第28話 聖者の家
三人はスフェンダミ街区の北門をくぐり、マグノリア街区へと入った。
街区に足を踏み入れてまず目につくのは、沿道に隙間なく立ち並ぶ狭小な家屋だ。
ざっと見積もって数百軒は下らないそれらの建物のうち、瓦葺きの建物は数えるほどしかない。
さらに奥へと歩を進めても、街の景観にさしたる変化はないままだ。
貧民街であるスフェンダミ街区に較べれば多少豊かではあるものの、やはりこの街区もさほど豊かなほうではないらしい。
そんなマグノリア街区の通り沿いに、ペトルスの診療所はある。
診療所とは言うものの、その実態は民家に毛が生えた程度のものでしかない。
ペトルスは玄関をくぐると、アレクシオスとイセリアに手招きをした。
「さあ、むさ苦しいところだが、上がってくれ」
「本当にね――」
すかさず毒を吐くイセリアに、アレクシオスは無言で肘打ちを入れる。
「なによ、あたし何か悪いこと言った?」
「いいからおまえは黙っていろ!」
言い咎められ、イセリアは不服げに鼻を鳴らす。
そうこうしながら診療所に足を踏み入れると、なんとも言えない匂いが漂ってきた。
苦味と酸味、ときおり混じるかすかな甘さ……。
それらが渾然となった独特の香りは、薬草を煎じる際に生じたものだ。
大陸の東方においては、古来からこの種の本草学が隆昌をきわめていた。
いにしえの昔、東方を統べた偉大な王が国策として多種多様な薬草の研究を奨励したためだ。
不老不死の実現という王の悲願はついに叶わなかったが、本草学は史上類を見ないほど大規模な知識体系として完成を見た。
そのすぐれた技術は、のちに東方の諸地域を支配した古帝国においても変わらず重宝された。さらには西方からもたらされた知識との融合により、古帝国の医学はまさしく黄金期と言うべき活況を呈したのだった。
やがて古帝国が『東』と『西』とに分裂したのち、西方世界の医術は長い戦乱のなかで衰微の一途を辿ったが、東方世界では依然として高い技術的水準を維持したまま今日を迎えている。
そんな東方伝統の医術に通じたペトルスは、医師であると同時に薬師でもあるのだ。
「いま弟子に茶を淹れさせている。私は紙を持ってくるから、君たちはそこの
アレクシオスとイセリアは、ペトルスに指示されるままに卓につく。
診療所の内部は、こじんまりとした外観よりもだいぶ広くみえた。
隅々まで掃除の行き届いた室内は、白漆喰で塗り固められた内壁とあいまっていかにも清潔な雰囲気を漂わせ、来訪者に清々しい印象を与える。
と、壁にかけられた生々しい人体図を目にして、イセリアは「げっ」とちいさく声を漏らした。
臓器や
おなじく壁面に設けられた書棚には数十冊からの書物が整然と並べられている。
いずれも分厚く、革表紙のくすんだ色合いからかなり年季の入った品であることは容易に見て取れる。
むろん、門外漢であるアレクシオスとイセリアには、おそらく医術書の類であろうという以上のことは分からない。これだけの数の書物を揃えるのに必要な対価を勘案すれば、診療所はささやかな見た目の割になかなか繁盛しているらしい。
しばらくすると、先ほどペトルスが言った”弟子”と思しき人物が茶を運んできた。
若い東方人の男だ。
歳の頃は二十四、五と思われた。
医療にたずさわる人間らしく、こざっぱりとした白衣に身を包み、束ねた長髪を肩から流している。
切れ長の目がどことなく狐を想起させる細面の青年であった。
「先生はじきに戻られます。どうぞごゆっくり――」
微笑を浮かべながら会釈する青年に、アレクシオスも礼を返す。
イセリアはといえば、椀に注がれた茶に鼻を近づけ、しきりに匂いを嗅いでいる。
どうやら匂いのせいで口をつける気にはなれないらしい。
「ねぇ、このお茶なんか変なニオイしない?」
「イセリア! 失礼だぞ!」
思わず声を荒げかけたアレクシオスを制止したのは青年だった。
「それは当院特製の薬湯です。初めての方には抵抗があるかもしれませんが、身体に害のあるものは入っていません。どうぞご安心を」
青年の説明に、イセリアは半信半疑といった様子で一口だけすすってみる。
「……なるほどね。たしかに匂いは気になるけど、味はそんなに悪くないわ」
「それはよかった――なにしろ先生が手ずから調合されたものですので、効能は保証しますよ」
勧められるままアレクシオスも椀に口をつける。
たなびく湯気の下で、薬湯は澄んだ翠色を湛えていた。
