第3話 鉄鎖乱舞
奇怪――。
陳腐な表現といえばそれまでだ。
だが、闘技場に現れた男の風貌を形容するのに、それ以上に適した言葉もまたないように思われた。
男の肉体に取り立てて変わったところは見当たらない。その体躯はせいぜい十人並みか、やや大きい程度である。
衆目を引くのは男の身体それ自体ではなく、その表面を覆っているものだ。
灯りに照らされて黒々と輝くそれは、あきらかに人間の皮膚とは様相を異にしていた。
それは鉄だ。
正しくは、何百ともしれない鉄の輪の連なりであった。
男の肉体は、一分の隙もなく無数の鉄の鎖に覆われている。
太さも長さもまちまちだが、その数は少なく見積もって百を下るまい。
ひとつひとつはさほどの重さではないにせよ、それほどの鉄が密集すれば恐るべき重量となる。
並の人間では身動きすらままならないはずの重量をまとったまま、男は苦もなく歩いてみせる。
尋常ならざる膂力を備えていなければ、まずもって不可能な芸当であった。
四肢に絡みついた鎖をわざとらしくじゃらつかせながら、男はゆっくりと闘技場の中心に進みでる。
幾重にも重なり合った鎖の切れ目から、わずかに血走った両眼がのぞく。
凶猛な双眼は、相対した美しい敵手をはっきりと捉えていた。
「騎士オルフェウスに対するは、過去七度の優勝に輝いたこの男!! 鉄鎖使いのシデロフォロス!」
司会の紹介が終わるやいなや、観客席から感嘆とも驚愕ともつかぬ声が上がった。
シデロフォロスとは、”鉄をまとう者”の意である。
言うまでもなく偽名だが、この奇怪な男にはたして人間らしい本名など存在するかどうか。
いずれにせよ、シデロフォロスの名はこの闘技場における伝説だった。
伝説とは、幻と同義でもある。
シデロフォロスが最後に闘技場に姿を見せたのは、いまから三年前のことだ。
七度目の優勝を果たしたあと、シデロフォロスはそのままいずこかへ姿を晦ました。それからというもの、かれの消息は杳として知れなかったのだ。
闘士の入れ替わりの激しい闘技場において、三年の空白期間はあまりに長い。
にもかかわらず、シデロフォロスの名が今日まで観客たちの記憶に留まりつづけたのは、ひとえにその凄まじい戦いぶりゆえであった。
そして、いま――。
沈黙を破ってよみがえった闘士シデロフォロスと相対するのは、この世のものとも思われぬ美貌の騎士オルフェウス。
見た目こそ麗しい乙女だが、その身のうちに戎狄を討ち滅ぼす力を秘めた、まさしく超常の存在である。
人間の尺度ではおよそ図りきれない怪物同士の戦いをまえに、並み居る観客たちの興奮は否が応にも高まっていく。会場全体がにわかに熱を帯びたように感じられるのもあながち錯覚ではあるまい。
「では――始めッ!」
司会が高らかに宣言するが早いか、開幕を告げる鉦が激しく打ち鳴らされる。
戦いが始まってなお身じろぎもせずに対峙していた両者だが、それも長くは続かない。
先に動いたのはシデロフォロスだ。
鈍重な見た目からは想像もつかないほど俊敏な挙動に、観客たちは一様に目を見開く。
はたして、どれほどの者がその動きを正確に把握できただろう?
シデロフォロスは鉄鎖の重量などなきがごとく猛然と駆け、一気に敵手との間合いを詰める。
対するオルフェウスはといえば、相変わらず無表情を保ったまま立ち尽くしている。まどろむように薄く開かれた両目は、そもそも喫緊の事態を認識しているかどうか。
両者を隔てていた十メートルあまりの距離は、一秒ごとに縮まっていく。
と、シデロフォロスの右腕がわずかに動いた。
目にも留まらぬ疾さで飛んだのは、一条の鉄鎖だ。
鉄鎖は稲光と見まごうジグザグ状の軌道を描いて空を裂き、オルフェウスの右手首に絡みつく。
観客たちと司会の目には、二人のあいだに突如として鎖が出現したように見えたはずだ。文字通り電光石火の一撃であった。
シデロフォロスが手首を軽くひねるのに合わせて、黒い鎖は白い繊手に容赦なく食い込んでいく。
鉄鎖は乙女の薄い皮膚を容易に裂くだけにとどまらず、じきに柔らかな肉を食い破り、ついには骨まで達するであろう。
むろん、その過程には耐えがたい苦痛を伴うことは言うまでもない。
だが――。
オルフェウスの美しい顔は、この期に及んでもいかなる表情も示してはいなかった。
それどころか、透き通る白い肌には、汗の玉のひとつも浮かんでいない。
(女ながらに大したやつ――)
シデロフォロスは心中で呟くと、左腕を動かして第二の鎖を放つ。
やはり目にも留まらぬ迅さで飛来した鎖は、オルフェウスの左足を固く拘束する。
シデロフォロスの攻撃は、むろんこれで終わりではない。
立て続けに繰り出されたのは、まさしく魔技と呼ぶべき恐るべき技巧。
おのれの右腕と左腕からさらに一本ずつ鎖を飛ばし、一瞬にしてオルフェウスの左手と右足の自由を奪い取る。
