第30話 心の距離
一行と呼ぶには、まとまりに欠けた三人だった。
言うまでもなく、アレクシオスとオルフェウス、そしてイセリアだ。
三人の騎士たちは互いに微妙な距離を保ちながら、しかし同じ方角に向けて歩を進めている。
いま、かれらは帝都を南北に貫く目抜き通りの雑踏のなかにある。
昨日のヴィサリオンの提案に従い、三人で犯行現場の調査に向かっているのだ。
一歩進むごとに朝の大気が容赦なく肌を刺す。
払暁を境にやわらいだとはいえ、夜のあいだに蓄えられた冷気は、いまだ街中に滞っていた。
さまざまな人種が混在する帝国の首都らしく、道行く人々の外見は千差万別の様相を呈している。共通していることといえば、誰もが白い息を吐いているという一点のみだ。
そして、それはアレクシオスたちも例外ではない。
かれら騎士にも人間と同じように寒暖の感覚はある。吐く息が白くけぶるのは、呼吸をしている証だ。
ほんのすこし視線を上方に向ければ、息苦しさを感じるほどに分厚い雲が低く垂れ込めている。
折からの曇天は、いつ雨空に変わっても不思議ではない。
アレクシオスは焦りを覚えていた。雨に降られては、たとえ証拠が残っていたとしてもかき消されてしまうかもしれない。
と、ふいに右肩に触れるものがある。わざと接触してきたのは明らかだった。
「……おい、あまりくっつくんじゃない」
「だって寒いんだもん」
すかさず腕と腕を絡ませようとするイセリアから逃れるように、アレクシオスはさっと身をかわす。
「なによ――あたしとくっつくの、そんなにイヤ?」
「当たり前だ。往来のど真ん中だぞ」
「アレクシオスのケチ。べつに減るもんじゃないし、いいじゃない」
「……どうとでも言え」
隙あらば絡みつこうとするイセリアを巧みにいなしつつ、アレクシオスは周囲に視線を巡らせる。
通行人のなかからオルフェウスの姿を見つけるのは容易だった。
ただそこにいるだけで衆目を集めずにはいられない美貌の少女は、いまは別の意味で目を引く姿をしている。
分厚い頭巾が首から上をすっかり覆い隠しているのだ。
――あんたは目立つんだから、これをつけなさい!
そう言って、先ほど詰め所を出る際にイセリアが無理やり被せたのだった。
「あの格好、本当よく似合ってると思わない?」
アレクシオスの視線の動きを察してか、イセリアが意地悪げに言った。
柿渋色の頭巾。落ち着いているといえば聞こえはいいが、若い娘にはおよそ似つかわしくない地味な色合いだ。
身につけるのが美しい娘であれば、なおさらだった。
「……おまえ、わざとあれを選んだのか?」
「それ以外にあたしがあの娘に物をあげる理由なんてないわ」
イセリアはにひひ、と得意げな笑みを浮かべる。
「顔はちゃんと隠せてるんだし、色なんてなんだっていいじゃない。あの娘がいるとみんな立ち止まって見ようとするんだから。そのせいであたしたちまで足止め食らってたら大変でしょ?」
「それは――たしかにそのとおりだが」
「ちょっと美人だからっていい気になりすぎなのよ」
べつにあいつにそんなつもりはない――喉まで出かかった言葉を、アレクシオスはぐっと呑み込んだ。
そして、もう一度オルフェウスのほうを見やる。
頭巾の下で少女がどんな表情を浮かべているかは分からない。たとえ頭巾がなかったとしても、平素と変わらぬ無表情を保っているのだろう。
(嫌なら、そう言えばいいだけのことだ)
アレクシオスは心のなかで呟く。
イセリアに無理やり頭巾をかぶせられている最中も、オルフェウスは抵抗らしい抵抗を示さなかった。
顔のほとんどが隠れるほどきつく巻かれては、いかに騎士といえども不快感を覚えないはずがない。
イセリアの言うとおり、滞りなく目的地に向かうためには必要な措置といえた。それはアレクシオスも認めざるをえないが、内心ではどうにも釈然としない思いがくすぶっている。
「どうしたの?」
真横を歩きつつイセリアが問いかける。
アレクシオスは答えない。
その場で立ち止まると、人ごみのなかで器用に半身を翻す。
そしてオルフェウスのほうに手を伸ばすと、
「――」
少女の白く細い手首を無造作に掴み、ぐっと引き寄せたのだった。
面食らったのはイセリアだ。
「ちょっと、アレクシオス! いきなりあの娘の手なんか握っちゃって、どういうつもりよ!?」
