第10話 赤と黒の相剋

「これより試合を開始します!」


 司会者が闘技場全体にこだまするほどの大音声を張り上げた。

 言い終えるが早いか、試合開始を告げる鉦が激しく打ち鳴らされる。

 オルフェウスの身体に変化が生じた。


 戎装が始まったのだ。

 時間にして一秒にも満たないわずかな間に、オルフェウスは異形の騎士へと変形へんぎょうを遂げる。シデロフォロスとの戦いで見せたような発光はなく、肉体の一切を作り変える過程は無音のままに完結する。


 やがて、真紅の騎士がふたたび舞台の上に姿を現した。

 鋭く繊細な描線が綾なすシルエットは、向かい合う黒騎士と好対照をなす。


「……ようやく戎装したな」


 真紅の騎士を見据えながら、アレクシオスは誰にともなくぽつりと呟く。

 待ち望んでいた時を迎えたいま、アレクシオスの胸中には複雑な思いが渦巻いていた。

 待ち望んでいた戦いに臨む高揚と、ともすれば心を支配しそうになる恐怖心。

 それらが綯い交ぜになって、少年の胸中を激しく波立たせる。


 アレクシオスにとって、おなじ戎装騎士との戦いは正真正銘これが初めてだった。

 ここから先は全てが未知の領域だ。戎狄や人間を相手に積み重ねてきた戦闘経験は、おそらく騎士同士の戦いでは何の役にも立たない。

 まして、数多いる騎士のなかでも最強の一角であるオルフェウスが相手となればなおさらだ。


 格上の相手に対して、いかに攻めるか――。

 アレクシオスは脳裏にさまざまな方策を浮かべつつ、最適の攻め手を編み出すために考えを巡らせる。


 と、ふいに視界に異変が生じた。

 ほんの一瞬前までたしかに目の前に存在していたはずのオルフェウスの姿は、すでにそこにはない。

 両者の距離は身体二つ分と離れていない。もし何らかの動きを見せたならば、見逃すはずはなかった。

 それにもかかわらず、紅の騎士は忽然と消え失せたのだった。


「――ッ!!」


 アレクシオスが三メートルばかり飛び退ったのは、無意識の反射だ。


 刹那、前触れもなく左上方から襲来したのは真紅の手刀であった。

 整然と揃えられた五指は鋭く空を裂き、辺り一帯に衝撃の余波がほとばしる。

 赤い光がひとすじ閃いたのはほんの一瞬のこと。その一瞬が文字どおり生死の分水嶺になった。

 アレクシオスは、突き抜けた衝撃の凄まじさにたじろぎつつ、間一髪のところで回避に成功したことを知る。

 もし危機を察知した第六感が意識より早く五体を衝き動かしていなければ、オルフェウスの手刀は過たず黒騎士の首を刎ねていただろう。


 アレクシオスは態勢を整えつつ、あらためて敵と対峙する。

 先ほどの一撃が命中に至らなかったのは、幸運な偶然にすぎない――それは、当のアレクシオス自身が誰よりよく理解していた。


(さっきの一撃は見えなかった……次は、避けられない)


 オルフェウスほどの強者が二度までも狙いを外すとは思えない。

 防御という選択肢はなかった。もしまともに受けようとすれば、こちらは一撃ごとに四肢を失うことになるからだ。

 あれほどの速度と威力をもった一撃を受けては、いかに戎装騎士でもひとたまりもないのだ。

 慄然と身構えるアレクシオスに対して、オルフェウスは落ち着いたものだ。先制の一撃を回避されたことなど意にも介していないようだった。

 紅の装甲を偽の陽光にきらめかせながら、アレクシオスにむかって近づいてくる。


(……奴がもう一度仕掛けてくるまでが勝負だ)


 アレクシオスは両腕を大きく広げる。

 肩から一直線に伸びた腕の先では、手首がだらんと垂れていた。

 その姿は案山子、あるいは磔刑に処せられた罪人のようでもある。

 あるいは、怖気づいて投降を申し出たようにも見える。

 実際に少なくない観客はそのように考え、他の者も黒騎士の不可解な動作に訝しげな視線を向けた。


 だが、それも黒騎士の手首から現れたものを目の当たりにするまでのことだ。

 アレクシオスの両手首から音もなく伸びたのは、きらめく一対の白刃であった。

 とても前腕に収まっていたとは思えないほど長尺の刃だ。

 刃を備えているとはいえ、その形状はむしろ槍と呼ぶほうがふさわしいだろう。


 騎士アレクシオスの最大の武器――”槍牙カウリオドゥス”。

 人間が作ったいかなる刀槍より鋭いその槍先は、戎装騎士の膂力とあいまって、束ねた鋼鉄さえやすやすと突き破る威力を発揮する。


 槍牙が完全に展張したことを確かめると、アレクシオスはだんと地を蹴った。

 にわかに巻き起こった土煙を振り払うように、黒騎士は高々と跳ぶ。

 観客が一様に目を見張ったのは、それが単なる跳躍ではなかったからだ。アレクシオスは見る間に高度を上げ、その身体はほとんど闘技場の天井に触れるほどの高度に達している。


