第6話 傀儡

「……どういうつもりなのです」


 テラスから戻ったパトリキウスに向けて、ヴィサリオンは詰問した。

 華奢な青年は両手首に手枷を嵌められ、冷たい床に膝を突かされている。傍らの屈強な番兵に抑え込まれ、みずからの意思では身動きもとれない。


「はて……何を、とは?」


 パトリキウスはとぼけたような声で応じる。

 満面に浮かべた微笑は、この男が他者をいたぶる時に決まって浮かべる表情だった。

 身動きも取れない若造にどれほどなじられようと、パトリキウスにとっては痛痒も感じない。

 せいぜい吠え立てさせ、その上でたっぷりとおのれの無力さを思い知らせる。それがパトリキウスの常套手段であった。

 ヴィサリオンはそんなパトリキウスの考えを見抜いているのか、心にもない笑みを浮かべた顔を見据えてなおも続ける。


「いずれすべてが表沙汰になるでしょう。そうなれば、あなたもただでは――」


 ヴィサリオンの言葉は、そこで途切れた。

 カミラの鞭が横っ面をしたたかに打擲し、それ以上言葉を紡ぐことを許さなかったのだ。


「州牧閣下の御前です。言葉はよく吟味されますよう!」


 カミラはこれみよがしに鞭をしならせ、舌なめずりをしながら言い捨てる。

 極度の肥満のためろくに身動きも取れない主人に代わって、あわれな犠牲者たちへの制裁を一手に引き受けてきたカミラである。

 鞭さばきは苦痛を与えるという目的のために洗練され、ほとんど達人の域に達している。

 大の男でも苦痛のあまり泣きわめく鞭の一打ちを、ヴィサリオンは人体のなかでもとくに神経の集中している顔面に受けたのだ。

 暴力とはおよそ縁遠い人生を送ってきたであろう優男は、これまで経験したことのない激痛に苛まれているにちがいない。

 しばらく呻いていたヴィサリオンがふたたび顔を上げたとき、パトリキウスとカミラはともに酷薄な笑みを浮かべて目配せをした。


(きっと恥も外聞も捨てて命乞いをするはず――)


