第7話 潜入
闇のなかを駆けていた馬車は、ふいに車速を落とした。
前方には小山がぽつねんと佇んでいる。
椀を逆さまにしたみたいな、どこか人工的な印象を与える山であった。
兵士たちに合わせて走行していた馬車は、先導されるまま小山の麓に停車した。
馬車を停めた御者が目を上げると、煉瓦積みの壁が目に入った。膨大な数の煉瓦を費やして作られた壁面は、山肌に沿ってなだらかなカーブを描いている。
それは巨大な城壁であった。
山の一面がそっくり城壁と化しているのは、異様と言えばあまりに異様な光景であった。
壁面には灯りの一つも見当たらず、ひっそりと静まり返っている。
それにしても――。
山間の目立たぬ道路の終点にこのような施設があろうとは、実際に足を運ばないかぎりとても信じられないはずだ。
これほどの建造物を完成させるために費やされたであろう莫大な労力と費用に想像を巡らせたところで、御者はふるふると頭を左右に振った。
「着いたか?」
荷台から御者の背に声がかかった。
「ふん――どんなものかと思っていたが、意外と大したことはないな」
「殿下にしてみればそうでしょうけどね」
呆れたように言う御者には応えず、「殿下」と呼ばれた声の主は、荷台後部の幌を上げて車外に出る。
月明かりの下に姿を表したのは、ひとりの青年だった。
ゆったりとした白絹の裾をひるがえし、青年は地面に降り立った。
図抜けた長身であった。体型の出にくい服ではあるが、布地の広がり具合から、その下に息づく強健な肉体を描出するのは容易だった。
顔は見えない。
御者同様、喉から目元までを覆う布と頭巾とに遮られ、その間隙からわずかに切れ長の相貌が覗くばかり。
ともすれば胡散臭い風体だが、雅やかな挙措とあいまって、いかにも貴人の行装らしい風情を漂わせているのが不思議であった。
道中の案内役を務めた二人の兵士は、すでに下馬の礼を取っている。事情を知らない兵士の一人は得心の行かない様子だったが、皇帝金貨を渡された同僚に強引に説得されたらしい。
「大儀であった。あの中に入りたいが、先導をたのめるか」
青年に問われ、兵士は一も二もなく肯んずる。
「招待状のない者を……」と言いさした同僚を制し、兵士はつかつかと壁面の一隅に設けられた鉄扉へ向かった。
分厚い鉄扉にわずかに開いた覗き穴に顔を近づけ、中に詰めている番兵と一言二言交わすと、兵士は足早に馬車へと駆け戻ってきた。
「どうぞお入りください。よろしければ、この先も私めが……」
「ご苦労だった。ここから先の案内は無用である。お前たちは元の持ち場に戻るがいい」
兵士の申し出を遮るように言うと、青年はさっさと鉄扉に向けて歩を進めていく。
「でん……若様! 待ってくださいよ!」
青年が馬車を離れたのを認めて、御者も足早にその背中を追った。
御者台に座っている時はさほど目立たなかったが、その上背はだいぶ小さい。長身痩躯の青年の傍らにあって、その差はいっそう顕著であった。
御者が青年から一歩下がる位置につくと、
「……おまえ、いま殿下と言いかけただろう?」
「”らしく”ない場所にいらっしゃるものですから、いつもの癖を抜くのも一苦労です」
「しかし、若様か。なかなかいい響きだ。今度からそう呼ばせてみるか」
青年は肩をわずかに揺らして笑う。
御者も青年の言葉を真に受けて戸惑う訳でもなく、慣れたものだと言うように短くため息をついてみせた。
二人が扉のまえで足を止めると、間もなく重々しい音とともに鉄扉はふたつに割れた。
胡乱げな目で見つめる番兵には一瞥もくれず、顔を隠した主従はさっさと内部へ足を踏み入れる。
「……そろそろ頭巾をお取りになったらいかがです? こんな辺境に殿下の顔を知っている人間がいるとも思えませんし、顔を隠したままだとかえって怪しまれますよ」
「いいだろう」
薄暗い回廊を進みながら、二人は顔を覆っていた布を取り除く。
幾重にも重なった生地の下から現れた青年の顔は、まだ二十代の半ばといったところ。
切れ長の鳶色の瞳に、力強い意志の内包を感じさせる彫りの深い面立ち。鬱金色の金髪は、軍人風に短く揃えられている。
典型的な西方人の姿形であった。
その傍らで同様に素顔をあらわにした御者は、青年よりも一回りは年下だった。
