第2話 戦のあと

 『東』の第四十三代皇帝イグナティウス・アエミリウスの御世も終わりに差し掛かったころ――。


 当時、北方辺境を侵した戎狄バルバロイと呼称される存在について、『帝国』の正史は多くを語らない。

 北方諸州に戎狄なる正体不明の外敵が攻め入り、帝国軍とのあいだで戦闘が繰り広げられた旨のごく簡潔な記述があるだけだ。

 戎狄側の指導者の名、戦いの規模、被害の程度……それらすべてについて、正史は緘黙に徹している。

 後の世において、戎狄は『帝国』への恭順を拒んだ北方の異民族として理解された。

 異民族との軍事衝突は、『帝国』の歴史において珍しいことではない。そもそも戎狄という言葉自体、元を辿ればそれらの異民族への蔑称のひとつなのだから。

 戎狄バルバロイとの戦いは、前後して生起したさまざまな重大事の陰に隠れ、後世においてはことさらに顧みられることもなくなった。


 もっとも、たとえ正史を編纂した史家たちがありのままの真実を書き残していたとしても、後世の人々には一笑に付されていたはずだ。

 誰が信じられるだろう?

 戎狄バルバロイと呼ばれた存在が、人ならざる異形の群れであったなどとは――。


 この世のいかなる動物ともかけ離れた姿をもった戎狄は、圧倒的な力で辺境を蹂躙した。帝国軍は敗走を重ね、一時は国家の存立さえ危ぶまれたのが事実だった。

 どのように取り繕ったところで、それは荒唐無稽な怪物譚でしかない。

 歴史と神話とが混沌としていた古代ならいざしらず、両者が明確に袂を分かって久しい時代である。

 怪物の存在をありのままに記述しようものなら、『帝国』の威信をかけて編まれる正史の信頼性すら失墜させかねない。

 正史に組み入れられるにあたって、北方辺境で発生した事態が常識の範疇に収まるように改変されたのは当然だった。

 どの時代、どの国家においても、書き残されたものが歴史を形作る。

 史書は歴史のすべてを書き記す訳ではない。史家の筆が拾い上げなかった一切は、時の流れのなかに埋没するさだめであった。

 歴史の記述から捨象されたのは戎狄だけではない。

 人ならざる存在でありながら、人間の側に立って戎狄と戦った者たちがいたことも、また。


 戎装騎士ストラティオテス――。

 同時代のいかなる史料を探しても、その名を見つけることはできない。

 人間の力では到底太刀打ちできなかった戎狄を食い止め、ついにはこの地上から一掃したのは、ひとえに騎士たちの功績だった。

 それにもかかわらず、正史はかれらの存在を完全に黙殺した。

 かれらの存在に言及することで国家の名誉がいちじるしく毀損されると考えたのか。それとも、戎狄と同じように正史から排除されるべき怪異とみなされたのか。

 ――あるいは、その両方か。

 正史の編纂に当たった史家の考えが那辺にあったかは知れない。

 いずれにせよ、かつて北方辺境で繰り広げられた戦いの実態は、人知を超えた異形と異形との激突にほかならない。

 その一方が滅び去ったいま、騎士は人の世に残った最後の怪物だった。


***


 石造りの小部屋は、不快な湿気に満たされていた。

 闘技場へと続く薄暗い回廊にいくつも並んだ小部屋は、すべて闘士の控え室だ。

 外界に通じる窓が設けられていないのは、闘士の逃亡を防ぐためだ。

 施錠こそされていないものの、室内にはどこか牢獄みたいな風情が漂っている。

 試合のたびに闘士はこの部屋から闘技場に向かい、勝者のみがふたたび来た道を戻ることが出来る。

 ギルタブルを打ち破ったアレクシオスが控え室に戻ったのは、つい今しがたのことだ。

 部屋の片隅にはいつのものとも知れない古びた水瓶が一つと、血止めの薬草と包帯代わりのぼろきれが詰め込まれた革袋が無造作に置かれている。

 アレクシオスはいずれにも手を付けようともしない。

