第29話 闇の底にて

 その音は、闇の深奥から湧き上がっていた。

 獣の唸りのようでもあり、人のすすり泣く声のようでもある。

 古い伝承にいう冥府の亡者の呻吟とは、まさしくこのようであるにちがいない。

 冷たく湿った空間であった。

 時折ぽつぽつと水の滴る音がこだまする。

 四方の壁はすっかり闇に溶けている。音の反響の具合から察するに、かなり広大な空間らしい。

 ふいに、まるく闇が消散した。ろうそくの光が灯ったのだ。

 薄明かりにぼんやりと浮かび上がったのは、妖しい人影だった。

 頭から爪先まで黒ずくめの装束に身を包み、顔にはカラスみたいな嘴のついた仮面をつけている。

 仮面に隠され、その表情は杳として知れない。

 黒衣に覆われた肩は、こころなしかうなだれているようであった。

 「――しくじったな、ケイルルゴス」

 闇の奥から声が響いた。

 低く鋭いその声は、あきらかな譴責の色を帯びていた。

 「面目次第もありません……我が師よ」

 言うなり、ケイルルゴスはがくりと膝を突く。

 小刻みに身体を震わせているのは、みずからの失態への羞恥と、これから待ち受けている責めへの恐怖のためであろう。

 「まったくだ。よりによって現場に証拠を残していくとは、とんだ不手際をしでかしてくれたな」

 師とは別の声であった。

 やはり姿は見えないが、その声にはあからさまな軽侮と嘲笑がにじんでいる。

 「イアトロス、貴様……ッ!」

 先ほどとは打って変わってケイルルゴスは気色ばむ。

 師に対してはひたすらに平伏し、恐懼するばかりのかれだったが、同輩から浴びせられた侮蔑は腹に据えかねたらしい。

 「よく反省しろ、愚か者め。だからお前はいつまでも二流のままなのだ」

 「だまれッ! 我が師ならまだしも、貴様にそんなことを言われる筋合いはない!」

 「しくじったのは事実だろう?」

 どこまでも冷たく言い放つイアトロスに、ケイルルゴスはなおも食ってかかろうとする。

 むろん、ケイルルゴスもみずからの置かれている立場を理解出来ていない訳ではない。

 それでも憤然として反駁せずにいられないのは、図星を指されている悔しさのためであった。

 「――そこまでにしておくがいい」

 師に咎められ、ケイルルゴスは我に返ったように頭を垂れる。

 その姿は闇に紛れて見えないが、イアトロスも同様に恐縮しているにちがいない。

 「師よ、いま一度私に機会をお与えください。このケイルルゴス、必ずや先の失態を挽回してごらんにいれましょう!」

 「案ずるな――すでに手は打ってある」

 「なんと!?」

 師の返答に、ケイルルゴスは心底驚いたような声を上げる。

 「私たちがお前の失敗の尻拭いをしてやったのだ。感謝してもらわなければな」

 横合いから投げかけられたイアトロスの言葉に、ケイルルゴスは歯噛みする。

 「……どう手を打ったというのだ、イアトロス」

 「我らのことを嗅ぎ回っている連中を見つければ、後はどうとでもなる」

 相変わらず姿を闇に溶け込ませたまま、イアトロスは声だけを返す。

 「二人組の男と女だ。女には多少ひやりともさせられたが、男の方はとんだお人好しだ」

 「その連中はどうなった?」

 「さあな――今頃はどこかで野垂れ死んでいるだろう。なにしろ、師が手ずから調合された薬を飲ませてやったのだからな」

 「毒を盛ったことが露見したらどうするつもりだ」

 「私が貴様のようなヘマをすると思ったか? 眠っている最中に毒が回るよう、薬の量を調節しておいた。もし怪しまれたとしても、あの処方を見破れる医師はまずいまい……我々を除いてはな」

 イアトロスは自信たっぷりに断言する。

 「さて――我が師よ、此度のケイルルゴスめの処分はいかに?」

 師に問いかけるイアトロスの声はいかにもうれしげだ。

 かれにとって、ケイルルゴスが失敗を犯したのはもっけの幸いだった。

 自身を筆頭とする門弟の序列は、いよいよもって確固たるものとなりつつある。

 むろん、イアトロスとて、ケイルルゴスに真に厳正な処罰が下されることを望んでいる訳ではない。

 犯行現場に証拠を残していくような粗忽な同輩が少々痛い目を見れば、それで充分だった。非才の身で張り合おうとする心根が矯正されればなおいいが、そこまでは望めないことも分かっている。

