第9話 最強対最弱

 闘技場は異様な雰囲気に包まれていた。


 耳を聾する歓声もなければ、割れんばかりの喝采もない。

 ただ、静寂だけが広い場内を包んでいた。

 喧騒はすっかり消え失せ、闘技場は隅々までひりつくような焦燥感に満たされている。誰もがその瞬間の到来を待ちわびているのだ。

 さまざまな思惑が錯綜する空間の中心で対峙するのは、ふたりの騎士ストラティオテス


 一方は黒髪黒瞳の少年騎士――アレクシオス。

 そして、もう一方は亜麻色の髪と玲瓏たる美貌を湛えた少女騎士――オルフェウス。


 血生臭い闘技場にはおよそ似つかわしくない年若い二人だ。

 ギルタブルとシデロフォロスという猛者を打ち破って勝ち進んできた両者である。

 猛者であったかどうかは、この際さして重要ではない。

 かれら騎士にとって、人間が何人束になったところで問題ではないのだ。人間の強さの程度などは、取るに足らないにすぎない。


 それに対して、これから行われようとしているのは騎士と騎士の戦いである。

 国家の公式文書に記されているかぎり、これまで騎士同士の戦闘が行われた事例はただの一例たりとも存在しない。

 模擬戦ではなく、文字通りの真剣勝負ならばなおさらだ。

 戎装騎士が全力で激突したとき、いかなる事態が出来しゅったいするかは誰にも予想がつかない。

 いま、山中の闘技場を舞台に幕を開けようとしているのは、文字通り誰も見たことのない戦いだった。

 観客たちは歴史的な瞬間に立ち会っているという興奮に酔いしれ、舞台に熱い視線を注いでいる。

 誰もが期待に目を輝かせ、二人の騎士の挙動を固唾を呑んで見守る。

 これまでの戦いを振り返れば、試合開始と同時に勝負が決したとしても不思議ではないのだ。観客としても一瞬たりとも気は抜けない。


 無数の視線を浴びながら、ふたりの騎士はどちらともなく一歩を踏み出していた。

 いまだ開幕を告げる鐘は打ち鳴らされていない。

 アレクシオスの黒い瞳は、まっすぐにオルフェウスの顔を見据えている。

 同時期に戎狄と闘っていたとはいえ、北方辺境の戦場はきわめて広範に及んでいる。

 騎士たちはその広大な戦域に分散して配置され、それゆえかれらが顔を合わせる機会はきわめて少なかった。

 オルフェウスの名は嫌というほど意識していたアレクシオスも、実際に目にするのはこれが初めてだ。

 オルフェウスが鬼神のごとき強さに反して美しい娘であるという風聞は、アレクシオスもたびたび耳にしていた。

 実際に目の当たりにしたその容顔は、想像をはるかに凌駕している。

 面貌は目鼻や耳朶、睫毛の一本一本に至るまで整いすぎるほどに端正だ。

 だが、その美しい顔をいくら見つめたところで、何の感情も読み取ることは出来そうにない。

 人間の表情はつねに移ろいゆくものだ。

 いかなる鉄面皮であろうとも、顔面を縱橫に走る筋群は脈動とともに絶えず微細に揺れ動いている。それはどのような人間にも備わった生理であり、見る者に人間らしさを感じさせる一因でもある。

 オルフェウスは、そんな人間らしさとは無縁の存在であった。

 顔貌だけではない。白く整った指先も、銀と金のあいだをたゆたう淡い色の髪も、すべてが美しさを留めたまま永遠に凍てついたかのようにみえる。

 人と呼ぶには、その造形はあまりにも完璧にすぎる。

 人間性を欠いた美しさはなにやら底知れぬものを感じさせ、アレクシオスが必死に押さえ込んでいた恐怖が、熾き火のようにじわりと熱を増していく。

 アレクシオスは右の拳を強く握り込む。

 皮膚に爪が食い込み、鋭い痛みが走る。もう少し力を強めれば血が滲むだろう。恐怖を上塗りするにはまだ不十分だったが、痛覚への刺激は、否応にも少年の意識を戦いに向けさせた。


 そうするうちに、両者は示し合わせたように足を止めた。

 両者の体は、どちらかが手を伸ばせばすぐにでも触れられる距離にある。

 それほどの至近に迫ってなお、オルフェウスは相変わらずの無表情を保ったままだ。

 真紅の双眸は静まりかえった水面を思わせた。これから命がけの戦いが始まるなどとは、露ほども思っていないようであった。

 あくまで泰然自若とした佇まいに、アレクシオスは鼻持ちならない驕慢のにおいを嗅ぎ取る。

 絶対の強者としての自信が余裕を生んでいるのか。

 戦いに臨んでことさらに余裕をひけらかす――それは、相手を侮辱する行為にほかならない。

 アレクシオスは、ふつふつと怒りが沸き起こるのを自覚していた。

 どれほど実力に隔たりがあろうとも、まだ戦いは始まってすらいない。

 戦う前から勝ったつもりでいるとすれば、それはおよそ看過しがたい思い上がりであり、増上慢であった。


 「……ひとつ、聞いていい?」


 オルフェウスがふいに口を開いた。

 突然の問いかけに、アレクシオスは動揺しつつ、


 「なんだ」


 わざと不機嫌そうな声色を作って答える。


 「……あなたはどうして戦うの?」


 無表情を保ったままオルフェウスは言った。

 それがシデロフォロスとの戦いで発せられた問いとおなじだとは、その場に居合わせなかったアレクシオスはむろん知る由もないことだ。

 意図の掴めない問いかけに、アレクシオスが返答に窮したのも無理はない。


 はたしていかに答えるべきか?

