力したようにその場にへたり込んだダミアンを、イセリアはすばやく拘束していく。

 あと一歩というところで目論見を挫かれ、すっかり抜け殻のようになった青年は、もはや抵抗も逃亡も諦めたようであった。

 

「私を逮捕してどうするつもりだ……」

「決まってんでしょ。どんな理由があっても人一人殺したのは間違いないんだから、きっちり自分がやったことの責任は取ってもらうわ」

「私に下される判決は死刑以外ありえん。遅かれ早かれそうなるのであれば、いま死んだとしても同じことだろう!?」

「まあ、を殺したんだったらそうでしょうね――」


 飄々と言ったイセリアに、ダミアンは怪訝そうに眉根を寄せる。


「さっきの話が本当なら、あんたが殺したのは元老院議員になりすましてた田舎のごろつきでしょ。相手にはずっと身分を偽っていた罪だってあるんだし、ちゃんと説明すれば情状酌量の余地はあると思うけど?」

「私に殺人者として生き恥を晒せと言うのか!?」

「甘ったれてんじゃないわよ。そのくらい我慢しなさい。……本当に真実を世間に訴えたいのならね」


 イセリアの叱声に、ダミアンはもはや二の句を継ぐことも出来なかった。

 ややあって青年の両目から止めどもなく溢れたのは、復讐を決意した日に捨て去ったはずの涙だった。

 ふたたびダミアンに涙を流させたのは、おのれの手を血に染めたことへの後悔か、あるいは積年の怨みを果たした達成感か。

 しわぶきさえ絶えた広間を、押し殺したような嗚咽が渡っていく。

 熄むことを忘れたような雨が降り続くなか、金羊館で起こった殺人事件は、こうして幕を下ろしたのだった。

 

***


「まったく、骨折り損のくたびれ儲けってこのことよね――――」


 イセリアは机の上にうつ伏せになったまま、いかにも恨めしげに言った。

 すぐ隣で書類仕事を片付けていたオルフェウスとヴィサリオンは、どちらともなく顔を見合わせる。

 イセリアたちが帝都に帰還して数日後の昼下がりである。

 いまのところはこれといった任務もなく、騎士庁ストラテギオンにはいつもどおりの時間が流れている。

 ただひとり、機嫌を損ねたままのイセリアを除いては。


「けっきょく謝礼金は誰からも貰えずじまいだったし!! あーもう、あんな仕事引き受けなきゃよかった!!」

「まあまあ……今回は事情が事情だけに仕方がなかったのですから……」

「仕方がないってどーいうことよっ!?」


 頑是ない子供のようにわめくイセリアをなだめるように、線の細い青年はあくまで穏やかな声で語りかける。


「本物のドロテアス氏が二十年前にすでに死亡していたということで、彼名義の財産はすべて国に没収されてしまったのです。あの金羊館も競売にかけられるか、さもなくば取り壊されるでしょうね」

「そんなのあたしには関係ないわよ! 『帝国』でも指折りの大金持ちだっていうから喜んで引き受けたのに、こんなの詐欺だわ!」

「そう言われても、ご家族の方々も今回の事件で無一文になってしまっては、謝礼のしようもないでしょうから……」


 ヴィサリオンの話はなるほど筋が通っている。

 通っているだけに、イセリアとしてはなおさら面白くないのだった。

 栗色の髪の少女は、ふてくされた顔を上げると、心底からうんざりしたというようにため息をついてみせる。

 

「とにかく! もう今回の一件でもう懲り懲りだわ! 頼まれても二度と護衛なんてやんないから!」


 吐き捨てるように言って、イセリアはふたたび机に顔を伏せる。

 そんなイセリアにむかって口を開いたのは、それまで黙って会話に耳を傾けていたオルフェウスだった。


「イセリアは、今回の仕事がそんなに嫌だった?」

「あったり前じゃない! こんな割に合わない仕事、金輪際お断りだわ! あんただって同じでしょ」

「私はそうは思わないな」

「……なんでよ?」


 わずかな沈黙のあと、オルフェウスは玲瓏な声で答えた。


「イセリアと一緒にいられたから。たくさん話が出来て、私は楽しかったよ」


 イセリアは答えず、相変わらず突っ伏したまま身じろぎもしない。

 その肩が小刻みに震えていることに気づいたヴィサリオンは、「用事を思い出しました」とだけ言いおいて、そっと部屋を出ていく。

 部屋には二人の少女だけが残される格好になった。

 イセリアはわずかに顔を上げると、上目遣いにオルフェウスを見やる。


「……バカ。そういうこと、面と向かって言うもんじゃないわよ」

「どうして?」

「こっちが恥ずかしくなるからに決まってるでしょ‼ そのくらい、言われなくても分かりなさい‼」


 まくしたてるように言って、イセリアはふんと顔をそらす。

 

「気晴らしにご飯食べに行ってくる」

「行ってらっしゃい」


 オルフェウスの身体がおおきく傾いだ。

 イセリアが横をすり抜けざま、強く右の手首を引いたためだ。

 危なげもなく立ち上がったオルフェウスは、そのままイセリアと向き合う。


「……あんたも付き合いなさいよ」

「私?」

「そーよ。ていうか、あんた以外に誰もいないでしょ。アレクシオスはまだ任務から帰ってこないし! まったく、どこで油売ってるんだか……」


 オルフェウスが何かを言う前に、イセリアはさっさと玄関に向かって歩き出していた。

 自分より頭ふたつ分ほど上背のあるオルフェウスを引きずるように進みながら、イセリアはぶっきらぼうに告げる。


「今日は前から行きたかった店をとことんハシゴしまくるわよ! あんたも途中で帰れるなんて思わないことね!」


 オルフェウスは何も言わず、ただこくりと頷いただけだ。

 イセリアが勢いよく玄関の戸を開け放つと、まばゆい光が二人の目交まなかいにあふれた。

 朝方に降った雨の名残りがそこかしこに残る世界を、雲間から差し込んだ陽光が美しく輝かせている。

 玄関の前に広がる水たまりを軽々と飛び越えると、二人は雨上がりの街をめざして駆けていった。


【完】

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