第27話 再会
帝都イストザントの都市構造は、しばしば蜂の巣にたとえられる。
城壁に囲まれた市街地のなかに五十あまりの街区がひしめき、その様子は巣房に区切られた蜂の巣の構造を彷彿させるためだ。
隣り合う街区同士は高い壁と堅牢な門扉によって隔てられ、もし一朝事あればひとつひとつの街区が敵を食い止める防壁として機能する。
すべては皇帝とその一族を災厄から守護するために考案され、長い年月のなかで整備されていったものだ。
むろん、この街の住民が日々の生活を送る上で、要塞としての性格を自覚することはまずない。
街は平和そのものだ。
市民は人口百万人になんなんとする大都市の暮らしを謳歌し、日々の繁栄に酔いしれている。
果てしなく続くかのような平和と享楽の日常が、帝都住民の心に油断と慢心を培ったであろうことは想像に難くない。
「……犯人にとっては最高の狩り場だろうな」
まだ日も高いうちから酔客であふれる酒場の前を通過しながら、アレクシオスはひとりごちた。
(だが、これ以上好き勝手な真似をさせる訳にはいかない――)
騎士たちはこれまで誘拐事件が発生した場所を調べて回っている最中だった。
ラフィカが詰め所から去ったあと、アレクシオスはすぐに捜査を始めるようヴィサリオンに迫った。
まだまだ日没までには時間がある。帝都全域を回るのは不可能としても、官庁街に近い事件現場を調べることはできる。
すでに捜査への協力を決めた以上、監督役であるヴィサリオンとしても反対する理由はなかった。
かくして
「……このあたりか」
アレクシオスはスフェンダミ街区を東西に貫く通りの中ほどで足を止めると、そのまま視線だけを横に向けた。
道沿いに立ち並ぶ建物と建物のあいだに、細い路地が伸びている。
両側の建物に遮られてほとんど陽が届かないためだろう。昼なお暗く、寂寥とした雰囲気のただよう一角だった。
注意していなければ通り過ぎてしまいそうなその路地は、一連の事件の犯人と推測される鳥面の男が目撃された場所だ。
アレクシオスは路地に足を踏み入れると、地面に片膝をついた。
服越しにひんやりとした冷気が伝わってくる。
それは水を含んだ土の冷たさだ。
帝都といえども、こうした細い路地はろくに舗装もされていないのが常だった。
だが、今回に限ってはそれがかえって好都合でもあった。
犯人の痕跡がいまなお現場に留まっているとすれば、石敷きの舗装よりもやわらかな地面のほうがより鮮明であるにちがいない。
事件の発生からだいぶ時間が経過しているとはいえ、めったに人通りもない裏路地であれば手がかりのひとつも見つかるかもしれない――。
そんな淡い期待を抱いてこの場所に足を向けたアレクシオスだったが、犯人もそう簡単に尻尾を掴ませてはくれないらしい。
ひとしきあたりを調べてはみたが、めぼしいものはついに見つからなかった。
少なからぬ失望を覚えつつその場を立ち去ろうとしたその時、ふいにアレクシオスは立ち止まった。
裏路地を挟んで建つ家の壁に、なにやら奇妙なものを認めたためだ。
「なんだ……?」
壁に塗り込まれた漆喰はすっかり黒茶けて、いかにも年季の入った風情を漂わせている。
そんな一面の暗い色の片隅にあって、ほんのわずかに光沢を帯びた箇所がある。
アレクシオスは意を決して指をすりつけてみる。
それはあっけないほど簡単に剥離し、少年の指を汚した。
「油――か?」
指の腹をこすり合わせると、たしかにぬるぬるとした感触がある。
ためしに裏路地に差し込むかすかな陽光に透かせてみると、付着物は思いもよらぬ反応を示した。
銀から金、金から紫、紫から緑といった具合に、指を動かすたびに猫の目みたいにめまぐるしく色彩が変化していく。
とても自然の産物とは思われないその奇妙な性質に、アレクシオスは強く興味を引かれた。
現場の近くで見つかったということは、事件に関係している可能性もある。
他にも同様の残留物はないかと周囲をふたたび見回すが、地面にも左右の壁面にもそれらしいものは見当たらない。
「仕方ない。これだけでも持ち帰るとするか」
