第5話 真紅ノ騎士
もはや勝負は決した――。
闘技場の誰もが、そう信じて疑わなかった。
シデロフォロスの投じた五本の鎖は、オルフェウスの細くしなやかな肢体に絡みつき、その息の根を止めるべく蠕動している。
無数に連なった鉄環が白く柔らかな肌を這いずり、容赦なく締め付けていく。
みずからが投じた鎖が美しき敵手を完全に捉えた瞬間、シデロフォロスは心中でひそかに快哉を叫んでいた。
いかに屈強な闘士であろうと、呼吸を止められてはどうすることもできない。
この奇怪な鎖使いは、幾多の実戦経験を通してそれを熟知していた。
どれほど鍛え上げられた肉体の持ち主だろうと、また比類なき技倆を身につけた達人であろうと関係はない。
人体の最大の急所である気道を絞扼すれば、それでけりだ。
抵抗はおろか、断末魔を上げることさえ思うに任せぬまま、はたして何人の闘士が無念の最期を遂げていったかしれない。
そして今、シデロフォロスの戦歴にまた一人あらたな犠牲者の名が加わろうとしている。
人間ではないとはいえ、相手が年若い娘であることに、シデロフォロスも思うところがないではない。
しかし、それも一瞬のことだ。
身体に染み込んだ闘士としての経験とパトリキウスへの忠誠心が、心中のわずかな苦衷を跡形もなくかき消した。
気がかりといえば、オルフェウスがこれまで苛烈な攻撃を加えられても一向に苦痛を感じる素振りさえ見せていなかったことだが――。
「これで決着とは……」
「騎士というのも存外に大したことはありませんな」
観客席からは、早くも落胆の声が漏れ始めている。
熱しやすく冷めやすい観客たちは、試合に見切りをつけるのもまた早い。
――せいぜい派手に殺してくれ。
それが観客たちの偽らざる本音であり、結果の見えた試合にかける唯一の期待であった。
そんな雰囲気を感じ取ってか、シデロフォロスは最後のひと押しとばかりに、鎖の締め付けをいっそう強める。
オルフェウスは辛うじてまだ倒れずにいるが、その白皙の相貌はいっそう白さを増したかのよう。
それまで薄く開かれていた両の瞼は完全に閉ざされ、まるで安らかな死に顔を浮かべているみたいにみえる。
(勝った――)
それはシデロフォロスが自らの勝利を確信した、まさにその瞬間であった。
「……もう、いいかな」
オルフェウスの整った唇がわずかに動き、闘技場に足を踏み入れてから初めての言葉を紡いだ。
その言葉は、短い距離を隔てて立つシデロフォロスの耳にのみ届いた。
しかし、奇妙であった。
鎖の圧迫によって、少女の声帯はとうに潰れているはずだ。
声にならない嗚咽を漏らすならともかく、この状況で意味のある発声を行うなど、およそ不可能であるはずだった。
驚嘆はそれだけに留まらなかった。
次の瞬間、みずからの眼前で突如として生起した光景に、シデロフォロスは鎖の下で目を剥いた。
信じがたい光景だった。
まず、オルフェウスの両脚を厳重に拘束していた二本の鎖が粉々に砕け散った。
両腕の自由を奪っていた鎖も、一秒と経たぬうちにその後を追う。
シデロフォロスがオルフェウスの首に巻き付いた鎖を手繰ったのは、闘士としての本能が無意識のうちにさせたことだった。
だが――。
細い首を締め上げていた最後の鎖も、あっけなく断ち切られた。胴を半ばから断ち切られた蛇みたいに、五本の鉄鎖が無軌道にはねる。
その中心で、オルフェウスは何事もなかったかのように佇んでいる。
少女は未練がましく首に絡みついていた鉄鎖の断片に手をかけると、こともなげに放り捨ててみせた。
「すぐに勝つと面白くない――そう言われた、から……」
その言葉は、はたして誰に向けられたものか。
ふたたび薄く見開かれた真紅色の瞳は、やはり何も見据えていないかのようであった。
つい一瞬前までシデロフォロスが掌握していたはずの戦いの主導権は、いまやオルフェウスの手にある。
あまりにも鮮やかな攻防の入れ替わりであった。
高みからその様子を見下ろしていた観客たちも、戸惑いを隠せないようだった。
目の前の現実を受け入れられないのか、シデロフォロスはじりじりと後じさった。いままで戦ったいかなる相手とも違う、未知の敵への恐怖がじわりと鎌首をもたげる。
「今までは本気を見せていなかった、と?」
シデロフォロスは苦しげにひとりごちた。