 二人の予想は、しかし、あっけなく覆った。


「……すぐに戦いを止めさせて下さい。戎狄バルバロイからこの国を守ったかれらにこんな真似をさせるなど、あってはならないことです」

「ほお、まだ言うか。おなごのような見かけによらず、なかなか根性の座った若造だの?」


 顔を強かに打たれながらなおも食い下がるヴィサリオンに、パトリキウスはいかにも感心した風で頷いてみせる。


「だが、いまさら何を喚こうと無駄なことだ。試合は間もなく始まる――もう誰にも止められはせぬわ」


 パトリキウスは果実酒の満たされた盃に手を伸ばすと、ぐいと一息に飲み干す。


戎狄バルバロイと戦い、この国を守った? ――結構結構、実に立派な連中だ。だが、辺境を荒らしていた戎狄が残らず駆逐された今、あの者たちに何の価値がある?」


 パトリキウスの太く短い指がヴィサリオンの右頬に添えられる。傷をいたわるような素振りを見せたのは、ほんの一瞬のことだ。

 爪をねじこむようにして傷口をえぐると、ヴィサリオンはたまらず小さく叫び声をあげた。


「獲物を狩り尽くした猟犬がどうなるかなど知れたもの。用済みになったあの者たちにいま一度活躍の場を用意してやろうというのだから、むしろ感謝してもらいたいほどだわ」


 ヴィサリオンの精神と肉体の両方に苦痛を与えながら、パトリキウスはいかにも満足気に相好を崩す。

 嗜虐と侮蔑の愉悦に満ちた、それはこの上なく邪悪な笑みであった。


「あなたという人は、どこまで……」


 騎士たちをあくまで道具としてしか見ていないパトリキウスへの怒りと、手をこまねいてこの状況を見ていることしかできない自分自身への怒り。

 こみ上げてくるふたつの怒りに身を震わせながら、ヴィサリオンはパトリキウスを睨めつける。

 指一本さえ意のままにならないかれにとって、それが今出来る精一杯の抵抗だった。


「ほほほ、そう怖い顔をするものではないわえ。せっかく特等席で試合を見物出来るのだ。ヴィサリオン殿も楽しまれるがいい――カミラ、あれを持て」

「承知しております、閣下」


 名を呼ばれるや、カミラはすかさず進み出る。

 そして、懐から筒みたいなものを取り出すと、パトリキウスによく見えるように大きく広げてみせる。

 それは一枚の紙であった。

 ランプの灯りを背に、紙の白と墨の黒とのコントラストが鮮烈に浮かび上がる。

 ふむ、ふむ、と大げさに頷きながら、パトリキウスは巻物の内容に目を通していく。


「これが何か知りたいかね、ヴィサリオン殿?」


 パトリキウスは紙を摘み取ると、ヴィサリオンの眼前でひらひらと舞わせてみせる。

 最初はそれが何であるか理解できない様子のヴィサリオンだったが、やがて目をかっと見開いた。それはこの青年が平素めったに見せない驚嘆の表情だ。

 その反応を楽しむように、パトリキウスはなおも続ける。


「騎士アレクシオス――辺境軍北方第七軍団に所属。戦役を通して倒した戎狄の数は……ホホホ、たった八体かえ……」


 パトリキウスが手にしているのは、戦後に作成された騎士に関する資料であった。

 本来その立場にないパトリキウスがどのように入手したのかは定かではないが、記されているのはまちがいなく国家の最高機密である。


「それに較べて、騎士オルフェウス――辺境軍北方第九軍団に所属。倒した戎狄の数は……三百八体か。すべての騎士のなかでも第二位の実績とは、いやはや凄まじいものよ」


 二人の騎士の戦績には、まさに雲泥と言うべき開きがある。

 それは取りも直さず、アレクシオスとオルフェウスとの歴然たる実力の差を表してもいる。


「同じ騎士とはいえ、こうも違いがあるものとはな。戦う前からすでに勝負は見えたようなものだが、あの小僧も多少は粘ってくれなければ困る……」


 パトリキウスは酷薄な笑声を上げる。

 ヴィサリオンは押し黙ったまま、下劣な嘲笑に耐えるばかりであった。

 戎狄は騎士によって討伐された。それは紛れもない事実だ。それでも、すべての騎士が等しく戦功を立てた訳ではない。

 実際には、戎狄の大部分はひと握りの騎士たちによって撃破されたのだった。

 巨大な攻城用兵器を用いても傷ひとつつけられなかった戎狄を、かれらは容易く葬り去った。戎狄が人知を超えた怪物ならば、かれらはそれすらも凌駕する存在であった。

 ヴィサリオンも騎士に関わる人間として、オルフェウスの名はむろん耳にしている。


 最強の騎士の一角にして、恐るべき力を秘めた美しき少女騎士。

 その彼女が、まさかアレクシオスの前に立ちはだかることになろうとは――。

 二人の騎士が本気で殺し合いに臨んだならば、パトリキウスの言葉どおり、勝敗は火を見るより明らかであった。