匂いから想像されるほどには苦味もなく、舌の上にはかすかな滋味さえ感じられる。飲むだけで効能があるというのも納得できる。
人ならざる騎士の身体に薬効が現れるかどうかは、また別の話だが。
「やあ、お待たせしてすまなかったね」
よく通る声が響いたかと思うと、ペトルスの大柄な体が視界に飛び込んできた。
手には薄紙の束を携えている。
「ミハイル、君はもう下がっていい。夕方の診察の準備を頼んだよ」
「承知しました――先生」
ミハイルと呼ばれた青年はアレクシオスたちに一礼すると、その場でさっと踵を返した。
そのあいだにも、ペトルスはアレクシオスの指に付着した残留物の採取に取り掛かっている。
「ペトルス、いろいろと気を遣わせてすまない。この礼はきっとする」
「気にしなくていいと言っただろ?……ほら、きれいに写し取れたようだ」
指に密着していた薄紙が離れると、残留物の大部分は紙の上に移っていた。
いまは紙の上で指紋の形を描くそれは、指の腹にあった時と変わらずあざやかな色彩を示している。
「汚れたりしないように包んでこよう。なに、時間はかからないよ」
「いや、もうこれで十分だ」
「一度乗りかかった船じゃないか。最後まで付き合わせてくれよ」
言って、ペトルスはいそいそと部屋を出て行く。
「……なんか引っかかるわね」
大きな背中が見えなくなったところで、イセリアがぽつりと呟いた。
「引っかかる? ……なにがだ?」
「あのペトルスとかいう医者のことよ。アレクシオスの知り合いって言ってたけど、普通ここまで親切にしてくれる? さっきのミハイルとかいうのも愛想はよかったけど、ああいうのに限って裏で何考えてるか分かんないわよ」
アレクシオスは言葉に詰まった。
イセリアの指摘は、たしかにアレクシオスも心のどこかで感じていたことだ。あまりに出来すぎている。
それでも、とアレクシオスは反駁する。
「……初めて会ったときも、ペトルスは見ず知らずのおれの肩を持ってくれたんだ。自分とおなじ西方人ではなくな。他人を疑うのは簡単だが、おれはあの男を信じたい」
言い切ったアレクシオスに、イセリアは呆れたようにため息をついてみせる。
「ま、アレクシオスのそういうところ、あたしは嫌いじゃないけどね?」
「べつにお前に好かれたいとは思っていない」
「アレクシオスったら照れちゃって、かわいい!」
イセリアはけたけたと笑いながら、
「ねえ、すこし探検してみない?」
周囲を見回しつつ、小声で問いかけたのだった。
「勝手にあちこち歩き回るのは迷惑だぞ」
「いいじゃない。こうしてじっとしてても退屈だし、見られて困るものがあるようには思えないもの」
そう言うと、イセリアはさっさと部屋から出ていってしまった。
アレクシオスもあわてて追いかける。
年季の入った床板は、一歩進むたびにみしみしと軋りを立てた。
アレクシオスが追いついたとき、イセリアは廊下に面した一室を覗き込んでいた。
そこは病室だった。整然と並べられたベッドの上には、さまざまな年齢の患者が臥せっている。
「……なんだか死にそうな病人ばっかり」
「おまえ、言っていいことと悪いことがあるぞ」
「だって、本当にそう見えるんだから仕方ないでしょ?」
しかし、アレクシオスも言葉には出さないものの、病室を一瞥してイセリアと同様の印象を受けたのは事実だった。
患者はいずれもひどくやせ衰え、肌は暗い土気色を示している。死期が近いのは誰の目にもあきらかだ。
「……よほど金持ちでもないかぎり、助かる見込みのない病人は医者にもかかれないと聞いたことがある。普通の医者は、自分のところで患者が死ぬのを嫌がるからな。たぶん、ペトルスはそんな病人を拒まずに受け入れているんだろう」
「ふうん……」
心打たれた様子のアレクシオスとは対照的に、イセリアはあくまで淡々としている。
そのまま病室から離れると、イセリアはひとり廊下のさらに奥へと進んでいく。
「おい、もういいだろう。戻るぞ」
「まだ始まったばかりよ。これっぽっちじゃ探検にならないでしょ?」
しばらく歩を進めたところで、イセリアはふいに立ち止まる。
その一角は、他の部屋とはあきらかに異質な雰囲気を漂わせていた。
地下に潜っていくような小さな
見るからに重々しい造りの扉は、やはりと言うべきか、厳重に施錠されているようだった。
「……気になるわね」
「いい加減にしろ、イセリア。盗人のような真似をするんじゃない!」
「べつに何も盗らないわよ。それより、なにか聞こえない? 水の音みたいな……」
「水?」