 闘技場の舞台から天井までは、ざっと見積もって五十メートルあまりの高さがある。

 目ざとい観客は、アレクシオスの脹脛の装甲が展開し、跳躍の軌跡を示すようにうっすらと陽炎が漂うさまを認めていた。

 地面を離れたのを合図として、戎装とともに両下肢に形成された推進器が作動したのだ。


 酸素を燃料として稼働する、超小型・超高効率のターボジェットシステム――。

 いましがたアレクシオスの足元で沸き起こった土煙も、推進器が吐き出した高温・高圧のジェットブラストによって引き起こされたものだ。

 ジェットエンジンはおろか、原始的な内燃機関すら影も形もない時代である。

 人知を超えた騎士の異能――この時代の人々にとって、それはほとんど魔法と変わらなかった。


 アレクシオスとオルフェウスが見せたのは、そんな超常の力の一端にすぎない。

 観客たちは、なにかに憑かれたみたいに二人の騎士の対決に見入っている。

 異能を駆使した騎士の戦いを目の当たりにしては、もはや人間同士のいかなる熱戦も色褪せて見えるに違いなかった。

 アレクシオスは天井すれすれまで飛び上がったところで、くるりと身体を翻す。

 下方に視線を向ければ、円形の闘技場の全景が手に取るように分かる。椀のなかに一回り小さな椀を重ねるように幾段にも観客席が重なり、その中心部には舞台が真円を描いてある。

 砂煙に巻かれながら輝く赤い光は、言うまでもなくオルフェウスであった。


(もらった!)


 アレクシオスはふたたび推進器を作動させる。ほとんど透明にちかい、目視不能の熱気流が天井をわずかに焦がす。

 自由落下の勢いに加えて、推進器に後を押されたアレクシオスの身体は、想像を絶する速度で降下していく。


 ――跳躍という動作は、戦いの場において一般に禁じ手のひとつとされている。

 空中にいる間は身動きもままならず、いたずらに隙を作るばかりで何一つ利点がないためだ。しかも、身体が固定されていない状態から繰り出す攻撃には思うように威力も乗らない。戦闘において不用意に身体を地面から離すことは、みすみす敵を利するようなものだ。