 オルフェウスは、それで何を知ろうというのか?


 どれほど逡巡したところで、問いの裏に隠された真意など分かるはずもない。

 だが、無視するという選択肢もなかった。それは逃亡と同義だからだ。

 ならば、とアレクシオスは意を決したようにオルフェウスを見据える。


 「……どうしても助けたい人間がいる。それがおれの戦う理由だ」


 一語一語区切るように絞り出した言葉には、隠しきれない痛切さがにじむ。

 オルフェウスはそれを聞いてもなお表情ひとつ変えず、


 「あなたが勝てば、その人は助かるの?」


 ふたたび投げかけられた問いを、アレクシオスは訝しんだ。

 問いかける意図は皆目見当もつかないが、いまさら押し黙るのも癪だ。


 「……おまえとの戦いに勝てばな。そういう約束だ」


 アレクシオスは続けて言葉を継いだ。

 オルフェウスは何も言わなかった。

 依然としてその表情から感情を読み取るのは至難だったが、アレクシオスの言葉を受けて、何事かを考えているようにもみえる。


 ややあって、薄桃色の口唇がかすかに動いた。


 「……いいよ」

 「なに?」


 問い返したアレクシオスに、オルフェウスはもう一度同じ言葉を繰り返す。


 「負けてあげてもいいよ」


 その言葉にはわずかな嘲りも驕慢もなかった。

 みずらの力を誇示する訳でもなく、相手を見下している訳でもない。

 ただ、少女は何の衒いもなくそう言ったのだった。

 他方、それを受けたアレクシオスの心中は穏やかではなかった。

 得体の知れない衝動が身体中を駆け巡る。くろぐろとした感情に理性が塗り潰されていくのが手に取るように分かる。

 少女の唇が紡いだ言葉は、それほどまでに少年の心を打ちのめしたのだった。


 ――負けてあげてもいい。


 オルフェウスは、確かにそう言った。聞き間違えるはずもない。

 その言葉には何の悪意も含まれていないように思われた。

 悪意を削ぎ落とすことで、言葉の刃はいっそう残酷さを増すこともある。

 まるで往来で行き違う人に道を譲るかのように、オルフェウスはこともなげに敗北を申し出たのだった。

 それは、これから行われる戦いがオルフェウスにとって何の価値も意味ももたないことを示してもいる。

 勝ったところで何を得る訳でもなく、敢えて勝ちを譲ったとて何を失う訳でもない。そうでなければ、戦いに先立ってあのような言葉を吐けるはずがない。


 両者の戦いに臨む姿勢には、あまりにも深い溝がある。

 アレクシオスはヴィサリオンを救うため、死さえも厭わない覚悟でこの闘技場に足を踏み入れている。

 かたや最強の騎士の一角、かたや無残な戦果しか残せなかった最下級の騎士。

 互いの実力に天地ほどの開きがあることは、むろん承知の上だ。

 生命など惜しくはなかった。命がけで戦うことが、戦いしか知らなかった自分を人間として遇してくれた恩人に報いる唯一の方法だと信じたからだ。


 そんな悲壮な覚悟も決意も、オルフェウスのたった一言で崩れ去ろうとしている。

 アレクシオスの全力を傾けても届かないと思われた勝利は、あまりにあっけなく手渡されようとしている。

 囚われているヴィサリオンの安全を何より優先するならば、この提案を容れない道理はなかった。

 もしアレクシオスが冷静であったならば、一も二もなくその申し出を承諾したはずだ。

 たとえ騎士としての尊厳をひどく傷つけられたとしても、いまはそれ以上に優先すべき目的がある。


 だが――。

 心のすべてを支配する衝動は、少年から冷静な判断力を奪い去っていた。


 「負けてあげてもいい、だと?」


 アレクシオスはもはや怒気を隠そうともしなかった。

 怒りに燃える黒い瞳が、オルフェウスをきつく睨めつける。


 「……ふざけるな」


 激情の命じるまま、アレクシオスは濁った言葉の塊を吐き出していく。


 「おれと戦え、オルフェウス!!」


 黒髪が一瞬逆立ったと思うと、それが合図であったかのように少年の肉体は見る間に変形へんぎょうを開始する。

 オルフェウスが変じた時とは異なり、その過程でまばゆい光を放つこともない。

 それだけに、騎士の肉体に生じつつある現象は観客たちの目にも明らかであった。眼前に立ち現れた稀有な光景を見逃すまいと、闘技場のすべての人間の視線が一点に集中する。

 肉体の変形が始まるとともに、アレクシオスの全身の皮膚は別のなにかへと入れ替わっていった。


 いまアレクシオスの全身を覆うのは、漆黒の装甲だ。

 濡れたような光沢を帯びた表層は、丹念に磨き上げられた黒曜石のよう。

 すっかり消え失せた皮膚の代わりに、頭頂から指先までを黒く艶めく重甲冑が覆い尽くす。

