第11話 盤外の二人

「ふむ……」


 眼下の舞台で展開される超常の戦いを目の当たりにして、青年はため息とも唸り声ともつかぬ声を漏らした。

 青年と従者は、入り口にほど近い座席から二人の騎士の戦いを観覧している。舞台からの距離の長短こそあれ、どの席も等しい眺望が得られるのは円形闘技場の利点であった。


「どうしました? 殿……若様」


 青年の声にただならぬものを感じたのか、傍らの従者はすかさず問うた。


「……分からんな」

「分からないって、なにがです?」

「何もかもだ」


 真顔でそう言う主人に、従者は面食らいながらも食い下がる。


「お言葉ですが若様、具体的におっしゃって頂かないことには、私だってさっぱり分かりませんよ」


 とはいえ、青年が分からないというのも無理はない。

 観客たちのなかで、二人の騎士の戦いの全貌を把握している者はひとりもいないはずだ。

 舞い上がる土煙も、耳を聾する轟音も、肌に感じる大気の唸りも、かれらが知覚するすべては、それに先立つ神速の動作がもたらした結果にすぎない。

 どれほど鍛え上げた人間の目を以ってしても、かすかな残像を把握するのが精一杯であった。


 ただひとり、この従者を除いては。

 正確に言うなら、御者の目がかろうじて捉えられたのは黒騎士――アレクシオスの動作だけだった。

 常人ではとても追いきれない疾さであることには違いない。それでも、従者が目を凝らせば、おおまかな挙動を捉えることはできる。


 一方のオルフェウスは――どれほど神経を集中させても、その動きを見切ることはできそうになかった。

 それはアレクシオスが劣っているというよりは、オルフェウスの異能があまりに常軌を逸しているためだ。

 攻撃にせよ回避にせよ、真紅の騎士は動作の発端で忽然と姿を消し、その終端においてふたたびその姿を現すことを繰り返している。本来あるべき動作の中間がごっそり欠落しているのだ。


(あれが、戎装騎士ストラティオテス――)


 御者は我知らぬうちに騎士たちとの戦いに思いを馳せていた。

 並々ならぬ強さを持った存在を前にしたとき、骨髄まで徹した武芸者としての性が無意識にそうさせるのだった。


 どちらも並外れて手強い相手である。

 おそらく、これまで御者が立ち会ったどの相手よりも、ずっと。

 もし騎士たちと戦うことになれば、御者は逃げの一手を余儀なくされるはずだ。不本意だが、それは厳然たる事実だ。

 しかし、御者にとって何より重要なのは、勝敗でもなければ、自身の生死ではない。

 窮地において主君を最後まで守りきれるかどうか――なんとなれば、一命をなげうつ覚悟は出来ている。

 おのれが捨て石となって主君が逃げおおせられるならば、御者は迷いなくそれを選択するだろう。

 だが、オルフェウスが相手では、それすらも不可能と思われた。美しく紅い騎士は、それほどまでに隔絶した力を持っているのだ。


「なぜあの者たちはパトリキウスなどに従っている思う?」


 空想に耽っていた御者は、青年の言葉によってふいに現実に引き戻された。


「なぜって……そう命じられたからではないのですか? かれらも官職についているなら、上役からの命令には逆らえないでしょう」

「本当にそれだけだと思うか」


 青年は腕を組み、かすかに眉根を寄せて騎士たちの戦いを見守っている。

 御者はしばし考えを巡らせたあと、


「戦わざるをえないように仕向けられている……とか?」


 おそるおそる口を開いた。


「そうかもしれんな」


 言って、青年は御者に顔を向ける。


「どうも気になる。すこし様子を探ってきてくれるか?」

「お安い御用ですが、そのあいだの御身の安全が……」

「心配には及ばん」


 そもそも二人は正式な招待客ではないのだ。

 今は闘技場の誰もが試合に注目しているため目立たずに済んでいるが、テーブルにもつかず立ち見をしていてば嫌でも目立つ。

 皇帝金貨で買収した兵士はすでに持ち場に戻っている。もしだれかに怪しまれれば、その場で捕縛される危険すらある。


 そんな御者の危惧を知ってか知らずか、青年はつかつかと手近な卓に歩み寄り、


「失礼する」


 だん、とわざと大げさな音を立てて卓の上に片手をついた。


「なんだ――貴様は?」


 卓についていたのは、どちらも派手に着飾った西方人の男女だ。

 州の上級官吏と思われる禿頭の中年男と、その愛人――妻にしては若すぎる女であった。

 試合に熱中していたところに水を差されたのだから、かれらが不躾な闖入者に憤激したのも当然だ。


「すまぬが、席を譲ってくれるか」

「譲れだと?」


 青年の鷹揚な口ぶりが中年男の疳の虫を起こしたらしい。


「どこの誰か知らんが、私が先帝の縁戚と知ってもそんな口を利けるか。さっさと消え失せろ、野良犬め。そうすれば今の無礼は忘れてやるぞ!」


 中年男は女の前で面子を潰されてなるものかと意気込んでいるのか、家門をひけらかして凄んでみせる。

 『東』において、皇帝の血縁を名乗る者は多い。皇帝家との繋がりは西方人の共同体コミュニティにおいて何よりの箔付けとなるからだ。中年男の言葉が事実かどうかはさておき、辺境になるほどそういった傾向が強くなるのは事実であった。


 青年は物憂げに腕を組み、右手を顎にそえて思案顔をつくる。

 もっとも、実際には何も憂いてなどいないのだが――。


「どうしても譲るつもりはないか」

「若造、私の話を聞いていなかったのか? あまりしつこいと警備の兵を呼ぶぞ!」

「ふむ……」


 青年は中年男の耳に顔を近づけると、ぼそぼそと何事かを耳打ちした。

 満顔朱を注いだようだった中年男の顔が見る間に青ざめていく。

 青年が顔を離したときには、中年男の顔色が蒼を通り越し、ほとんど紙みたいな色になっていた。


「――余の頼み、これでも聞けぬか?」


 はたして何を耳打ちされたのか。

 先ほどまでとは打って変わって、中年男はすっかり恐懼しきった様子で青年にひれ伏している。愛人は中年男の変わりように理解が追いつかないのか、おろおろと辺りを見回すばかり。


「あ、あなたは……いいえ、は……」

「それで、どうだ。譲ってくれるのか」

「是非もございません……!」

「それは助かる。なにしろ急な招待だったのでな。席がなくて困っていたところだ。――もう行ってよいぞ」


 愛人の手を引いて脱兎のごとく逃げ出した中年男にはもはや目もくれず、青年はどっかりと椅子に腰を下ろす。

 そして、まるで最初から自分のために用意された卓だとでも言うように足を組んでくつろぎ、卓上で手付かずになっていた酒盃に果実酒をなみなみと注ぎはじめた。


 傲慢と言えば、それはあまりに傲慢な振る舞いであった。


 ただ脅すだけではこうはいかない。外で兵士に見咎められたときは皇帝金貨を使ったが、今回は正真正銘言葉しか用いていない。

 それでも有無を言わさず要求を飲ませたのは、青年が漂わす言外の迫力のなせる業だった。


「なんだ――まだそこにいたのか、ラフィカ」


 一連の光景を呆れたように見つめる御者――ラフィカの視線に気づいたか、青年はくいと顎を動かしてみせる。


「急げよ。さっさと行かないと決着がついてしまうぞ」

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