 だが、それはあくまで人間の場合だ。

 跳躍からの急降下攻撃は、アレクシオスが最も得意とする戦術だった。

 両足の推進器によって空中でも動くことが出来、しかも高高度からの攻撃には自由落下による破壊力が上乗せされる。

 上空からの攻撃をまともに浴びれば、さしものオルフェウスでも致命傷は免れないはずだった。

 槍牙を構えつつ、アレクシオスは来るべき一瞬に向けて全神経を研ぎ澄ます。


 真紅の騎士が上方を仰いだ。

 上空からの突進を認識してなお、オルフェウスはその場を動こうとはしなかった。

 ただ、迫り来る黒騎士の姿を茫洋と見つめるばかりであった。

 アレクシオスが不審に思ったのも無理はない。


 だが、すでに勢いに乗ってしまっている以上、アレクシオスとしてはこのまま突き進むしかない。

 オルフェウスの装甲に槍牙の切っ先が届くかと思われた、まさにその瞬間――。

 アレクシオスはおもわず驚嘆の声を上げていた。

 ほんの一瞬前まではっきりと眼下に捉えていたオルフェウスの姿は、またしても消え失せていた。


 それはあまりに奇怪であり、また不可解な現象だった。

 不意を衝かれた初撃とは異なり、アレクシオスは全神経をオルフェウスに向けていたのである。どれほど微細であろうと、敵が見せた兆候を見逃すはずがなかった。

 アレクシオスは着地した後、しばらく周囲に視線を巡らせる。

 もはやオルフェウスの姿を探そうとはしなかった。

 いかなる技を用いたのかは見当もつかなければ、悠長に詮索する余裕もない。

 確実に言えるのは、オルフェウスが影も残さず視界から消え失せてしまったということだけだ。


 それも、一度ならず二度までも――。

 アレクシオスはふたたび推進器を作動させる。ただし、左足だけだ。

 そして、右足を軸として、左足で真円を描くようにぐるりとひと回りしてみせる。

 左足の推進器は青白い噴射炎を吐いているが、目的は跳躍ではない。

 円を描くのに合わせて舞い上がった砂煙は、観客たちにとってはさぞ目障りだっただろう。


 それも計算のうちであった。

 砂煙のなかで動くためには、空間を埋め尽くす微細な砂粒をかき分ける必要がある。

 オルフェウスがどれほど巧妙に身を隠し、また目にも留まらぬ速度で迫ろうとも、砂の帳を通してその姿を認めることができるはずだった。


(目論見は外れたが、まだ手はある――)


 アレクシオスは反撃の機を伺う。

 見えざる敵を迎え撃つべく、全方位に神経を尖らせる。

 土煙はなおも低く垂れ込めている。そのなかでオルフェウスがわずかでも動けば、ただちにその存在を知らせてくれるはずだった。

 と、アレクシオスは左側方で何やら動くものを認めた。

 とっさに槍牙を構え、防御姿勢を取る。

 突き出すように構えた左腕は盾として捨て、残った右腕で急所を貫く。

 一方の腕を犠牲にしてあのオルフェウスに一矢報いることが出来るなら、それは無上の戦果といえた。

 固唾をのんでその瞬間を待ち構えるアレクシオスだったが、ふいに背筋を冷たいものが撫ぜていった。

 第六感が危機を知らせている。無意識が警鐘を鳴らしている。それも、先ほどとは較べものにならないほど強く。


 その予感を裏書きするように、オルフェウスはふたたび姿を現した――左側方ではなく、アレクシオスのすぐ背後に。

 真紅の騎士はまるで一瞬のうちに虚無から生成されたみたいに、音や気配はおろか、わずかな兆候すらないままに出現したのだった。

 オルフェウスの掌が大きく動いた。

 手刀や正拳とはあきらかに異なる、まるで水を汲むみたいな動きだった。

 とても戦いの場には似つかわしくない柔らかく優雅な挙措で、赤くきらめく繊手がアレクシオスめがけて振り下ろされる。

 その美しい手は、触れたものすべてを消し去る力を宿した滅びの手だ。


 オルフェウスの能力は、神速の動作だけではない。

 ”破断”――。

 それこそが、オルフェウスが持って生まれたもうひとつの異能。

 ただ破るだけでなく、ただ断つだけでもない。

 いずれの特性も兼ね備えた恐るべき異能。

 それが”破断の掌”。

 オルフェウスの掌の表層には、きわめて微細な刃が整然と配列されている。

 刃の総数は、片手だけで十六兆と二百億をゆうに超える。

 不可視の刃は、オルフェウスの爪先から掌底までを隙間なく覆っている。まさしく微細な凶器の森であった。

 地上のいかなる物質よりも細く鋭い刃は、あらゆる物質の構造にたやすく入り込み、たちまちに結合を破壊する。ひとたび彼女の手が触れたものは、まるで最初から存在していなかったみたいにこの世から消滅するのだった。

 先の戦役でも、オルフェウスは戎狄バルバロイの体表をほんのひと撫でするだけで決着がついた。

 軽く触れただけで、どれほど巨大な戎狄も灰か砂と化したように跡形もなく消え去っていったのだ。

 時間さえ凍りつかせる神速と、触れただけであらゆる物体を消し去る破断の掌。

 先のシデロフォロスとの戦いで見せた不可思議な現象は、二つの異能の合せ技であった。


 そして、いま――。

 必殺の掌は、アレクシオスに向けて振り下ろされようとしている。

 直撃すれば、戎装騎士であろうと死は免れない。

 絶望的な状況。それでも、アレクシオスは思考を止めなかった。

 今から推進器を作動させても、安全圏へ逃れるだけの余裕はおそらく、ない。

 よしんば一時的に逃れられたとしても、オルフェウスが追撃に移ればそれまでだ。

 まさしく十死一生の窮地であった。


(逃げても死ぬなら、せめて――)


 アレクシオスの意志に呼応するように、両足の噴出口から青白い炎が上がった。

 そして、その場で身体を百八十度反転させると、オルフェウスに向けて最大の加速を開始する。限界まで圧縮された酸素はたちまち莫大な推力へと変換され、黒騎士を一瞬のうちに最高速へと押し上げていく。