「あいつがはぐれそうになっていたからだ。どこかの誰かが顔を隠したせいでろくに前も見えていないなら、こうするほかないだろう」
「……勝手にすれば!!」
イセリアにしてみればまんまと墓穴を掘った形になった。
それ以上悪態を突くこともなく、黙々と足を動かす。
「おまえもだ、オルフェウス」
アレクシオスは視線を前方に向けたまま、わざとぶっきらぼうに言った。
「嫌なら嫌とはっきり言え。黙っていたら、おれたちには何も分からない。気に入らないならそう言っていいんだ」
答えはすぐには返ってこなかった。
さまざまな音に満ち溢れた雑踏のただなかで、三人の騎士たちのあいだにほんのわずかな静寂が流れる。
「私は――」
オルフェウスがようやく口を開いた。
「……嫌じゃない。イセリアも、アレクシオスも、ありがとう――」
結局、その日は何も得るものはなかった。
三ヶ所の犯行現場をくまなく調べたにもかかわらず、犯人の痕跡はついに見つからなかった。
出立する前、アレクシオスはスフェンダミ街区で発見された油脂がふたたび見つかるかもしれないという淡い期待を抱いていた。二ヶ所に同じものが残されていたなら、あれが犯人につながる証拠であることの裏付けになる。
が――そんな期待も虚しく、三人の騎士たちは手ぶらで帰路についている。
帝都の西の空は、はやくも茜色に染まりつつある。夜闇が近づいている。
「あーあ、まったくとんだ無駄足だったわね」
イセリアはいかにも疲れ果てたといった風で愚痴をこぼす。
もっとも、実際にイセリアが汗を流した訳ではない。調査のために動き回ったのはアレクシオスとオルフェウスの二人であり、その間イセリアは「見張り」と称してあたりを所在なくぶらついていたのだった。
「おまえは何もしていないだろうが」
「手がかりが見つからなかったのは本当でしょ?」
「……完全に手詰まりだな」
アレクシオスはため息をつく。
一昨日の夜に誘拐事件が発生した七ヶ所の現場は、今日一日ですべて調べ終わった。
一日半の捜査で得られた手がかりはといえば、犯人が残したかどうかさえ定かではない奇妙な油脂だけだ。
帝都のあちこちを調べ回った成果としては、あまりにもお粗末と言わざるをえない。
「あの油の正体が判っていればいいんだが……」
アレクシオスは残留物の鑑定の結果に一縷の望みを託しているが、過度の期待が禁物であることも分かっている。
もし何も分からなければ、文字通り捜査は振り出しに戻った形になる。
仮に油の正体が判明したとしても、犯人とは無関係な食品や燃料の類であるという可能性も否定出来ない。
ともかく、昨日の懸念が現実のものとなってしまったことで、アレクシオスはすっかり意気消沈していた。
気がかりなのは、事件だけではない。
ふと思いついたように、アレクシオスは傍らの少女に視線を移す。
オルフェウスは朝と変わらぬ姿で黙々と歩いている。
――ありがとう。
あのとき、オルフェウスはたしかにそう言った。
自分とイセリアに向けられたその言葉の真意を、アレクシオスはいまだに計りかねていた。
(……感謝されるようなことは何もしていない)
考えれば考えるほど、底の見えない深みに嵌っていくようでもある。
かと言って、いまさら本人に真意を問いただすのも憚られる。必要以上に意識していると思われたくはなかった。
結局、アレクシオスは素知らぬふりで通すことを選んだのだった。
そうこうするうちに、三人は十字路に差し掛かった。
このまま大通りをまっすぐに進めば、詰め所のある官庁街は目と鼻の先だ。
一方、左の曲がり角に掲げられた標識は、並行する道がマグノリア街区に続くことを示している。
その標識の前で、アレクシオスはふいに足を止めた。
「どうしたの? アレクシオス?」
イセリアが怪訝そうな顔で問う。
二人に倣ってか、オルフェウスもその場に立ち止まっている。
「すこし寄っていきたい場所がある。おまえたちは先に戻っていてくれ」
「それならあたしも一緒に行く! ……ああ、あんたは先に帰っていいわよ」
イセリアはオルフェウスに向かって「しっしっ」とばかりに手を動かす。
オルフェウスは無言で頷くと、そのまま雑踏のなかに身を投じようとする。
「まて!」