イセリアの肩を掴みつつ、アレクシオスは聴覚に意識を集中させる。
騎士の聴覚は、常人には決して聞き取れない微小な音であろうと正確に捕捉する。
それだけに、背後からふいにかかった声は、二人を大いに驚かせたのだった。
「どうしたね? ふたりとも」
二人揃っていかにもぎくしゃくした挙措で振り返ると、髭面の医師と目が合った。
ちょうど部屋を出たところなのだろう。片手には先だって持ってくると言っていた包み紙を携えている。
「ペトルス、違うんだ、これは――」
「ええっと……そうそう、あたしってばちょっとお茶飲みすぎちゃったみたいで!」
言いつつ、イセリアはアレクシオスにさっと目配せをする。
自分の演技に合わせろ、と言っているのだろう。
「厠なら外に出てすぐ左だ。よければ案内しようか?」
「ありがとう! でも、一人で大丈夫よ!」
それだけ言うと、イセリアはさっさと廊下を駆けていったのだった。
「すまない、あいつのせいで迷惑をかけた」
「気にしなくていいさ。元気のいいお嬢さんじゃないか」
しん、と静まり返った廊下を、アレクシオスとペトルスは連れ立って歩き出す。
「……勝手にあちこち覗いてすまなかった。悪気はなかったんだが、申し訳ないことをした」
アレクシオスが詫びを口にした瞬間、ペトルスの顔にわずかに緊張が走った。
それはすぐに霧消し、平素と変わらぬ温厚な笑みがもどる。
「なんのことだい?」
「病室を見た。知ったふうなことを言うつもりはないが、あんたは立派だ。おれは心から尊敬する」
「私は医師として当然のことをしているまでだよ。どんな患者であろうと関係ないさ。私は持てる技術と知識のかぎりを尽くすだけだ」
ペトルスの言葉は、医師としての誇りと自信にあふれていた。
たとえ薬石効なく死を待つばかりの患者でも、こんな男に看取ってもらえるなら、それは決して不幸ではないとアレクシオスは思う。
「だが、医師に出来ることにも限度はある。私も精一杯手は尽くしているつもりだが、それでも救えない患者のほうが多い。あたらしい薬や道具を導入したいのはやまやまだが、帝都のお歴々は貧しい病人にはあまり関心がないようだからね」
「あんたのせいじゃない。たとえ救えなかったとしても、患者はきっとあんたに感謝しているはずだ」
それに――
高貴な身分にも下々の民を気遣ってくれる方はいる。
あのとき、自分とオルフェウスを助け出してくれた皇太子殿下のように。
言いさして、アレクシオスはぐっと言葉を飲み込む。本来接点があるはずもない雲上人の名を出すのは、いくらなんでも迂闊にすぎる。
「ありがとう、アレクシオスくん。そう言ってもらえるだけで励みになるよ。ところで、さっきの部屋には入ったのかい?」
「いや……前を通っただけで、扉には触れてもいない」
「それならよかった。あそこは薬の保管庫でね。薬のなかには一滴口にしただけでも生命にかかわる劇毒もある。知識のない人間が立ち入ってはことだ」
「なるほど、道理で鍵がかかっていたはずだ」
ややあって、イセリアが戻ったところでアレクシオスは辞去を申し出た。
ペトルスは夕食を食べていくようしきりに勧めたが、そこまで甘えるのはさすがに気が引けるというものだった。
なにより、せっかく見つけた手がかりが劣化しないうちに詰め所に戻らねばならない。
「今日は本当に助かった。この礼は近いうちに必ず……」
「水臭いことを言うな。私たちはもう友人同士だろう? 近くを訪ねてくれた時は、またお茶の一杯でもごちそうさせてくれ」
はにかみつつ、ペトルスはごつごつした両手で包み込むように握手をする。
ともすれば痛いほどの力強い感触は、アレクシオスにとって心地よくもあった。
アレクシオスとイセリアが詰め所に戻ったのは、すでに陽が傾きかけたころだった。
「おかえりなさい。ずいぶん遠くまで行っていたのですね?」
二人を出迎えに出たのはヴィサリオンだ。
オルフェウスともども、だいぶ前に詰め所に戻っていたようだった。
「ああ、その分収穫もあった」
そう言って、アレクシオスは懐から幾重にも折りたたまれた紙片を取り出す。
「これは?」
「油脂の類らしいが、詳しいことはおれにも分からん。犯行現場で見つかった手がかりはこれだけだ」
アレクシオスは包み紙を開き、薄紙に移し取った残留物をヴィサリオンに示す。
と、アレクシオスはかすかな違和感を覚えた。
発見した時には光を受けて目まぐるしく色を変えていたそれは、今ではせいぜい二色か三色のあいだを移り変わるのみ。
(時間が経ったからか?)