「おおっ!!」


 裂帛の雄叫びを響かせながら、アレクシオスは自暴自棄とも見える突進を敢行する。

 予期せぬ動作に意表を突かれたのはオルフェウスだ。振り下ろした掌は、わずかにアレクシオスの左腕の表層を掠ったに留まった。

 オルフェウスの神速の加速能力も万能ではない。

 破断の掌に意識を集中させるあまり、加速に入るタイミングを完全に逸していた。

 黒と赤が交錯する。金属と金属とがぶつかりあう凄まじい衝撃音。


 二人の騎士が投げ出されたのは、ほとんど同時だった。

 間一髪のところで窮地を脱し、アレクシオスは安堵に胸をなでおろす。

 それも左腕に走った違和感に気づくまでのことだ。

 オルフェウスの掌は、ごく軽くアレクシオスの左腕に触れただけだった。

 それでも、装甲の表面には粘土にへらを押し付けたみたいに五指の跡がはっきりと刻み込まれている。いまもかすかに立ち昇る煙が破壊力の凄まじさを物語る。

 みずからの身体に刻まれた破壊の痕跡を目の当たりにして、アレクシオスは戦慄を覚えずにはいられなかった。

 もし突撃を敢行するのがあと数秒遅れていたなら、左腕はすっかり消え失せていただろう。


 アレクシオスと同様、オルフェウスもすでに体勢を立て直している。

 同じように激突の衝撃を受けているにもかかわらず、真紅の装甲はわずかも輝きを損なっていない。

 と、オルフェウスがふいに左の掌を顔にそえた。

 掌の動きを追うようによく目を凝らせば、ちょうど右頬のあたりにうっすらと一筋の線が引かれていることに気づく。

 白墨を引いたようなその直線は、オルフェウスの装甲に生じた唯一の瑕疵であった。満月にかかった一朶の雲のように、たった一筋の細傷は否応にも目立つ。

 両者が激突した瞬間、アレクシオスは槍牙を展開したままだった。むき出しの切っ先がオルフェウスの顔を掠り、小傷をつけたのだった。


 あのオルフェウスが傷を負うとは――。

 その事実に誰よりも驚いたのは、他ならぬアレクシオス自身であった。

 攻撃は意図したものではない。そんな余裕などありはしなかった。オルフェウスに傷をつけたのは、まったくの偶然だ。

 アレクシオスにとって、それは予期せず差し込んだ一筋の光明にも等しい。

 オルフェウスはたしかに最強の騎士の一人である。しかし、決して無敵の存在ではない。


 攻撃が命中しさえすれば、疵をつけることも出来るのだ、と。


 一方オルフェウスはといえば、とくに動揺する様子もなく、傷を確かめるように何度も掌を行き来させている。万物に致命的な破壊をもたらす破断の掌も、どうやら主人に対して牙を剥くことはないようだ。

 顔に傷をつけられたことに憤っている訳でもなければ、格下の相手から思わぬ反撃を食らって自尊心が傷ついたという様子もない。

 ただ、未だかつて経験したことのない現象にどう対処すべきか考えあぐねているようだった。


 負傷――それは正真正銘、オルフェウスにとってははじめての経験だった。

 交差した一瞬、互いに傷を負った二人の騎士。

 少年にとっては、傷を負うことは戎狄と戦っていた頃からの日常茶飯事だ。

 しかし、少女にとっては全く異なる意味を持つ。


「……ありがとう」

「なに?」


 オルフェウスが呟いた言葉の意味を理解できず、アレクシオスは思わず反問していた。

 オルフェウスは頬の傷に手を当てたまま、アレクシオスに向き合う。

 そして、涼やかな、しかし抑揚に乏しい声で、


「傷がつくと痛いこと……あなたに会うまで、誰も教えてくれなかったから――」


 敵手であるはずの少年に礼を言ってのけたのだった。

 アレクシオスはまたしても背筋に氷を当てられたような怖気を覚えていた。


 この状況で敵に礼を言う――。

 その心理は、アレクシオスの理解を超えている。力量の劣る相手への嘲弄にしては、悪意というものが一切感じられない。


 だからこそ、恐ろしい。

 何を考えているか分からない相手ほど怖いものはない。少なくとも、アレクシオスはそう考える。

 オルフェウスはそんなアレクシオスの心中を見透かしたように、ふたたび涼やかな声で問いかける。


「まだ、する?」

「当然だ!」


 アレクシオスは即答する。


「勝負はまだついていない。勝ったつもりでいるなら大間違いだ」


 虚勢だ。それは当の本人も承知している。


「わかった――」


 オルフェウスはぽつり呟いただけだった。

 柘榴石ガーネットを連ねたような美しい指が頬を離れると、傷は跡形もなく消え去っていた。

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