中性的な面差しは、見ようによっては少年のようでもあり、あるいは少女のようでもある。
体型の出にくい衣服とあいまって、外観から性別を判別することは困難と思われた。
いかにも人懐っこそうな大きくつぶらな瑠璃色の双眸は、少年の清廉さと少女の可憐さを兼ね備えている。
髪の色は、『東』では珍しい赤銅色である。
程度の差こそあれ、二人がともに西方人の特徴を備えていたのは、この場において幸いといえた。
回廊の各所に立つ番兵に制止されることもなく進んだ二人は、まもなく華麗な装飾が施された扉の前で足を止めた。
扉を開いた先で待ち受けていたのは、殺風景な回廊とは正反対の光景だった。
吹き抜けのホールは、おそらく来賓を出迎える玄関口なのだろう。
宏壮な空間は真昼と見まごうばかりの光に満たされている。室内の壁に設けられた夥しい数の燭台のためだ。
あたりを見渡せば、壁面いっぱいを埋め尽くすように並べられた豪奢な品々が目に入る。
金銀で作られた大小の器に、色とりどりの宝玉が散りばめられた宝飾品、絵画――。
さらにはさまざまな獣の毛皮や牙までもが、来訪者の目につくように展示されている。
それらの品々の産地は、極寒の最北辺から南の大海まで、およそ広大無辺な『東』の全域に跨ると思われた。よくよく見れば、当局によって禁制とされている品も少なくない。
ひとつひとつが美術品として計りしれない価値を有しているのは言うまでもないが、むろん純粋に来客の目を楽しませるために置かれているのではない。
高価で希少な品々を買い集める財力と、ご法度を押して禁制品さえ蒐集する権力を誇示することこそが真の眼目なのだ。
青年はしばし足を止め、持ち主にとってはさぞかし自慢の種であろう品々にひととおり視線を走らせると、
「――趣味が悪い」
と、吐き捨てるように呟いた。
「いいんですか? ……そんなに大きな声で言われると、聞こえてしまいますよ」
「構うものか」
青年は語気を和らげることもなく、憮然とした風でなおも言う。
「なんの拘りもみえん。ただ金にあかせて名物をかき集めただけだ。成金の考えることは、『東』も『西』も代わり映えがしないものだな――」
ふいに言葉を途切れさせた青年に、御者はただならぬ気配を感じ取る。
「しかし、道楽にしては金がかかりすぎている。この建物といい、たかが辺境の一州牧にできることではない」
それは、怒気と呼ぶにはあまりに冷たい。
恐る恐る青年の顔をのぞき込んだ御者は、無言のまま視線をそらす。
御者が青年に付き従うなかで、こんな場面に出くわすのははじめてではない。
いまでも慣れずにいるのは、青年の心が帯びた冷気が伝わってくる感覚が快いものではないからだ。
「いつまでそこに立っているつもりだ?」
すでに青年はホールの奥へと続く通路へと進んでいる。
御者が慌ててその背を追うと、次第に周囲に音が満ちてくるのがわかった。
通路の彼方から聞こえてくるのは、何百ともしれない大勢の人々がどよもす喧騒だ。
押し寄せる音の波に、床や壁までもが震えるようであった。
通路の果てには扉がひとつ。御者は駆け足で進み出ると、躊躇なく扉に手をかけた。
次の瞬間、青年と御者が眼を伏せたのはほとんど同時だった。
先ほどまでとは較べようもないほどの光の奔流が視界に流れ込んだためであった。とっさに目を庇ったのは意図した訳ではなく、本能的な反射だ。
二人がようよう薄目を開けると、観客席の一隅に設けられた出入り口に立っていることに気づく。
眼下には段々状の観客席が連なり、その最下段には舞台がある。
辺境の山深くにこのような場所が存在していたことに、青年はともかく、御者は驚きを隠せないようだった。
いま、巨大な闘技場を煌々と照らし出すのは、燭台のささやかな火ではない。
壁面からせり出した窯では炎があかあかと燃え盛り、磨き上げられた銅板を張った天井がその光を隈なく反射することで、闘技場内に真昼以上の明るさを実現しているのだ。
人工の陽光が降り注ぐなかで、騎士と騎士の戦いが今まさに幕を開けようとしている。
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