第4話 夜を征くもの

 馬蹄の響きが冷えた大気をふるわせた。


 時刻は、すでに夜半を回っている。

 あたりの山林には人家もなく、雲間からわずかに顔を覗かせる新月のほかに大地を照らすものもない。

 いま、切り立った断崖に張り付くようにして拓かれた山路を駆け抜けていくのは、一台の四頭立て馬車であった。

 この大きさの車体ならば十人以上の人間を輸送できるはずだが、外からは御者台に座る一人を認めるのみ。

 その御者も、頭から首まですっぽりと濃紺色の頭巾に覆い隠され、顔貌は窺えない。

 山中の道路は、巨大な馬車と、それを牽引する四頭の大型馬の重量によく耐えている。

 車体そのものが平均よりも堅牢に作られていること、そして馬車を操る御者の技量を勘案したとしても、これだけの速度を維持出来るのは不可思議であった。


 だが、地面によく目を凝らせば、それも合点がいく。

 本来ならば泥土がむき出しになっていて然るべき道路には、各地の主要都市を結ぶ街道に等しい石敷きの舗装が施されている。軍事用道路と同等の規格に基いているならば、四頭立て馬車の走行に耐えうるのも道理であった。

 くろぐろと生い茂る木々と大地のあいだに仄白く浮かび上がった石畳は、夜闇に包み隠された終点まで途切れることなく続いているようであった。


 と、前方の闇にうっすらと二つばかり影が浮かんだ。

 馬車に正対するように迫りくるそれは、騎乗した兵士だ。

 兜と胴鎧だけの軽装ではあるが、その手には柄を短く切り詰めた短槍ピルムを引っさげている。辺境軍の騎乗兵の標準的ないでたちであった。


「そこの馬車、止まれ! ここから先は許可なき立入はまかりならん!」


 馬上の兵士が怒号を飛ばす。

 二騎はすれ違う直前ですばやく馬首を返し、そのまま馬車の両脇にぴたりとつける。


「止まれと言っている! 従わねば、力ずくで止めることになるぞ!」


 脅しではなかった。

 兵士がさっと右手を上げると、研ぎ上げられた刃先が月光に冴える。

 刀剣よりも殺傷力にまさる短槍を持ち出したのは、威嚇の効果を見込んでのことだろう。

 狙うのは、馬か御者か。

 いずれにせよ、高速で走行している最中に攻撃を仕掛けられれば、馬車は無事ではいられまい。

 ただならぬ雰囲気を感じ取ってか、御者は手綱を握ったまま体を軽くひねり、荷台にむかってぼそぼそと何事かを告げる。

 どうやら、荷台に何者かを乗せているらしい。

 やがて馬車はゆっくりと速度を落とし、兵士と遭遇した地点から三百メートルほども進んだところで完全に停止した。


「そのまま馬車を降りろ!! 荷台に乗っている者もだ!!」


 兵士は叫びつつ、御者台に駆け寄ってくる。

 もう一人の兵士は依然として馬上にある。逃亡を阻止するための備えであろうことは明白だった。


「……勘弁して下さいよ、旦那。こっちは急ぎの仕事なんですから」


 御者が困り果てた様子で言う。


 「何も怪しいものなんかありゃしません。こいつは州牧閣下に頼まれた荷物です。夜が明けるまえに届けねえと、私の首が飛んじまいますよ」

 「なに? 州牧閣下の依頼だと?」


 その名を耳にした瞬間、兵士の首筋に冷たいものが一筋流れた。

 辺境軍の指揮権は、駐屯する州の最高権力者が掌握している。

 かれら末端の兵士にとっては文字通りの雲上人であり、その機嫌を損ねることの意味も嫌というほどに理解している。


(ならば、通ってよし――)


