第8話 人間になるまで

 騎士オルフェウス。


 戎狄との戦いの舞台となった北方辺境において、その名を知らぬ者はない。

 その名を耳にした者は、二つの”おそれ”のどちらかを抱かずにはおかなかった。


 戎狄バルバロイを滅ぼすために遣わされた救い主として畏れるか――。

 あるいは、戎狄バルバロイすら凌駕する脅威として恐れるか――。


 おなじ騎士であるアレクシオスは、はたしてどちらだったか。

 戦役が終結してから二年の歳月が流れた今となっては、その問いに明確な答えを出すことはむずかしい。


 アレクシオスが次の対戦相手を知ったのは、つい今しがたのことである。

 伝えに来たのはカミラだった。

 先刻、殺意を込めて睨めつけられたことへの意趣返しでもあるのだろう。

 オルフェウスの名を口にした瞬間、カミラの口辺に浮かんだ酷薄な笑みをアレクシオスは見逃さなかった。


 いまアレクシオスは控え室を出、闘技場に向けてただひとり薄暗い回廊を進む。

 胸裡では、さまざまな感情が沸き起こり、たえまなく渦を巻いている。

 三百体を超える戎狄を討ち滅ぼした強者の中の強者。

 その飛び抜けた実力と実績に対しては、アレクシオスとしても疑問を差し挟む余地はない。

 同じように辺境の戦場に身を置きながら、十体にも満たない戦績しか残せなかったかった自身とはまさしく別格の存在であることも承知している。

 アレクシオスも決して手を抜いて戦っていた訳ではない。

 それどころか、かれが残したわずかな戦果は、必死の闘いのすえに掴み取ったもばかりだ。

 だからこそ、オルフェウスとのあいだに横たわる実力の差を痛感せざるをえない。

 なりふり構わず、死力を尽くして戦ってその程度の騎士でしかないことは、他ならぬアレクシオス自身が知悉している。

 噂によれば、オルフェウスは戦役を通してただ一度たりとも手傷を負わなかったという。

 オルフェウスだけではない。最強格の騎士たちは、程度の差こそあれアレクシオスのように無様な戦いを演じることはなかったのだ。

 かつては誇らしかった戦いの傷も、振り返ってみればおのれの弱さの証明でしかない。いまとなっては誇りどころか、みじめさに拍車をかけるだけのものだ。


 そんな自分が、オルフェウスと戦う――。

 心の奥底で恐怖がふつふつと湧き上がるのを、アレクシオスは否応にも自覚した。

 それは煮立った湯に際限なく生じる気泡のごとく、かき消そうとしてかき消せるものではない。

 そして、恐怖とともにかれの心を揺さぶるのは、ひとつの疑問であった。


――なぜオルフェウスほどの騎士がこんな場所にいる?


 むろん、アレクシオスにはオルフェウスの真意など知る由もない。

 自分と同じように何らかの理由があって出場を強いられていると考えるのが自然と思われたが、今となってはそれを確かめる術もなかった。

 もし脅されて参加しているならば、なおさら厄介なことになる。

 勝たねば人質の命はない――直截な表現こそなかったが、カミラの言わんとするところはあきらかだった。

 あの女は所詮使い走りにすぎない以上、州牧パトリキウスがそう考えているということだ。

 捕らわれているヴィサリオンのためにも、是が非でも勝ち進まねばならない。そう思ったからこそ、アレクシオスはパトリキウスの意のままに汚らわしい殺人遊戯に参加しているのだ。

 オルフェウスも同じ立場であれば、やはり自分と同じように必勝の意志を持って試合に臨むに違いない。

 ただでさえ両者の実力はかけ離れているのだ。どうあがいたところでアレクシオスには勝ち目などない。


 それでも、戦いから逃げる訳にはいかなかった。

 ここで逃げ出せば、捕らわれているヴィサリオンは間違いなく殺される。

 あの青年は、アレクシオスにとって守るべきただひとりの人間だった。


***

 