 先の試合で傷ひとつ負っていないということもあるが――もとよりこの少年には必要もなく、また効能も望み得ぬものだった。

 黒髪黒瞳の少年は何をするでもなく低い椅子に腰掛け、唇を真一文字に結んだまま瞑目している。


 まもなく第二試合が始まる。

 闘士の人数も試合の組み合わせも、アレクシオスは知らされていない。知らせる必要はないと主催者側が判断したためだ。

 この闘技場に足を踏み入れて以来、主催者は少年を余興の駒としか思っていないようだった。

 礼を失した振る舞いの数々には、むろんアレクシオスも不快感を覚えている。

 だが、今さら不満を申し立てても詮無きことであった。真面目に取り合ってくれはしないだろうという諦めもある。

 アレクシオスが考えているのは、いかにしてこの馬鹿げた見世物を勝ち抜けるかということだけだった。

 それに較べれば、自分が置かれている環境など些細な問題にすぎない。

 いずれにせよ、次の出番が巡ってくるまでは、この控え室で無聊をかこつほかないのだ。

 寂然とした室内には暇をつぶすようなものも見当たらない。

 仕方なく瞼を閉じたアレクシオスであったが、静寂はすぐに破られた。


 「――アレクシオス殿、よろしいですか?」


 扉越しに呼びかける声には、たしかに聞き覚えがあった。

 州牧の配下の中でもとりわけ狡猾な面構えの女――名は、たしかカミラといった。

 いかにも慇懃な物腰を装ってはいたが、言動の端々に隠しきれぬ嘲りと軽蔑が滲む不快な女だった。

 それは余興に供される闘士すべてに向けられたものだろうが、ことアレクシオスに対してはそれ以上の理由があるように思われた。


 「入れ」


 アレクシオスは横になったまま応える。


 「おれの番が回ってくるには早すぎると思うが」

 「ええ、まだお休みになっていて結構ですわ。用件はすぐに済みます」


 部屋に足を踏み入れるなり、カミラが慇懃に言う。


 「じつは州牧閣下からあなたに言付けを頼まれたのですよ――すこし手加減が過ぎるのではないか? ……と」

 「だったらなんだ? 相手は少し図体が大きいだけの人間だ。おれが本気を出すような相手じゃない」


 おれたちが戦う相手は戎狄バルバロイだ、人間などではない――。

 喉から出かかった言葉を、アレクシオスはぐっと呑み込んだ。

 カミラはやれやれといった風に大げさに肩をすくめると、


 「……どうやら、まだ自分の立場がお分かりになっていないようですわね?」


 ずいと一歩踏み出し、アレクシオスを見下ろしながらなおも言葉を継いでいく。


 「州牧閣下はこうも仰っておられました。もし今後も相手に手心を加えるようなことがあれば、ヴィサリオン殿の身の安全は保証しかねる――と。これは脅しではありませんわ」

 「貴様……っ!」


 気色ばむアレクシオスを前にしても、カミラは狼狽する様子もない。


 「次は本気で戦うことです。さっきのように人間の皮をかぶったままではなく、今度は化け物らしい姿で、ね?」


 一方的な嘲弄を浴びせられても、アレクシオスはひたすら唇を噛むばかりだった。

 怒りに任せてカミラに飛びかかり、その小憎らしい顔面を石壁にぶち当てて、熟れた柘榴みたいに砕いてやるのはたやすい。

 だが、ひとたびそれを実行に移した瞬間、こうして恥辱にまみれながら戦う理由も永遠に失われるだろう。


 耐える――。

 アレクシオスにとって、それがこの場における唯一にして最善の方法だった。

 それでも総身に漲った殺気までは抑えきれなかったのか、ただならぬ気配に気圧されたカミラは足早に部屋を出ようとする。


 「そうそう――もう一つ、いいことを教えて差し上げましょう」


 すでに半歩ほど回廊に踏み出しながら、振り向きもせずに言った言葉を、アレクシオスは聞き逃さなかった。


 「今夜ここに集められた騎士は、あなたひとりではないわ」


***

 