にわかには信じがたいが、そうとしか考えられない。
それにしても――。
オルフェウスは、いかにしておのれの五体を拘束していた鉄鎖を断ち切ったのか。
均整の取れた肢体は、見たところ寸鉄も帯びてはいないようであった。
隠し持っていた暗器の類を取り出した様子もない。
白くたおやかな少女の腕は、とても鉄の鎖を引きちぎるほどの膂力を秘めているようにはみえない。
シデロフォロスと観客、司会者が揃って訝しげな視線を注ぐなか、オルフェウスはゆるやかに一歩を踏み出した。
会場内のすべての人間が瞠目したのは、次の瞬間だった。
オルフェウスの身体から、前触れもなくまばゆい閃光が放たれたのだ。
強烈な光をふいに浴びた人間は、誰であろうと本能的に目を庇わずにはいられない。それはシデロフォロスとて同様だ。
光が走ったのは、コンマ一秒ほどのわずかな時間にすぎない。
「あれは――」
観客たちよりもひと足早く、こわごわと目を開いた司会者は、我知らず感嘆の声を漏らした。
それ以上なにかを言おうにも喉は震え、引きつった舌は思うに任せない。
司会者に遅れて瞼を開けた観客たちも同様だった。
だれもが光に耐えかねておもわず目を逸らした一瞬。
まさにその一瞬のうちに、オルフェウスの肉体は恐るべき変化を遂げていたのだ。
亜麻色の髪の可憐な美少女の姿は、もはやどこにもない。
いま、舞台のうえに佇立するのは、全身に紅をまとった一体の異形だ。
白く柔らかい肌に代わってオルフェウスの五体を覆い尽くすのは、真紅の装甲。
燃えさかる炎を一瞬に凍てつかせたならば、あるいはこのような輝きを放つにちがいない。それはこの世のいかなる宝石も遠く及ばない、至純の赤紅。
人間とは似ても似つかない、しかし息を呑むほど美しい人型がそこにある。
一瞬の光のなかで、少女に何が起こったのか?
みずからの理解を超越した事態に直面した時、解明を試みずにはいられないのは人間の性でもある。
オルフェウスが衣服の下に鎧を隠し持っていた様子は見受けられなかった。
観客たちの目が眩んだあいだに別人と入れ替わったなどとは、なおさら考えにくい。
わずかなあいだに、少女の肉体そのものが異形へと変化を遂げた。
信じがたいことではあったが、そう考えるしかない。
「あれが、
だれとも知れない呟きは、あるいは誰もの口から発せられたものであったかもしれない。
――騎士は、
ここにおいて、観客たちはようやくその言葉の意味するところを理解した。
シデロフォロスも観客たちも、実際に信じていたわけではない。心のどこかでは馬鹿げた与太話とさえ思っていたほどであった。
それも、オルフェウスの
戦いは、いまだ決着を見ていない。
どうやらシデロフォロスは戦意を取り戻したようだった。
強敵と対峙したなら、活路は前にしかない。闘士として幾多の戦いを生き延びたこの男に迷いはなかった。
老獪な闘士はふいに身をかがめると、舞台をぐるりと囲む壁にむかって跳躍する。
そして力強く壁を蹴ると、鉄鎖をまとった体はオルフェウスのちょうど真上に飛び上がった。
高所を支配することで、攻撃の優位を得ようという魂胆だ。
同時に、観客席から驚嘆の悲鳴があがる。
鉄鎖の塊みたいなシデロフォロスの体が客席の前方をかすめるさまを目の当たりにし、観客たちの顔には明らかな動揺の色が浮かんでいる。
かれらが狼狽したのも当然だ。
なにしろ、自分たちが身を置く客席すれすれにまで戦場が拡大しつつあるのだから。
異能の闘士がしのぎを削る戦場と化した闘技場において、もはや安全圏はどこにもない。
悲鳴をあげる観客たちの目の前で、シデロフォロスは両の手を大きく広げた。
さながら不格好な鳥のようでもある。その姿には一抹の滑稽さすら感じられるが、次の瞬間に繰り出した攻撃は恐るべきものだった。
シデロフォロスが両腕を交差させると、何かが激しく擦れ合う音が生じた。まるで金属同士をこすり合わせたみたいな不快極まる音に、観客は思わず耳を塞ぐ。
と、間髪を置かずにシデロフォロスの両腕から鎖が放たれた。
まず、一本。
続いて、二本目、三本目が鋭く風を切る。
だが、シデロフォロスの攻撃はそれだけで終わらなかった。
四本、五本、六本、七本、八本、九本――なんと、十本。
すべての鎖が獲物を求める毒蛇のように独立した軌道を描き、眼下に捉えた紅騎士に全方位から襲いかかる。