少女の後ろ姿が人波に紛れようとした時、アレクシオスは呼び止めるべく叫んでいた。
突如として湧いた大音声に、周囲の通行人が何事かと振り返る。
「……?」
最後に振り向いた顔は、柿渋色の頭巾をかぶっていた。
「ついて来るも来ないも好きにしろ。だが、どっちにしてもおまえたち二人一緒だ」
「なんでよ!?」
「うるさい。文句があるなら二人で一緒に帰れ!」
アレクシオスはおもわず声を荒げる。
「あの娘のことなんて放っておけばいいのに……」
ぶつくさと文句を垂れながら、イセリアはオルフェウスを一瞥する。
「何やってんのよ? ついてくるなら早くしなさい」
「……いいの? イセリア」
「いいも悪いも、アレクシオスがああ言ってるんだから仕方ないでしょ」
棘と険とをこれでもかと盛り込んで、イセリアは言い捨てる。
「言っとくけど、あたしはあんたと二人で帰るなんてお断りなんだから!」
オルフェウスは何も言わなかった。
一人で帰路につこうとした時と同じように、ただ首を縦に振るだけだ。
アレクシオスはすでにマグノリア街区に向かって歩き出している。
目を離せば雑踏に紛れてしまいそうな少年の背を追って、二人の少女はどちらともなく駆け出していた。
「なんだ、昨日来た診療所じゃない」
目的地にたどり着いたところで、イセリアがつぶやいた。
質素な佇まいの診療所は、昨日訪れた時と寸分違わぬ姿でそこにある。
「いろいろと世話になったからな。早めに礼をしておきたい」
「ふうん――律儀なのね」
イセリアは興味なさげに言うと、診療所の壁にもたれかかった。
「長居をするつもりはない。すぐに戻るから、おまえたちはここで待っていろ」
「……わかった」
答えたのはオルフェウスだ。
ここまで走ってきたためか、頭巾はほとんど解けかかっている。
ほとんど一日ぶりに外気に晒された容顔は、相変わらず美しいままそこにある。
「二人とも、おれが戻るまで勝手にどこかに行ったりするなよ!」
二人とは言うが、釘を刺したのはおもにイセリアに対してだ。
アレクシオスは診療所の玄関に回ると、門扉をたたく。
しばらくして建物の中からばたばたと足音が聞こえたかと思うと、
「当院になにか御用ですか? 申し訳ありませんが、先生はただいま外出中で……」
扉の合間から顔をのぞかせたのは、浅黒い肌の青年だった。
ミハイルとさほど変わらない年格好に、やはり清潔な白衣を身に着けている。
どうやらペトルスの弟子の一人らしい。
小さな診療所だが、病床に横たわっていた患者の数を思えば、切り回すには三人でもまだ不足かもしれない。
「ペトルスに世話になった者だ。礼をしにきたんだが、不在なら仕方ない」
「礼……ですか?」
「おかげで昨日は助かったからな」
そう言って、アレクシオスは懐から小包を取り出す。
つい今しがた沿道の店で購入したものだ。それは新品の紙束であった。
「ペトルスが帰ってきたらこれを渡してくれるか。貴重な紙を分けてもらった上に茶まで振る舞ってもらったからな。このくらいの礼はしないとおれの気が済まん」
その瞬間、青年はまるで雷に打たれたみたいにかっと目を見開いた。
節くれだった長い指は傍目にもあきらかなほど震えだし、面長の顔には大粒の汗の玉がいくつも吹き出す。こころなしか、呼吸も浅く早くなったようだった。
アレクシオスは青年の変化を不審に思いながらも、そのまま背を向けて立ち去ろうとする。
「あの――!」
背後からかかった声に、アレクシオスは上体だけで振り返った。
「どこか具合の悪いところはありませんか? たとえば、腹がひどく痛むとか……?」
「いや――べつに普段と何も変わりないが」
「……そう……ですか」
「ペトルスによろしく伝えておいてくれ」
言い終わるが早いか、アレクシオスはもはや振り返ることもなく、つかつかと歩き始めていた。
騎士といえども、背中に目はついていない。
それゆえ、アレクシオスはついに見ることはなかった。
みずからの背を見送る青年の表情がめまぐるしく移り変わるそのさまを。
驚愕から恐怖、焦燥へと、それは青年の心のざわめきを表している。
そして――最後にその顔に浮かび上がったのは、まぎれもない凶相であった。
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