アレクシオスはもう一度壁に指を押し付けて奇妙な残留物をこすり取ると、そのまま裏路地を後にした。
(はやく紙を手に入れなければ……)
事件との関連性が詳らかになった訳ではないとはいえ、現場で唯一見つけた手がかりなのだ。
乾いたり、他のものに移ってしまう前に然るべき方法で保存する必要がある。
そのためには、紙へ移すのが最も確実と思われた。
とはいえ、紙を購入するためにどこかの店に入るのも気が進まなかった。
わざわざ一枚だけ紙を買うというのも怪しまれるだろうし、何より片手が使えないのでは支払いもおぼつかない。
ヴィサリオンへの報告がてら詰め所に戻ろうとしたその時だった。
「やっと見つけたわ!」
どん、と背後から衝撃が突き抜ける。
かろうじて転倒こそ免れたものの、アレクシオスはその場で大きくよろめく。
振り向けば、イセリアがにいといたずらっぽい笑みを浮かべて佇んでいる。
「どう? びっくりした?」
「どういうつもりだ!」
「なによう、ちょっと驚かせようと思っただけじゃない」
けたけたと笑うイセリアに、アレクシオスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「それより、なぜおまえがここにいる? 自分の持ち場はどうした」
「そっちはもう終わったわ。いくら探してもなにも見つからないんだもの。これ以上調べたって時間の無駄よ」
「……無駄、か」
アレクシオスは責めるでもなく、ぽつりと呟いた。
そして指に付着したままの残留物に目をやると、
「おれも現場で見つけたのはこれだけだ」
光を浴びて絶え間なく色合いを変えるそれを、イセリアに示したのだった。
「なに? それ?」
「おれにも分からん。だが、犯人が通った場所に残っていたということは、事件と何か関係があるはずだ」
イセリアは「ふうん」とだけ呟いて、いかにも所在なさげに髪先を弄う。
事件の犯人につながるかもしれない手がかりにも、まるで興味など持っていないようであった。
「ね、ね、そんなことよりさ――」
ずいと距離を詰めると、アレクシオスの意志などお構いなしに腕を絡めた。
「これからどこか遊びに行かない? あたし帝都のことよく分かんないし、案内してよ」
「おまえ、今おれたちが何をしているのか分かっているのか?」
「堅いこと言わないでよ。せっかく外に出られたんだし、すこしくらいいいじゃない」
「なにをバカなことを――」
アレクシオスは心底呆れた風でため息をつくと、絡んだ腕を引き剥がそうと試みる。
が、いかんせん膂力ではイセリアに分がある。詰め所で羽交い締めにされた時と同様、アレクシオスがどれほど足掻いたところでどうなるものでもない。
「離せ!」
「やだ!」
道端で押し問答を繰り広げる男女。
それだけなら珍しくもない痴話喧嘩の光景だが、男の側が傍目にも分かるほど力負けしているとなれば別だ。
長引くにつれ、道行く人々から奇異の視線が向けられるのも当然だった。
「いい加減にしろ! 本当に怒るぞ!」
「事件の捜査だかなんだか知らないけど、そんなのあの二人に任せておけばいいじゃない!」
イセリアは半ば自暴自棄になって叫ぶ。
「だいたい、おまえも捜査には乗り気だっただろうが」
「あれはなんていうか、その場の勢いで言っちゃっただけだし……」
言って、イセリアは拗ねたように唇を尖らせる。
「だからさ、調べたってことにしてどこか遊びに行こうよ!」
「そんなに行きたいなら一人で行け。おれはまだやることがある」
努めて冷徹に言い放つアレクシオスだったが、いくら突き放したところでイセリアが素直に聞き入れるはずもない。
がっちりと絡んだ腕はまるで鉄の錠がかかったみたいに小揺るぎもせず、このまま強引に連れ去られるのも時間の問題と思われた。
「おやおや――今日は違う女の子を連れているのかい」
横合いからふいに声がかかった。
たしかに聞き覚えのあるその声に、アレクシオスは首だけを動かして声の主を確認しようとする。
「誰よ! いま取り込み中なんだから放っておいて!」
イセリアは振り向きもせずに言い捨てる。