 先ほどの試合でオルフェウスがシデロフォロスにとどめを刺さなかった理由は分からないが、アレクシオスにも同様の温情を与えるという保証はどこにもない。

 ヴィサリオンはぐっと唇を噛みしめる。

 瞼の裏に浮かんだのは、アレクシオスの顔だ。

 自分を救い出すためなら、あの少年は死力を尽くして戦うだろう。パトリキウスもそれを見越して焚き付け、煽り立てているに違いない。

 騎士同士の真剣勝負となれば、オルフェウスがアレクシオスを殺すということも十分に考えられる。


 もはや進退窮まった――そう考えるほかないように思われた。

 もしアレクシオスが敗れれば、ヴィサリオンも生きてはいられないはずだ。

 今かろうじて命を奪われずに済んでいるのは、アレクシオスへの人質としての価値があるからに他ならない。

 用済みになれば、ヴィサリオンを生かしておく理由はどこにもない。

 不慮の事故として処理すれば、この一件が表沙汰になることはないだろう。一地方を統べる州牧には、それを可能とするだけの権力がある。

 だが、死がいよいよ現実味を帯びて迫ってきても、ヴィサリオンの精神は不思議なほどに落ち着いていた。

 恐怖心がない訳ではない。ただ、この柔弱な青年にとって、みずからの生命が助かるかどうかは二の次だった。


 ヴィサリオンの憂いは、もっぱらアレクシオスに向けられている。

 監督役としての義務感もある。

 だがそれ以上に、ひとりの人間として少年の身を案じている。

 騎士たちは極寒の辺境に赴き、戎狄と戦ってきた。もしかれらがいなければ、今ごろ地上は戎狄によって見る影もなく蹂躙されていただろう。

 『東』に住まう者は、誰であれ騎士たちに計り知れない恩義があるはずだった。

 ふたたび世に平穏が戻り、騎士たちは使命から解放された。ようやく自分たちの人生を歩み出したのだ。

 ヴィサリオンはアレクシオスの監督役に任ぜられて以来、戦うことしか知らなかった少年に人としての生き方を教えてきたつもりだった。

 その身柄は依然として国家の管理下にあるとはいえ、アレクシオスは人間としての生を歩みだそうとしている。

 だからこそ、少年がこのような形で使い潰されようとしていることが悔しかった。

 その悔しさに較べれば、みずからの生命が危険に晒されていることなど些細な問題にすぎない。


 そんなヴィサリオンの思いは、しかしどこまでも無力だった。

 先ほど吐き捨てたとおり、パトリキウスにとって騎士たちは用済みの猟犬でしかない。

 嗜虐心を満たすためだけに凄惨な殺し合いを演じさせても、わずかな良心の呵責を覚えることもないのだ。

 それは、この闘技場に詰めかけた観客たちすべてに共通する認識でもあった。

 ヴィサリオンの憤慨などどこ吹く風といった風で、パトリキウスは空になった酒盃にあらたな果実酒をなみなみと注がせている。


「それにしても、あの小娘を引っ張り出すのはなかなか骨が折れたわい」


 赤紫の液体を口に含みながら、みずからの手柄を誇るように呟く。


「……彼女も権力を盾にして脅したのですか」


 ヴィサリオンは、喉の奥から絞り出すような声で問うた。

 不遜な物言いに懲罰を与えるべく、すかさずカミラが鞭に手をかける。

 が、ふたたび鞭が空を切ることはなかった。

 間一髪のところでパトリキウスが静止したのだ。あまり痛めつけては、人質としての役割に差し障るとの判断であった。

 パトリキウスは酒盃を置くと、顔だけをヴィサリオンに向ける。


「脅す? ヴィサリオン殿、人聞きの悪いことを言ってもらっては困る。苦労をしたというのは、あれを今日ここに持ってくるまでの根回しのことだ」


 意外な返答に当惑するヴィサリオンをよそに州牧は盃をふたたび手に取り、


「そこから先は簡単なものだ――あの小娘には、ただ上役として『命令』を与えただけにすぎん」


 そして、満足気に酒臭い息を吐いてみせる。


「……何が言いたいのです」

「あの娘は、しょせん心など持ち合わせていない人形だと言っておるのだよ」


 言いつつ、パトリキウスはうっとりと目を細めてみせる。


「さっきの戦いも、儂が殺せと命じれば殺していただろう。命じられたがままに動き、決して命令に逆らうことはない。それでこそ理想の兵士だ。どこかの出来の悪い騎士とはモノが違う――」


 パトリキウスの嘲りに合わせるように、カミラがくっくと忍び笑いを漏らす。

 ヴィサリオンはもはや何も言わなかった。

 ここで自分が言葉を発すれば、その内容がなんであれパトリキウスを喜ばせるだけだと悟ったためだ。


「じきに次の試合が始まる。せいぜい弱い方の騎士が生き残れるように祈ることだな、ヴィサリオン殿」

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