 戦役の終結は、喜ばしいことばかりではなかった。

 戦うべき敵を失った騎士たちは、人の形をした戎狄バルバロイの亜種そのものだった。

 人ならざる彼らの活躍は史書に記されることもなく、名ばかりの褒賞として形骸化した騎士ストラティオテスの位階を授与されたのみ。


 それだけであれば、まだよかった。

 国家の中枢にあって政を執り行う一握りの支配階層にとって、騎士は嫌忌すべき怪物だった。

 結局のところ、かれらは戎狄という未曾有の脅威に対処する道具として騎士に利用価値を見出していたにすぎないのだ。前線から距離を隔てるほどに、騎士を禽獣にも劣るものとして賎視する風潮はいっそう甚だしかった。

 皇帝に近しい廷臣たちは辺境で騎士と戎狄とが共倒れになってくれることを心から願ってやまなかったが、その願いはついに叶わなかった。


 戦いを終えた騎士たちを待っていたのは、忘恩の一語で片付けるにはあまりに生ぬるい地獄だった。


 辺境から引き上げてきた騎士たちは、一息つく暇も与えられぬまま、古びた城塞へ押し込められた。

 戦力再編のための一時的な措置とは、あくまで建前である。

 そこで騎士たちを待ち受けていたのは、ほとんど飼い殺しも同然の環境だった。

 昼夜を問わずその動向を監視され、隔離された住居で互いに言葉を交わすこともなければ、外出の自由もない。

 獄舎どころか、それはほとんど猛獣を閉じ込める檻も同じだった。

 騎士たちはいつでもそれを破るだけの力を備えてはいたが、それでも誰一人として脱走や反乱を試みることはなかった。

 人の規範を外れた騎士は戎狄と変わらないという暗黙の了解が、かれらに逸脱を思い留まらせたのだ。

 なにより、軽はずみな行動に出れば、他の騎士が追手として差し向けられるという懸念もあった。

 互いに連携することすらままならない状況にあっては、誰が味方で誰が敵かすらも定かではない。いかに超常の力を具備する騎士といえども、一対多の戦いとなれば衆寡敵せず。アレクシオスのような下位の騎士は言うに及ばず、最強格の騎士ですら同等の力量の者を複数人相手にすれば勝機は薄いのだから、あえて軽率な挙に出る者が出なかったのも当然だった。


 だが――そんな生活も長くは続かなかった。

 一年を待たずして、騎士たちに新たな下知が与えられたのだ。

 またしても異動命令だった。騎士たちが二十四州に満遍なく配されたのは、結託しての反乱を防ぐためであることは言うまでもない。


 アレクシオスとヴィサリオンが出会ったのは、長い旅のすえに辿り着いた東方辺境の片田舎だった。

 初夏の陽光と、埃っぽい兵営。すっかり日焼けて白茶けたおんぼろの天幕。そこで自分を迎えた青年のやわらかな微笑は、今もアレクシオスの瞼にくっきりと焼き付いている。

 それぞれの騎士たちには、監督役として専属の文官がつけられる規定だった。

 アレクシオスの場合は、この線の細い、吹けば飛ぶような風体の青年官吏がそれという訳だ。


 変わった男だった。

 ヴィサリオンは、それまでアレクシオスが知り合ったどの人間ともまるで違っていた。


――それでは、あなたのやりたいことを見つけましょう。


 なにか命令をくれ――上官に対して指示を求めたアレクシオスに、ヴィサリオンはそう答えた。


――……それは命令か?

――どうでしょう。私はそんなふうに思ってはいませんが……。


 反問され、ヴィサリオンは腕を組んで思案を巡らせたのだった。


――命令でなければ聞いてもらえないなら、そういうことにしておきましょうか。


 アレクシオスはその時のことを思い出すたび、出会った瞬間に何もかも見透かされていたのだと思う。


 騎士は、戦うことしか知らない。

 戎狄バルバロイと戦い、討ち滅ぼすことだけが存在意義のすべてだった。

 戦地に送られる前に最低限の読み書きは教えられたが、それも命令を理解するのに必要だったからにすぎない。

 騎士はどこまでも空虚な存在だった。

 戦場で身につけたのは戦いにまつわることだけだ。戦うための肉体と、戦うための知識が騎士たちを形作っていたすべてだった。

 それは同時に、人間を人間たらしめているさまざまな要素のほとんどを欠いていることを意味している。

 辺境で兵士たちが故郷を懐かしんで奏でる楽曲を耳にしても、かつてのアレクシオスには単なる雑音としか認識出来なかった。

 騎士を運用する側としては、それで何の不都合もなかった。剣や矛が詩情を解する必要はない。騎士も同様であるとして、あえて戦いに無関係な教育を施そうとはしなかったのだ。