「なかなか力の強いお嬢さんだ。君たちの問題に深入りするつもりはないが、このままでは帝都中の噂になってしまうよ」
「噂……?」
その言葉が引っ掛かったのか、イセリアは周囲をきょろきょろと見回してみる。
関わり合いになるのを恐れてか、足を止める者こそいないものの、往来を行き交う人々はなにやら口々に囁きあっている。
それが自分たち――正確には自分ひとりに向けられたものだとイセリアが理解するのに、さほど時間はかからなかった。
「見世物じゃないわよ!」
イセリアが腕をほどくと、アレクシオスの身体はそれまで拘束されていた反動のために強く弾き出される格好になる。
数歩も進まぬうちに壁のようなものにぶちあたった。
それは分厚い胸板だ。
「災難だったようだね、アレクシオスくん?」
「……やはりあんたか、ペトルス」
顔にかかった赤茶色の髭を除けつつ、アレクシオスは安堵の息を漏らした。
「ここで何を?」
「往診の帰りでね。君たちこそ、こんな昼間から天下の往来で見せつけてくれるじゃないか」
「待て――誤解だ、それは!」
軽口を叩くペトルスに、アレクシオスは冗談ではないと言うように眉をしかめてみせる。
「このおじさん、アレクシオスの知り合い?」
イセリアが訝しげに問うた。
自分だけが蚊帳の外に置かれたように感じたせいか、その声には明らかな険がある。
礼を失しているといえばあまりに礼を失した物言いに腹を立てる素振りもなく、ペトルスはイセリアに向き直る。
「私はペトルスという。この近くで町医者をしている者だ。アレクシオスくんとは何日か前に知り合ってね」
「町医者……ね」
イセリアはなおも胡乱げな視線を向けている。
「さっきも言ったように、そのときは違う女の子を連れていたがね。……名前は、たしかオルフェウスといったかな」
「ふうん……そうなんだ? アレクシオス?」
イセリアは視線をアレクシオスのほうにスライドさせる。
「ただ昼飯を買いに出ていただけだ! ペトルス、誤解させるような言い方はやめてくれ!」
「ははは! 色男はからかってみたくなるものだろ?」
必死になって抗議するアレクシオスの様子がおかしくてたまらないというように、ペトルスは呵々と笑声を上げる。
イセリアは男たちに背を向け、腕を組んだまま押し黙っている。不機嫌そのものといった面持ちでむくれているのは言うまでもない。
「ああ、そうだ――」
アレクシオスはふいに手を打った。
「ペトルス、紙を持っていないか? ほんの少しだけでいい」
「紙、か……」
ペトルスは肩にかけていた革袋に手を突っ込むと、ごそごそと中を探る。
大きな手が動くたび、袋のなかにぎっしりと詰め込まれた診察器具がちらちらと覗いた。
「すまないが、あいにく今は持ち合わせがないようだ。しかし、紙なんて何に使うんだい?」
「これだ」
言って、アレクシオスは指の腹に付着した残留物を示す。
「ふむ? 見たところ、油脂かなにかのようだが……?」
ペトルスは光の下でせわしなく色を変えるそれをしげしげと眺めると、興味深げに言った。
「訳あって詳しいことは言えないが、大事なものだ。紙に移せばこれ以上状態を損なわずに持ち帰れると思ってな」
「それなら、私の診療所に来るといい。ここからなら歩いてすぐだ。薬を包む紙を分けてあげよう」
願ってもない申し出だったが、それだけにアレクシオスは当惑せざるをえない。
「本当にいいのか?」
「知り合いが困っているなら放ってはおけないさ」
「すまん、恩に着る」
大柄な身体を揺らして笑うペトルスに、アレクシオスはぎこちなく礼を言う。
人ならざる存在として世間に蔑まれてきた少年にとって、好意を向けられるのは不慣れな経験だった。
他方ペトルスはといえば、アレクシオスと言葉を交わしながら、先ほどから不機嫌そうに背を向けたままの少女に声をかける。
「そこのお嬢さんも一緒に来るといい。手狭な貧乏家だが、お茶くらいは出せるよ」
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