 「――ケイルルゴスの処分は不問に付す」

 「なんですと!?」

 「おお……感謝します、我が師よ!」

 ケイルルゴスが感極まったように叫ぶ。

 イアトロスの驚きの声は、それにほとんどかき消される格好になった。

 「お言葉ですが、師よ。何の処罰も受けないとあっては、こやつは懲りもせずまた同じことを……」

 「ケイルルゴスもみずからの失態の重大さは理解しているはずだ」

 なおも食い下がろうとするイアトロスだったが、師は取り合うつもりもないらしい。

 「すこし油断が過ぎたな。今回の一件は、不用意に屍徒を地上に出したために起こったこと。それは分かっていよう、ケイルルゴス」

 「はっ――」

 師の言葉はどこまでも落ち着いていた。

 責めを負う者にとっては、激情に任せて叱責されたほうが気楽なことはままある。

 いま、じっと伏して師の言葉に耳を傾けるケイルルゴスは、まさしく真綿で首を絞められる心地だった。

 じわ、と首筋に不快な汗が浮かぶ。心臓が乱れた鼓動を打ち鳴らす。

 「今後は手抜かりなく事を進めよ」 

 師の短い言葉は、この”裁判”の結審を意味してもいる。

 ケイルルゴスはようやく鳥面の下で安堵の息を漏らす。気づかれぬよう、あくまでひっそりと。

 「必ずや我が師の期待に応えてごらんに入れます」

 眼前の闇に向かって、ケイルルゴスは決然と宣言した。


 「相変わらず我が師は貴様に甘い――」

 呆れたように呟いたのはイアトロスだ。

 師が立ち去った闇のなかで、イアトロスとケイルルゴスは対峙していた。

 「当たり前だ。私は幼い頃から師の下で修行を積んできたのだからな。昨日今日弟子入りした貴様とはちがう!」

 「その新参者に追い越されたのはどこの誰だったか――なあ、ケイルルゴス」

 暗闇にぱっと小さな光が咲いた。

 イアトロスが燐寸マッチを擦ったのだ。ほのかな光源に照らし出されたのは、狐狸を象った奇怪な面であった。

 「今回の失態も実に貴様らしいよ。肝心なところで詰めが甘い。だから師も一番弟子に私を選ばれたのだ」

 「……そうやっていい気になっていられるのも今のうちだぞ」

 「満足にも出来ないようでは、二番手の地位も危ういな?」

 イアトロスは仮面の下でくっくと笑声を漏らす。

 「師がいつまでも貴様を甘やかしているとは思わないことだ。あの方は寛大だが、無能者はいずれ見切りをつけられるだろう――」

 「そんなことは貴様に言われるまでもない」

 これまで師に切り捨てられた弟子を何人も見てきたケイルルゴスである。

 罪の意識からすべてを官憲に打ち明けようとした者、師が調合した薬を売り捌いて私腹を肥やそうとした者、幾度も失敗を繰り返した者……。

 ひとたび無能と見做した者、そしておのれを裏切った者に対して、師はあくまで非情だった。

 ただ闇に葬られただけならまだいい。

 なかには甚だしく師の怒りを買ったために、生きたまま屍徒に作り変えられた者もいる。

 ともに師の下で学んでいた同輩が物言わぬ生ける屍となり、やがて腐り落ちていくさまを見たのは一度や二度ではない。言うまでもなく、それは門弟に対する見せしめだった。

 師の譴責を受けるたび、そうして心の奥底に刻み込まれた恐怖がケイルルゴスを震わせるのだった。

 「私は二度と同じ失敗はしない。師の期待を裏切るような真似は、決して……」

 「せいぜい肝に銘じておくがいいさ」

 言って、イアトロスは踵を返す。

 そのまま数歩進んだところではたと立ち止まると、

 「次のは明日の夜だ。――しくじるなよ、ケイルルゴス」

 まるで独り言みたいに言ったのだった。

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