四肢のすべてを厳重に拘束され、もはやオルフェウスはみずからの意思で体を動かすことすらままならない。
まさしく絶体絶命――。
次の瞬間には落命していてもおかしくない状況のなかで、オルフェウスはやはり眉一つ動かさずに佇立している。
鈍感と呼ぶにはいささか度を越している。みずからの生命が危殆に瀕している自覚など、少女は微塵も持ち合わせてはいないようであった。
「シデロフォロス、凄まじい猛攻!! 騎士オルフェウスは脱出なるか!?」
司会者が叫ぶ。
所詮は常人よりも声が大きいだけが取り柄の男である。どれほど目を凝らしても、超常の戦いの全容を知ることは到底できない。
とはいえ、試合が早くも膠着状態に陥りつつあるのは、かれにとっては幸運と言うべきであった。
観客席に目を向ければ、並み居る観客たちはいずれも食い入るように試合に見入っている。
かれらがオルフェウスを自分達と同じ西方人と認識し、同情と戸惑いが綯い交ぜになった視線を向けたのは、彼女が騎士と知れるまでのわずかな間である。
――騎士は、人間ではない。
どれほど卓越した美貌をもち、西方人としての肉体的資質を備えていようとも、騎士はあくまで人ならざる怪物なのだ。
そもそも、血の通った人間が殺し合う凄惨な試合をひとときの娯楽として消費してきた観客たちである。人の皮をかぶった怪物に寄せる同情心など、ひと欠片とて持ち合わせているはずもなかった。
主催者パトリキウスに劣らないほど貪婪で嗜虐心に満ちあふれたかれらが、この戦いに期待するものはただひとつ。
すなわち、美しいものが無残に破壊される一部始終を見届けることだ。
たとえ人間でなくとも、オルフェウスの美しさに異を唱えるものはいない。
その類まれな美貌が壊される瞬間には、むくつけき闘士たちの殺し合いでは決して得られない満足感が得られるはずだった。
この上なく美しい存在の、無残で苦痛に満ちた終焉をみずからの眼で見届けること。
それが観客たちの最大の
そして――その時は、まもなく訪れようとしている。
シデロフォロスが手首を返すたび、オルフェウスの四肢を締め上げる四条の鉄鎖は、じわじわと柔肌に食い込んでいく。
常人であれば、あまりの苦痛に泣き叫び、恥も外聞も捨てて命乞いをしているはずであった。
大の男ですらそうなのだ。いわんや年若い少女となれば。
どれほど忍耐強くとも、いつまでも苦痛に抗えるはずがない。
鎖を締め上げる力はますます強くなっている。
それにもかかわらず、オルフェウスはいまだに声を上げていない。両手足を千切れよとばかりに責め立てられてなお、表情ひとつ変えずに佇んでいる。
観客たちもいい加減に首を傾げはじめる頃合いである。
シデロフォロスが手を抜いている――そう考える者が出ても不思議ではない。
ほかならぬシデロフォロス自身、焦りを自覚している。
(州牧閣下にまでそう思われるのは、まずい)
ほんの一瞬、シデロフォロスは観客席の最上部に設けられた特別席に視線を移す。
舞台からパトリキウスの姿を見ることは叶わない。
それでも、間違いなくこの戦いを観覧しているはずであった。
武芸を磨くことに傾倒するあまり、俗世間に居場所を失ったシデロフォロスにとって、おのれを取り立ててくれたパトリキウスへの忠誠心は並々ならぬものがある。
出場に先立って、シデロフォロスは出来る限り試合を盛り上げ、観客を喜ばせるようにとの厳命を受けている。
パトリキウスの忠実な飼い犬であるかれにとって、主人の期待に背くことは絶対に避けねばならない。
「しゃっ――!!」
シデロフォロスの口から裂帛の気合が発せられたのと、かれの右手から新たな鎖が投じられたのは、ほとんど同時だった。
右腕一本で操る鎖は、これで三本目だ。
ほとんど動く余地もないままの投擲であったが、そこは老練の鎖さばき、寸分の狂いもなく鎖を操ってのける。
宙に放たれた鎖は、一直線に空を裂き、少女の白く細い首を絡め取る。
たとえ切断されても即死には至らない四肢とは異なり、頸部への圧迫は生命の危機に直結する。
呼吸を断たれれば、いかに騎士といえどもひとたまりもないはずであった。
鉄輪の連なりがオルフェウスの首に巻き付いたのを確かめると、シデロフォロスは鎖の結び付けられた小指を引く。
ぎり――と、鉄の連なりが軋りを立て、オルフェウスの首を締め上げる。
それは絞首刑の図そのものだ。
現役の闘士であったころ、シデロフォロスはこの手で数多の敵を葬り去ってきた。
もはや更新されることはないと思われた犠牲者の名簿に、三年ぶりに新たな名が加わろうとしている。
シデロフォロスはいよいよ処刑を完遂すべく、五指に渾身の力をこめた。
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