 もしヴィサリオンと出会わなければ、アレクシオスはいまも空虚な自我を持て余していたに違いない。

 辺境の兵営がちいさな学校になるのにさほどの時間はかからなかった。

 どこから持ってきたのか、ヴィサリオンは大量の書物を兵営に持ち込んだ。

 古今の文学に詩、歴史、哲学……むかし帝都で流行したという滑稽本の類まで、書物の内容はじつに広範に及んだ。年若い地方官の蔵書にしてはいささか不自然なほどであったが、そんなことは些細な問題だった。

 それまで本というものを手に取ったことすらなかったアレクシオスにとって、それらのすべてが新鮮だった。

 虚ろな内面を満たすように、少年は貪欲に知識を吸い上げていった。

 みずからの無知を直視するのは少なからぬ痛みを伴う。同時に、それ以上の歓びを得ることでもあった。


 時には二人連れ立って兵営を出、州の各地を巡ったりもした。

 騎士単独での外出は禁じられていたが、監督役が随行すればその限りではないのだ。

 とはいえ、もし外出中に何事かあれば譴責は免れない。

 最終的に責任を負う羽目になる上役はさぞ渋ったに違いなかった。それを押してまでヴィサリオンがアレクシオスを連れ出したのは、むろん考えあってのことだ。

 騎士たちの戦場――北方辺境は、一年を通して分厚い雲が低く垂れ込め、痩せた黒土の大地が果てしなく広がる不毛の荒野である。

 人の営みの痕跡といえば、戎狄の侵入によって放棄された植民市の廃墟がまばらに点在するばかり。

 そのような戦場に長らく身を置き、戦役の終結とともに幽閉に追いやられたアレクシオスにとって、これが外の世界に触れる最初の機会だった。

 州都の殷賑にぎわい、市場の喧騒と人いきれ、地平線に峨々たる天険をそびやかす山々の連なり、果てしなく広がる紺碧の海原……。

 いずれもアレクシオスにとって初めて目にする光景ばかりだった。


――自分が守ったものを知ってもらいたかったんです。


 アレクシオスと一緒に書を読んでいる最中、あるいはほうぼうを巡る旅の途中で、ヴィサリオンはよくそんな言葉を口にした。


――書物も、自然も、街も、人も、そしてこの国も。あなたたちが戦ってくれなければ今頃は何もかも滅び去っていたでしょう。けれど、あなたたちは自分がどんなに素晴らしいものを守ったかを知らずにいる。