 同じころ――。

 アレクシオスが控え室に戻ってから、はやくも一時間あまりが経過していた。

 闘技場では、そのあいだに四試合が決着を見ている。

 ふつうなら一時間に二試合を消化するのがせいぜいということを思えば、異例の早さと言ってよい。

 最初の試合があまりに早く決着したことを差し引いても、だ。

 アレクシオスをふくむ八人の闘士が対峙し、うち四人が次なる戦いへと駒を進めた。


 勝者の陰には、むろん敗者がいる。

 一回戦の四人の敗者のうち、いまもかろうじて生き残っているのは、皮肉にもまっさきに醜態をさらしたギルタブルただひとりだけだった。

 その後におこなわれた三試合は、文字通りの血戦であった。

 パトリキウスが闘士たちに凄惨な殺し合いを演じるように命じたのだ。

 闘士たちは、いずれものっぴきならぬ事情を抱えて闘技場に集められた者たちである。

 ギルタブルのような無法者だけではない。極刑を言い渡された重罪人もいれば、一生働いても返しきれないほどの借金を背負った債務者もいる。

 かれらにとって、この闘技場は文字通りの終着点だった。

 死ねばそれまでだが、幸運にも最後まで生き残ることができれば人生をやり直すことができる。借金を帳消しにしてもらうことも、無罪放免も望むままだ。

 とはいえ、それも最後まで戦意を失わなければの話である。

 ひとたび反抗の意思ありと見なされれば、その時点で闘士としての資格を失うのだ。逃亡を企てた者も同様だった。

 そのようであったから、ひとたび主催者に命じられたなら、闘士たちはどんな無体な命令でも唯々諾々と従うしかない。


――もし逆らえば、勝利によって叶うはずの願いさえも水泡に帰す。


 その点に関しては、かれらとアレクシオスは何ら変わるところがなかった。

 命じられるがまま、敵の皮を裂き、骨を砕き、臓物と脳漿をあたりに飛び散らせながら、文字通り必死の思いで勝ち抜こうとあがく。

 そんなかれらの戦いは、しかし、観客たちの心を打つことはなかった。

 壮絶な戦いを制し、血達磨になりながら雄叫びを上げる勝者に送られる拍手はまばらであった。


 観客席を埋めるのは、いずれも州の有力者およびその子弟たちだ。

 料理や酒器を携えて卓の間を忙しなく走り回る召使たちを除けば、観客席は西方人だけで占められていると言ってよい。

 一方の闘士たちはといえば、その全員が東方人であった。

 闘士と観客たちとの間を隔てるのは、物理的な壁の高さだけではないのだ。

 それはとりもなおさず、この国における支配と被支配の構造の縮図だ。

 いま、観客席に座る人々のいずれもがどこか醒めた様子で眼下の血闘を見下ろしている。


 理由は分かりきっていた。

 一回戦のあまりに鮮やかな――しかしあっけない決着は、いまだ彼らの瞼に焼き付いている。

 ほんの数瞬のあいだの魔術のような決着。

 それに較べると、剣や棍棒での泥臭い殺し合いは、闘士たちの真剣さとは裏腹にどこか滑稽で、ともすれば道化じみてさえ見える。

 観客たちのなかにはこれまで幾度も闘技場に足を運び、目が肥えている者も少なくはない。そんな彼らが、血なまぐさいだけの垢抜けない試合に冷ややかな視線を送るのは無理からぬことであった。