それは、まさしく魔技。見る者すべてを戦慄させずにはおかない、すさまじい技倆の結晶であった。
人並み外れて目のいい者であれば、”蛇”の頭の先端に研ぎ澄まされたちいさな刃が装着されていることに気づくはずだ。
これこそがシデロフォロスの秘策だった。
十本の鎖はそれぞれ別の角度から敵に襲いかかり、鋭利な刃によって確実に息の根を止める。
ひとつでも命中すれば、致命傷は免れないはずだった。
まして、それが十本となれば――。
敵手にとってはどこに逃げたとて回避もままならず、一撃でも避け損ねれば死が待っている。
つい先刻、オルフェウスがみずからの四肢と頸とに固くまとわりついた鎖をどのように振り払ったかは知れない。
シデロフォロスは、しかし戦闘の最中に答えの出ない推測に時間を費やすほど愚かではなかった。
熟練の鎖使いがなにより信頼するのは、長年の修練と戦いのなかで培われた直感と反射だ。
多数の鎖による飽和攻撃――。
それこそが、かれの直感が導き出した最適解であった。
敵が鎖を迎撃する術を持っているなら、単純にその限界を超えればよい。なるほど道理であった。幸いにもシデロフォロスの全身を覆う鎖はまだまだ払底する気配もなく、しかもこの男は手数の有利を最大限に活用する卓越した技倆をも兼ね備えている。戦術の枢要がその局面ごとの最善手を選択することならば、それはまさしく唯一の模範的解答といえた。
一方オルフェウスに目を向ければ、回避を試みるでもなく、さりとて迎撃の意志も感じられない。
両の腕をぶらりと垂らしたその姿は、まるで攻撃が命中する瞬間を待ちわびているかのようにさえ見える。
もはや鎖による攻撃は通用しないという意思表示か。目鼻の消え失せたその顔からはなんらの表情を読み取ることも出来ない。
いずれにせよ、傲岸不遜とも見えるその姿がシデロフォロスの闘志に火をつけた。
十本の鎖はそれぞれに異なった、しかし例外なく鋭い軌跡を描きながら、猛然と空中を突進する。
仕込まれた刃がオルフェウスの全身に突き立てられようかという、まさにその瞬間だった。
宙をとぶ鎖の一本が、ふいに断たれた。
一連の動作を必死に目で追っていた観客たちが、それもシデロフォロスの技のうちと思ったのも無理からぬことである。
だが、眼前で生じた現象に最も驚嘆し、また心中でひどく狼狽したのは誰あろうシデロフォロスだ。
言うまでもなく、かれが仕組んだ細工などではなかった。
切っ先から断ち割られた刃は、もう凶器としての用をなさない。
二本目、三本目、四本目……とうとう十本目の鎖までもが同じ運命を辿った。
無残に切断され、すっかり勢いを失った毒蛇の群れは、てんでばらばらに闘技場の地面に墜落していく。
オルフェウスはといえば、その様子をさも興味なさげに眺めている。
紅の甲冑に身を固めた美しい騎士は、こうなることを予見して回避も迎撃もしなかったようであった。
観客たちも司会者も、そしてシデロフォロス自身も、みずからの理解を越えた事態に言葉を失っているようだった。
どれほどすぐれた動体視力の持ち主であったとしても、つい一瞬まえに何が起こったかを理解することは出来なかったにちがいない。
十本の鎖が今しもその身に突き立てられようかという、まさにその瞬間。
オルフェウスの両腕は電光よりも疾く閃いたのだった。
すべての戎装騎士は、生まれながらに固有の能力をその身に宿している。
――神速。
オルフェウスに与えられたのは、まさに神の如き加速能力だった。
周囲のあらゆる事物が動きを止め、流れる時間さえも静止したかのような空間のなかで、オルフェウスだけが自在に動いてみせる。
フェムト
ひとたび加速が始まれば、オルフェウスの主観的認識において外部のあらゆる速度は意味を失う。
猛然と宙を進んでいた十本の鉄鎖は、もはや空中に静止する不格好な鉄の棒の群れにすぎない。
真紅の宝石みたいな指で先端の刃に触れ、そのまま鎖をついとなぞっていく。
鎖はその間も微動だにしない。凍りついた時間のなかでは、物理の諸法則さえみずからの役目を放棄したようであった。
十本の鎖すべてに触れ、しかるのちに元通りの場所にもどった――オルフェウスがしたことといえば、それだけだ。
一瞬の出来事の全貌を知るのは、オルフェウスただひとり。