アレクシオスはイセリアにも確認させようとして、思い留まる。
もとより残留物に興味などなかったイセリアである。現在の状態を見せたところで、微妙な差異を見分けられるとも思えなかった。
「とにかく、これはおれたちが持っていても仕方がない。これ以上変化しないうちに詳しい人間に鑑定を頼んだほうがいい」
「では、明日中にはそのように手配しておきましょう」
「たのむ」
アレクシオスは椅子に腰を下ろすと、目の前に机に視線を落とす。
つい数時間前まで書類仕事をしていた机がやけに懐かしく思えるのは、半日を詰め所の外で過ごしたためだろう。
イセリアのように口にこそ出さないが、慣れない仕事に疲労感を感じているのはアレクシオスも同様だった。
あちこちの街区をさまよった挙句、見つかったのは犯人の手がかりかどうかも定かではない油染みひとつ。
それでも、目に見える成果があっただけでも幸運と言うべきだろう。
四人がかりとはいえ、まだすべての犯行現場を回った訳ではないのだ。明日も同じように地道に手がかりを探すことになる。
探し回っても何かが見つかるという保証はどこにもない。
懸命の調査も虚しく、手ぶらで詰め所に戻るおのれの姿を想像すると、アレクシオスはどうにも気が重くならざるをえない。
「ところで、そっちはなにか見つけたのか?」
問いつつ、アレクシオスはヴィサリオンとオルフェウスに交互に視線を送る。
「……残念ながら何も。あなたがこれを持ち帰ってくれなければ、何ひとつ進展がないまま一日を終えるところでした」
ヴィサリオンがすまなげに言うと、オルフェウスもそれに合わせてこくりと頷いた。
今日一日、行動を共にした二人である。
そもそもはオルフェウス一人で帝都を歩かせるのは心配だとアレクシオスが言い出したのが発端だった。
最初はイセリアとオルフェウスの二人で行動するよう提案したのだが、
――なんであたしがあの娘のお守りしなきゃならないわけ!?
と、語気強く拒絶されては、それ以上無理強いもできない。
ふたりの相性の悪さ――というよりはイセリアが一方的にオルフェウスを毛嫌いしているだけだが、ともかく無理やり行動をともにさせては配慮が裏目にも出かねない。
結果、本来であれば詰め所に残るはずだったヴィサリオンにお鉢が回ったという次第だった。
「ごめんね。……なにも見つけられなくて」
「おまえが謝ることじゃない。おれはたまたま運がよかっただけだ」
小声で詫びるオルフェウスにむかって、アレクシオスは自嘲するみたいに言った。
「で、明日はどうするの?」
わざとらしくあくびをしつつ、イセリアが言った。
「決まっている。今日回りきれなかった犯行現場をしらみつぶしに当たるんだ」
「えー……めんどくさいなあ」
「嫌ならおまえはここに残れ。今日みたいに付き纏われるくらいなら、何もしてくれないほうがいい」
にべもなく突き放すアレクシオスに、イセリアは「なによう」といかにも不満げな顔を向ける。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。仲間同士で喧嘩をしていては犯人を捕まえるどころではありませんからね」
不穏な空気を察してか、ヴィサリオンが慌てて二人のあいだに割って入る。
「……べつに喧嘩などしていない。おれ一人の方が動きやすいのは本当のことだ」
「明日は私がここに残ります。今日のように全員で出払ってしまうのはいろいろと不都合もありますからね」
「それはいいが、おれたちはどうするんだ?」
問われて、ヴィサリオンは瞼を閉じてしばし黙考する。
決して円満とは言い難い三人の騎士たちをどのように扱うかは、この青年にとっても頭痛の種なのだ。
やがて、ぽん、と手を打つと、
「明日は朝早くから捜査を始められることですし、あなたたち三人で現場を見て回るというのはどうでしょう?」
相変わらずの柔和な微笑を浮かべつつ、朗らかに言ったのだった。
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