 一度は喉まで出かかったその言葉をぐっと飲み込み、兵士は辛うじておのれの職分に踏みとどまった。


 「それなら、お墨付きの証書を見せてみろ。この辺りに立ち入る者には事前に発行されているはずだ」

 「ええと……そいつは……」


 兵士によく見えるように、御者はいかにも芝居がかった挙措で袖のあたりを探ってみせる。

 当然と言うべきか、なにも出てくるはずもない。


 「今日のところは大目に見てもらえませんか? なにしろ急ぎの積荷でして――」


 相変わらず顔は隠したままだが、御者がへつらいの笑みを浮かべてこの場をやり過ごそうとしているのはあきらかだった。

 それがかえって兵士の猜疑心を掻き立てた。


 「どうしても見せられぬというなら、この場で荷物を検めさせてもらう! そこをどけ!」


 一向に進まぬ検分にただならぬ事情を察したのか、傍らに控えていたもうひとりの兵士も御者台に近づいてくる。

 兵士は御者の胸ぐらをむんずと掴み、力任せに車外に放り出そうとする。

 が、どれほど兵士が力を込めても、小柄な御者の身体はわずかも動かない。まるで大地にしっかと根を張った大樹か巨岩を相手にしているようだった。

 ならばとばかりに、兵士は短槍に手を伸ばす。

 突き出された槍先が御者の喉に触れようかという、まさにその瞬間、チリンと乾いた音が響いた。


 なにかが弾き飛ばされたのだということは、すぐに知れた。

 月光を浴びてきらきらと輝くそれは、ゆるい放物線を描いて宙を舞い、御者を詰問していた兵士のすぐ横に落ちた。

 兵士は、それをなんらかの凶器と判断した。状況を鑑みれば当然ではある。

 素早く下馬すると、注意深く地に落ちたものを拾い上げる。

 ひんやりとした感触と、大きさに不釣り合いなずっしりと重み。

 触れるかぎりでは刃も突起もないようだ。武器にしては奇妙であった。


 「貴様っ! これは何の真似だ!?」 

 「受け取っておくがいい。きっと気に入るはずだ」


 荷台の暗闇の奥から発せられたのは、若い男の声であった。


 よく通る涼やかな声――

 はかり知れぬ鷹揚と傲慢と、一抹の剣呑さが見え隠れする声音であった。

 声の主の姿は、荷台の暗闇のなかにあって判然としない。

 にもかかわらず、兵士は無意識のうちに数歩も後じさっていた。


 「貴様、誰か知らんが、軍人にこんな真似をしてただで済むと――」

 「手の中にあるものをよく見ることだ」


 声に命じられるまま、兵士は手にした物体を月明かりにかざす。

 ちょうど垂れ込めていた雲が散り、ほのじろく冴えた月光が地上に注ぎはじめている。

 薄明かりの下、兵士は矯めつ眇めつ、物体の正体を見極めようとする。

 ほどなくして、兵士はちいさな叫声を上げていた。おのれの手のなかにあるものの正体に気づいた瞬間、我知らず叫んでいたのだった。


 それは一枚の金貨であった。

 むろん、ただの金貨ではない。

 表面に刻まれた威厳ある横顔は、肇国の英雄である太祖皇帝の図像レリーフだ。裏には『帝国』の国花である銀梅花マーテルの意匠がある。


 皇帝金貨。

 俗に呼ばれるそれは、最上級の純金をふんだんに用いて毎年ごくわずかな数が鋳造される。この国においては最も価値ある通貨だった。


(精巧な私鋳銭ではないか?)