あえて口外せぬかぎり、闘技場にいる誰一人として、永遠に真相を知ることはない。
シデロフォロスは何が起こったかも分からぬまま、ただ愕然と立ちつくすばかりであった。
ふと手にした鎖に目をやれば、亀裂が徐々に自身に近づいていることに気づく。
投擲した鉄鎖が逆しまに切り裂かれたのみならず、その余波は術者にまで及ぼうとしている。
亀裂が指まで迫ったのを目の当たりにして、とうとうシデロフォロスは声にならぬ叫びとともに鎖を放り捨てた。
が、それで逃れられるはずもない。
シデロフォロスの両腕に隙間なく巻きついた鎖にかすかなヒビが生じると、それは瞬く間に腕全体へと広がった。
堅固な鎖は細かな鉄片となって砕け散り、たちまちにかれの腕から剥がれ落ちていった。
「あ……ああ……」
顔面を覆う鎖の下から、獣じみた呻吟が漏れる。
身体中を覆っていた鎖が残らず砕け散ったのは、次の瞬間だった。
伝説の闘士の姿はもはやどこにもない。文字通り丸裸になったひとりの哀れな男は、その場にへなへなと崩折れた。
それも無理からぬことだ。
これまで一度も破られたことのない、堅牢きわまる鉄の鎧があっけなく引き剥がされたのだ。
鎖を攻防の拠り所としていたシデロフォロスである。そのすべてを喪ったことは、鉄鎖使いとしてのみずからの存在意義を否定されたに等しい。
おのれの身になにが起こったのかさえ分からないまま、確固たる敗北の事実だけが突きつけられたのだった。
ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返すシデロフォロスにむかって、オルフェウスは一歩ずつ距離を詰めていく。
先のアレクシオスとギルタブルのような例外をのぞけば、試合の決着は敗者の死を意味する。
観客たちの嗜虐心の矛先は、いまやシデロフォロスに向けられている。
人間同士の殺し合いにはすっかり食傷気味の観客たちだったが、騎士がいかに人を殺すかということには大いに興味をそそられるのだった。
オルフェウスが観客たちの眼前で人ならざる異形へと変化を遂げたことで、かれらの好奇心の火はすっかり油を注がれている。
戎狄と伍する力をもつ騎士が、どれほど残虐な処刑を行うのか――。
観客たちの関心は、まさにその一点に尽きている。
そんな好奇の視線に気づいたか、オルフェウスはシデロフォロスの傍らでふいに足を止めた。
真紅の騎士は、無言のまま鉄鎖使いを見下ろす。
奇怪な顔貌だった。
顔じゅうどこを探しても、瞳も、鼻梁も、唇も見当たらない。およそ人間らしい記号がすべて消え失せた無貌は艶やかな装甲に覆われ、その表面には幾何学的なディテールが刻まれている。
よく目を凝らせば、時折そのディテールに沿って流れる白い光に気づくはずだ。
電気装置など存在しないこの時代にあって、それはだれも目にしたことのない未知の光だった。
「……どうして戦うの?」
ふいに投げかけられた問いに、シデロフォロスは当惑した。
オルフェウスの顔貌はなめらかな装甲に覆い尽くされ、口唇らしいものはどこにも見受けられない。
にもかかわらず、明瞭な言葉が発せられたのは不思議であった。どうやら幻聴ではないらしい。
シデロフォロスも闘士である以上、敗者の運命は知悉している。
死に瀕して見苦しく命乞いをした者も少なくはなかったが、シデロフォロスはかれらの哀願を一切顧みなかった。
殺すことが勝者の責任であり、死ぬことは敗者の義務と信じて疑わなかった。
もしおのれが敗北を喫した時には、従容と自己を貫く哲学に身を委ねるつもりであった。
それだけに、異形の騎士の問いはあまりに意外だった。
「……める……ためだ……」
シデロフォロスは唇をもごもごと動かす。もう何年もまともに言葉を発していなかったその口は硬直し、わずかな単語を吐き出すのもおぼつかぬ様子であった。
「ひたすら技を極め……武芸を磨くためだ……」
シデロフォロスはひとつひとつ区切るようにして言葉を絞り出していく。
「それが、戦う理由――」
「俗世に混じって生きていけぬこの身には、それしかない……」
その答えに納得しかねたのか、オルフェウスはさらに問う。
「極めて、どうするの?」
すかさず言葉を返そうとして、シデロフォロスは声にならぬため息を漏らした。
――技をきわめたその先にあるもの、だと?