 「戦いぶりが残虐であればいいというものでもありますまい。これでは、まるで野良犬の喧嘩だ」

 「戎狄バルバロイを倒した戎装騎士ストラティオテスの戦いが見られるというから、わざわざ遠方から足を運んだものを……」


 そんな声が観客の間から漏れ始めたころ、ようやく次の試合が整った。


 「ご来場の皆さま、長らくお待たせいたしました!! これより第五試合を開始します!!」


 司会の男が張り裂けんばかりの声を上げる。冷め始めた場の雰囲気を察し、少しでも観客の気を引こうとの努力であった。


 「……なお、次の試合は選手の組み合わせを変更して行います。出場予定だった獅子殺しの豪傑スキウーロスに代わって……」


 司会が付け加えた一言に、観客席はにわかにどよもした。

 試合がはじまる直前、土壇場での選手交代などそうそうあるものではない。

 事前の説明では、第五試合までの闘士に余分は存在しないはずである。となれば、外部から新たに一人を追加したのか。

 観客たちはあれこれと推測を巡らせる。

 それもつかの間、かれらの視線は一斉に闘技場に注がれた。


 闖入者は音もなく闘技場に進みでた。

 舞台に姿を現すまで、観客の誰ひとりとしてその存在に気づくことはなかった。


 そして――いま、闘技場のすべての視線がその一点に凝集している。


 現れたのは、ひとりの少女であった。

 透きとおるような白皙の肌。

 ゆったりとした衣服越しにもはっきりと見て取れる均整の取れた肢体。

 女性らしいやわらかなふくらみを描く胸から首筋の曲線。

 そのさきには、だれもが思わず息を呑まずにいられない美相がある。

 目鼻から睫毛の一筋に至るまで、およそ人体に望みうる理想を具象すればこのような形になろうか。

 腰までかかる輝くばかりの亜麻色の髪が、美しさにいっそうの彩りを添えた。

 年の頃は十六、七の娘盛りとみえる。

 少女の水際立った美貌は、血まみれの闘技場にあっていっそう映えた。

 と、ここで男女の別を問わず陶然と見惚れていた観客も、ようやく我にかえる。

 ひとたび冷静になれば、ふつふつと疑問が湧き上がる。

 そこにいるのは自分たちと同じ人種――紛れもない西方人である。


――人間の容貌と気品は、持って生まれた血統に相関する。


 むろん愚にもつかない迷信だが、信じる者にとって真偽など些末な問題にすぎない。

 西方人、それもあれほどの美貌の少女が、よもや卑しき闘士であろうはずがない。

 本来観客席にいるべき者が闘技場に降りているのは、きっと何かの間違いであろう――。

 観客の多くがそう考えたのも当然だった。


 「それでは、次なる試合の組み合わせを発表します――」


 観客と同様、さきほどまで呆けていた司会も、ようやく自分の仕事を思い出したらしい。


 「ご紹介しましょう!! 獅子殺しのスキウーロスに代わり第五試合に出場の――騎士ストラティオテスオルフェウス!!」


 騎士――。

 それも二人目の、である。


 騒然となった観客席など意に介する素振りもなく、オルフェウスは試合の始まりを待っている。

 その眼前では、対戦相手を招き入れるべく、闘技場へと続く扉が開け放たれようとしている。

 薄く開かれた瞼の下、澄みきった真紅色の瞳が息づく。

 その美しい眼は、しかし、なにものも捉えていなかった。


***


 「ほほ――どうやら始まったようだわえ」


 戦いの始まりを告げる鐘が打ち鳴らされると、パトリキウスは満足げに目を細めた。

 特等席のテラスからは、闘技場のすべてを見渡すことができる。

 さきほどとは打って変わって、パトリキウスは至極上機嫌だった。


 「まさか客人も閣下が二人目の騎士を用意しているとは思っていなかったはず。閣下の権勢の凄まじさを思い知ったことでしょう」


 へつらいの笑みを浮かべてカミラが言う。

 権力者の歓心を買うためならばどんなことでも口にし、事実、それによってここまで出世を遂げてきた女である。

 だが、今回に限っては、あながち世辞とも言い切れない。

 騎士は国家の最高機密にして、皇帝のためにその身命を捧げるべき存在である。

 もとより一州の長官にすぎない州牧の命令に従う道理はない――はずであった。

 先の戦役が終結したのち、騎士たちは各州に分散して配置された。強大な力を持つ彼らの反乱を危惧したがゆえの措置であった。

 騎士たちの配属先は、『東』の二十四州のほぼ全てに及ぶ。パトリキウスが州牧を務めるこの州も例外ではない。

 騎士の管理は辺境軍の管轄だが、その辺境軍は州牧の職掌に属しているのである。


 アレクシオスとオルフェウス――。

 偶然にも二人の騎士が自らの手の中に転がり込んできたのは、パトリキウスにとって望外の幸運といえた。


 この闘技場が造られたのは、いまを遡ること十六年前。パトリキウスがこの州に赴任してまもない時にまで遡る。

 みずからの嗜虐心を満たし、また州内の有力者をもてなすための娯楽施設として、膨大な公金をつぎ込んで建設させたのだった。

 どんな願いでも叶えると嘯いて闘士を集めては凄惨な殺戮劇を演じさせ、また時には獰猛な獣と戦わせてきた。すべてはつかの間の享楽のための供物にすぎない。

 夜ごとおびただしい血が舞台を染め上げ、勝敗の如何にかかわらず闘士たちの頭上には残酷な哄笑が降り注いだ。


 だが、いつしかそれにも翳りがみえはじめた。

 当初は目新しかった趣向も、幾度となく繰り返されるうちに輝きを失うのが世の常であった。

 そんな折、騎士がみずからの治める州に送致されてきたのだ。

 パトリキウスとしては、この奇貨を最大限に利用しない手はない。

 騎士と人間――あるいは、騎士と騎士。

 残酷無比な遊興のバリエーションはいくらでも思い浮かぶ。


 「……だがな、せっかく手に入った最高の道具を単なる遊興あそびで使い潰すほど、儂は愚かではない」


 パトリキウスは邪な笑みを浮かべ、ひとりごちる。


 「はたして使い物になるかどうか……。どれ、ひとつ最強の騎士の手並みを拝見と参ろうではないか」

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