 一瞬兵士の頭をよぎった疑問は、掌全体から伝わってくる黄金の感触のまえにあっさりと霧消する。

 軽く立てた爪が容易に沈み込んでいく危うさは、高純度の金の証だ。

 辺境軍の一兵士にすぎない兵士は、当然これまで本物の皇帝金貨を目にしたことなどない。

 だが、皇帝金貨にまつわるさまざまな”伝説”は、この国の人口に広く膾炙している。


 巷説うわさにいわく――。

 ただ一枚で広大な庭と畑を備えた豪邸が建つ、と。

 あるいは、一枚手に入れたならそれから十年は遊んで暮らせる、とも。

 しかし、そうした金銭的な価値は、皇帝金貨においてはあくまで副次的なものにすぎない。

 皇帝金貨をもつのは原則として皇帝とその一族に限られ、皇族以外の臣下に与えられるのはよくよくのことだ。下賜された側にとっては子々孫々まで語り継ぐべき栄誉の証にもなる。

 そのようなが無造作に投げつけられたのだ。兵士が驚倒したのも無理からぬことであった。


 兵士は今一度まじまじと皇帝金貨を見つめた。

 憧れこそすれ、終生目にすることもないと思っていたそれが、いまたしかな質量を伴ってみずからの手の中にある。


「あ、あなたは――いえ、あなた様は……!」


 兵士は、ここに至ってすべてを理解していた。


「それはもうお前のものだ。失くさぬようにしっかり持っておけ」


 兵士はすっかり恐懼しきった様子で、あわてて金貨を懐にしまいこむ。

 もはや州牧など問題ではなかった。目の前の暗がりには、たかが地方長官などおよそ比較にならぬ貴人がいる。


「何があった?」


 同僚の身に生じた異変を見て取ったのか、もう一人の兵士が駆け足で馬車に近づいてくる。


「いや……何でもない。それ以上近づくな!」


 兵士は思わず声を荒げる。

 そして、あっけにとられたように立ちつくす同僚をよそに、


「どうぞ、ご自由にお通りください――私が先導致します」


 相変わらず顔すら見えない声の主に向かって、兵士はうやうやしく一礼をする。そしてふたたび馬に跨乗すると、闇夜の路を勢いよくかけ始めた。

 ものすごい剣幕に圧倒された同僚も、さっぱり事情が飲み込めないままその背を追う。

 一連のやり取りを見守っていた御者は、安堵した様子でほうと息をつく。

 そして先行する兵士たちに遅れまいと馬に鞭を入れると、


「危ういところだったな」


 背中から声がかかった。

 鷹揚な口ぶりに変わりはないが、兵士に語りかけていた時とはちがって、どこかひょうげた感がある。


「一応お礼を申し上げておきます。おかげで無用な血を見ずに済みましたから――まさか、皇帝金貨をお使いになるとは思いませんでしたけど」


 御者は前方を見据えたまま、ぶっきらぼうに応える。


「使うべき時に使うべきものを惜しむのは、愚か者のすることだ」


 そう言うと、男は呵々と笑声を上げた。


「それにしても、お前の演技はなかなか堂に入っていたぞ。どこであんな言葉遣いを覚えてきた?」

「さあ? ――たぶん、あなたと一緒にろくでもないところに出入りしているうちに自然に覚えてしまったのでしょう」


 呆れたように御者が言う。

 頭巾の下でむくれ、唇を尖らせているのは明らかだった。


「これから向かうところだってそうです。まったく、辺境への視察を放り出してこんなところにいるなどと、もし御父上に知れたら――」

「いいではないか。これも重要な仕事だ」


 男の言葉には、悪びれた風などかけらも感じられない。


「あらかじめ定められた土地を巡るだけでなにが分かる。この目で確かめねばならぬものは、そこにはない。臣下たちが必死に隠したがるものを見つけ出してこそ、余がここにいる意味がある――そうは思わんか?」


 御者はもはや何も言わなかった。

 沈黙が意味するのは否定だけではない。無言のうちに、御者は主人の言葉に肯んじているのだ。


 そうするうちに、馬車は道路の終点へと近づきつつある。

 沿道の木立の切れ目から、ちらちらと巨大な塊が覗きはじめた。

 それは小高い丘、あるいは背の低い山のようだった。

 四方を手付かずの自然に囲まれたなかで、その一点だけが形容しがたい違和感を放っている。


「この先には何があるか分かりません。くれぐれも気をつけてください、殿――」

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