 時間にしてわずか一秒にも満たないわずかなあいだに、アレクシオスは異形の黒騎士へと変貌を遂げていた。

 その輪郭は人型でありながら、世に知られているいかなる動物ともかけ離れている。

 人間の目に相当する部位には幾何学模様のスリットが刻まれ、そのなかを不規則に赤い光が走る。

 オルフェウスの白い光とは対照的な、血潮を彷彿させる赤光であった。


 アレクシオスはひとしきり白く烟った呼気を吐くと、


 「戎装しろ、オルフェウス!」


 人間であった時と変わらぬ声で叫んだ。


***


 戎装――。


 騎士が本来の姿へと変じることがそのように呼ばれるのは、皮肉でもある。

 戎狄と戦うために、人の姿を捨て去り、戎狄と同質の存在へとその身をやつす。それこそが戎装という行為であり、また戎装騎士という名の由来でもあった。


 観客席に目を向ければ、あらたな騎士の出現によって、観客たちの興奮は最高潮に達しようとしている。

 対峙するふたりの騎士の間で交わされたやり取りなど、むろん観客たちは知る由もない。

 かれらの目に、アレクシオスの戎装はあくまで試合に先立つ余興の一環と映ったのだろう。


 何も知らぬ観客をよそに、アレクシオスは戦いに向けて臨戦態勢を取っている。

 オルフェウスは、自分の言葉が相対する少年の心を逆撫でしたなどとは思いもよらないのか、ただ立ち尽くすばかり。

 試合開始の合図を待たずして緊張が極限に達しようとしたそのとき、


 「意気軒昂なのは結構――しかし、まだ戦いを始めてもらっては困る」


 野太い声がふいに降って湧いた。

 声の主は、言うまでもなく州牧パトリキウスだ。

 パトリキウスの肥大しきった巨体は、はるか頭上の特別席ではなく、いつのまにか観客席の一角へと移動している。

 ふたりの騎士による前代未聞の戦いを間近で観戦するために、わざわざそこまで降りてきたのだ。

 カミラをはじめ数名の配下を従えた州牧は、重い体を揺らしつつ観客席の淵までようよう移動すると、アレクシオスとオルフェウスをそれぞれ一瞥した。

 パトリキウスはかつてないほど騎士たちに近づいている。アレクシオスとオルフェウスどちらにとっても、その気になれば一瞬で生命を奪うことが可能な間合いである。

 護衛を引き連れているとはいえ、あえてその間合いに踏み込んでくるのは蛮勇というべきだろう。

 アレクシオスははたとヴィサリオンの姿を探すが、少なくとも目視出来る範囲にそれらしい姿は見当たらなかった。


 「世にも稀なる騎士同士の戦い。ただ勝敗を決するだけでは面白くはなかろう?」


 アレクシオスの視線に気付いてか気づかぬか、パトリキウスは下卑た哄笑を漏らすと、


 「この戦いの勝者には、どんなものでも望む褒美を与えよう。儂に叶えられるものならば、どのような望みであろうと……だ」


 満座の観客たちにも聞こえるように、高らかに宣言した。

 ほどなくして沸き起こった拍手と歓声は、パトリキウスを大いに満足させた。


 アレクシオスはといえば、鼻白む思いでその宣言を聞いている。

 この戦いに勝たねばヴィサリオンの命はないと仄めかしたのは、ほかならぬパトリキウスの側である。

 この期に及んでどんな望みでも叶えるなどとは、あまりに白々しいパフォーマンスであった。


 と、アレクシオスはオルフェウスの方へ視線を向ける。

 これから戦うことになる少女は、いまだ戎装する素振りも見せていない。

 はたしてパトリキウスの言葉の意味を理解しているのか。理解していたとして、少女は勝利と引き換えに何を望むのか。

 少なくとも、あっさりと勝ちを譲るなどと言ってのけた以上、オルフェウスにとって是が非でも勝たねばならぬ理由はないはずであった。


(だとしたら、なぜ――)


 アレクシオスの心は、先ほどに較べればだいぶ落ち着きを取り戻している。

 パトリキウスの登場によって冷や水をかけられたためでもある。

 同時に、その胸にはひとつの疑問が湧き上がっている。


(なぜ奴は、こんな馬鹿げた戦いに加担している?)


 抜き差しならない事情があるならいざしらず――。

 オルフェウスほどの騎士が州牧の殺人遊戯に従容と参加しているのは、どうにも不可解であった。


 それでも、アレクシオスはいまさら問いかけるつもりもなかった。

 問うたところで、望む答えが返ってくるとはかぎらない。

 改めてアレクシオスはオルフェウスに向き合い、その瞳を覗き込む。

 深い紅を湛えた瞳は一点の曇りもなく、それでいて何の意思もないように、じっとアレクシオスを見つめ返していた。

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