これまでの人生で、そんなことはついぞ考えたこともなかった。
ただ、技の真髄を追求することだけを目的として今日まで生きてきたのだ。
まだ辿り着いてすらいない境地の先に何があるかなど、どうして答えられるだろう。
シデロフォロスが返答に窮したのも当然であった。
「分からん……」
俯いたまま、苦しげに呟いた。
「そんな先のことを考えて生きている人間など、この世のどこにもいるものか……」
「そう」
オルフェウスは、いかにも興味なさげに呟く。
とはいえ、落胆や失望の色は微塵もない。短い言葉から読み取れるものがあるとすれば、ひたすら無関心のみであった。
それを裏付けるように、オルフェウスはもはや問いを続けようとはしなかった。
シデロフォロスは覚悟を決めたようにまぶたを閉じる。
オルフェウスの問いは不可解だったが、それに付き合ったことでわずかに命を永らえることが出来たのもたしかだ。
勝者の側から言葉のやり取りを打ち切った以上、おのれの運命は決した。数秒後には、この首は胴を離れているにちがいない。
そんなシデロフォロスの予想に反して、オルフェウスが取った行動はあまりに意外だった。
真紅の騎士は敗者にとどめを刺すでもなく、そのまま入場口へと踵を返した。
「待……て!」
シデロフォロスは喉を引きつらせながら、悲痛な声を発する。
「なぜだ……? なぜ殺さん……!」
「理由がないから――」
抑揚を欠いた、どこまでも感情に乏しい声色で、オルフェウスは短く答える。
シデロフォロスは全身から力が抜けていくのをはっきりと感覚した。
それも当然だ。
シデロフォロスにしてみれば、この期に及んで生命を救われるなど考えてもみないことだったのだから。
予想外の決着に面食らったのは、二人の闘いを見下ろしている観客たちも同様だった。
殺戮の開始を今か今かと待ち望んでいた観客たちは、まさにこれからというところで肩透かしを食らった格好になる。
「なにをやっている?」
「さっさとその負け犬を殺せ! 八つ裂きにせんか!」
「
上流階級に属する人間の口から出たとは思えない、下劣きわまりない野次が乱れ飛ぶ。
が、口を極めた罵詈雑言もオルフェウスの耳にはまるで届いていないようであった。
急ぐでもなく立ち止まるでもなく、オルフェウスはあくまでマイペースに出入り口へと向かって歩を進めていく。
つい一瞬前まで真紅の異形へと変じていたその姿は、すでに人間の姿に戻っている。
無視されたことで観客たちの怒りが最高潮に達しようとした、まさにその時。
耳を聾するばかりの銅鑼の音が闘技場全体に響き渡った。
突然降って湧いた轟音に、観客たちもはたと我に返ったようだ。無数の視線が音の出どころに集中する。
「おのおのがた――お静まりあれ、お静まりあれ」
太鼓の音がやみ、間髪を置かずに濁った声が響いた。
声を辿って観客席の上方、特別席から張り出したテラスに目をやれば、否が応でもその肥大化した容貌が視界に飛び込んでくる。
この狂った娯楽の元締め――州牧パトリキウス。
試合開始以来、一度も姿を見せなかった当地の最高権力者の登場に、観客たちは慌ただしく立礼の構えを取る。
パトリキウスは、自身に注がれる畏敬を確認するようにひとしきり闘技場内を見回すと、ふたたび分厚い唇を開いた。
「どうやら来賓の方々は今宵の試合にいたくご不満の様子――主催者としてもまったく心苦しいかぎり」
たわわに脂肪を実らせた頬を震わせながら、さも申し訳なさげに言う。
「だが、どうかご安心頂きたい。これまでの戦いは騎士の力の一端を示すためのほんの余興……」
今しがた子飼いの闘士が敗れ去ったばかりであるにも関わらず、所詮余興と言ってのけるのはさすがの厚顔であった。
「幸運なことに今宵は二人の騎士が揃っておる。予定を変更し、これより世にも珍しい
パトリキウスが高らかに宣言するや、観客席からは万雷の拍手が上がった。
動いている騎士を目にする機会もそうそうないというのに、騎士同士の戦いとなればまさしく前代未聞の椿事だ。
試合への不満もどこへやら、観客たちはこれから展開されるであろう壮絶な戦いに期待を膨らませている。
すべてはパトリキウスの目論見通りであった。
少なくとも、ここまでは――。
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