 それではいけないのだ、とヴィサリオンは言った。

 この世界の素晴らしさを伝えるのが自分の仕事だと、静かに、しかし力強く言い切ったのだった。

 そして、アレクシオスの目をまっすぐに見据えると、


 ――私たちの世界を守ってくれて、ありがとう。


 初めて顔を合わせた時と同じ微笑みを浮かべたのだった。

 一方アレクシオスはといえば、そのような言葉をかけられて戸惑いを隠せなかった。

 騎士にとって、戎狄と戦うことは持って生まれた使命だ。

 祖国を守るという大義は常に意識していたが、そもそも守るべき世界について何も知らないに等しかったかれらにとって、それはなんの実感も伴わないものだった。

 もしヴィサリオンと出会っていなければ、おのれが守った世界について思いを馳せる機会などついになかったに違いない。

 戦いそれ自体が存在意義となっていたアレクシオスにとって、自分が戦うことで守られたものがあるなどとは、ヴィサリオンに教えられるまでおよそ想像出来なかったのだから。


 二人でともに時を過ごし、折に触れて言葉を交わすなかで、アレクシオスの心中に明らかな変化が生じつつあった。

 自分は戦役で華々しい戦果を残したとは言い難いが、何を恥じる必要もない。

 たしかにこの世界を――この世界を形作る美しくも儚いさまざまな事物を、忌まわしい戎狄の蹂躙から守ったのだ。

 どれほど微力であったとしても、しかし決して無意味な行為などではなかった。たとえ誰に否定されようとも、今なお人の世が変わらずあることがその何よりの証左だ。

 多少大げさな言い方をすれば、アレクシオスはヴィサリオンと出会ったことで救われたのだった。

 かれの心に深く根を下ろした自分自身の不甲斐なさに対する忸怩たる思いと、戦績でまさる騎士たちへの抜きがたい劣等感が完全に払拭された訳ではない。

 しかし、それは意図的に意識しないかぎり、もはや殊更にアレクシオスを束縛するものではなくなっている。

 アレクシオス自身もそれを自覚しているからこそ、当初は変人としか思っていなかった監督役に対して、今や敬愛にも似た感情を抱くに至っているのだった。

 それでもなお、いまだに面と向かって感謝の気持ちを伝えられないのが、この少年騎士の土性骨からくる頑固さであった。


――いつか伝えればいい。


 アレクシオスはそう思い、いつも喉まで出かかった照れくさい言葉を呑むのだった。兵営での穏やかな日々はいつまでも続いていくと信じていた。

 それが誤りだったと気づいた時には、もう手遅れだったとも知らずに。


***


 その日の朝、アレクシオスが天幕に足を踏み入れると、そこにヴィサリオンの姿はなかった。

 代わりにかれを待ち受けていたのは、州牧の使者を名乗る浅黒い肌の女だった。

 カミラと名乗ったその女は、怪訝そうな面持ちで見つめるアレクシオスに向かい、州牧が主催する宴の余興に出場してもらいたい旨を慇懃に述べた。

 むろん、そのような突拍子もない申し出をアレクシオスが素直に首肯するはずもない。それはカミラとて承知の上だったのだろう。


――ヴィサリオン殿はすでに私どもがお招き申し上げました。しばらくは戻れないでしょう。


 言外に込めた意図は明白だった。


――すべてはあなたのご一存にかかっております。なにとぞ賢明なご判断を……騎士ストラティオテス殿?


 露骨な嘲弄を隠そうともしないカミラの言葉に、アレクシオスは従容と従うしかなかった。もし断れば、ヴィサリオンは生きては帰れないだろうということも分かっていた。

 促されるまま天幕を出ると、兵営の正門に居並ぶ一塊の人だかりが目に入った。

 美麗な軍服に身を包んだかれらは、いずれも辺境軍の高級将校であった。

 カミラが事を成し遂げるまで見届けるつもりなのだろう。騎士が州牧の私的な遊興のために利用されるのを知りながら、あえて見て見ぬふりをしようというのだ。

 かれらを統率する軍団長の姿はないが、自らの管轄下で何が起こっているかを知らぬはずない。


 アレクシオスは、ここに至って、ようやく自分が孤立無援の状況に置かれていることを理解した。

 すべては州牧パトリキウスの描いた絵図通りに進んでいる。

 だれ一人として白昼堂々の無法を止める者もないまま、アレクシオスを乗せた馬車は兵営を後にした。

 今から三日前の出来事であった。


***


 闘技場へと続く回廊はまもなく終点を迎える。

 扉を開けば、そこには後戻りの出来ない戦場が待ち受けている。

 オルフェウスと戦い、打ち勝つほかにヴィサリオンを救う手立てはない。


 しかし――。

 最強の騎士と、最弱の騎士。まともに戦ったところで勝算などあろうはずもない。

 敗北は必定だった。

 それでも、アレクシオスは躊躇なく一歩を踏み出す。

 ここで怖気づいたならば、いまも自分を信じて待っているであろうヴィサリオンと、他ならぬ自分自身を裏切ることになる。

 たとえ敵わぬとしても、アレクシオスは持てる力のすべてを尽くして闘うつもりだった。


(一人で生き延びるよりは、よほどましだ)


 それが、暗闇を彷徨っていた自身を救ってくれた男に報いる唯一の方法ならば。

 扉が開き、光がアレクシオスの目にあふれた。

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