第12話 野望の淵源

 二人の騎士の攻防はなおも続いていた。


 試合開始からすでに十分あまりが経過し、戦いはいよいよ佳境を迎えつつある。

 眼下で展開される黒と紅の騎士の死闘を眺めつつ、パトリキウスは満足げに目を細めた。

 パトリキウスとその部下たちは、ふたたび観客席最上層の特別室に戻っている。

 傍らにはカミラと、武装した兵士たちが控えている。かれらの関心は騎士たちの凄絶な戦いではなく、もっぱら気まぐれな主人の欲求を充足させることにのみ向けられていた。


「凄まじいものですわ、騎士の戦いというものは……」


 パトリキウスの顔にちらと視線を送りつつ、カミラが呟いた。

 その声音には驚嘆と、それにもまして侮蔑の色がはっきりと表れていた。

 パトリキウスは、ほとんど胴に埋まったみたいな首は正面に向けたまま、見た目に似合わぬほど甲高い笑い声を上げた。

 部下が何事かを口にしても、いちいち顔を向けて答えてやるような真似はしない男であった。


「ここで壊れるようなことがなければよいのですが」


 本心であるはずもないカミラの言葉に、パトリキウスはぴたと笑いを止める。


「そのようなことを許すと思うか?」


 低く濁った、どこまでも冷たい声であった。


「せっかく手に入れた貴重な駒だ。ここで壊してしまうほど儂は愚かではないぞ」

「は……閣下に対して出過ぎたことを申しました。お許しを」


 すっかり恐縮した様子で頭を下げるカミラに一瞥もくれぬまま、パトリキウスは饒舌に言葉を紡ぎ始める。


「見るがいい。すでに二体の騎士が我が手にある。それも、一体はあのオルフェウスよ。もはや恐れるものは何もない……たとえ皇帝であろうとな」


 皇帝への反逆――。

 それはこの国における最も重大な罪だった。

 謀反を企てた張本人が処刑されるだけでなく、三族ことごとくにまで累が及ぶ。文字通りの族滅であった。

 その程度は年端もいかない子供ですら知っている常識だ。


 にもかかわらず、この場の誰一人としてパトリキウスの言葉に驚く素振りも見せない。片腕であるカミラは言うに及ばず、身辺を警護する兵士までもが叛意を承知したうえで従っている。

 この場にいる者は誰もがパトリキウスの同志であり、共犯者だった。

 水面下で進められてきた謀反の計画は、いよいよ現実のものになろうとしている。


 パトリキウスの謀反の意思は、昨日や今日に芽生えたものではない。

 代々官吏を輩出してきた一族に生まれた男である。官途に就いてからも順調に栄達を遂げ、人が羨む順風満帆の人生を歩んできた。

 だが……そんな栄光も、かれの目にはいつの頃からか色褪せて見えはじめた。


 理由は明白だった。

 『東』は、皇帝を頂点とする中央集権国家だ。

 その国家運営の根幹には、高度に組織された官僚制がある。

 広大な国土の隅々まで浸透した強力な支配も、皇帝の手足となって働く膨大な数の官吏がいてはじめて成り立つ。

 官吏の身分は原則的に一代限りであり、どれほど出世を遂げようとも子孫がその地位を世襲することはできない。難関の考試をくぐり抜け、そのうえで熾烈な出世競争に勝ち抜く必要がある。富貴な家ほど有利とはいえ、名門の子弟だろうと乗り越えるべき壁の高さはおなじだった。

 それが出来なかったために没落し、ついには家財のことごとくを失った一族は数知れない。

 同じく古帝国から分岐しながら、中央集権が早々に破綻し、いまや各地に割拠する有力諸侯が独自の封建的支配を築き上げている『西』とは対照的だった。


 つまるところ、パトリキウスもそのようにして成り上がった官吏の一人であることに変わりはない。

 一州を統括する強大な権力も、職務を遂行するために皇帝から一時的に貸与されたかりそめの権威にすぎない。

 職務のためにどれほど骨身を削ったところで、この国では富も権力も完全に私有することはできないのだ。

 州牧に任じられて東方辺境に赴いたとき、パトリキウスの心にはすでに国家と皇帝への憎悪が抜き難く巣食っていた。

 並外れた独占欲と執着心をもつこの男にとって、ひとたび手にしたものを他人に返却するなど到底容認できることではなかった。たとえその相手が皇帝であろうとも――。


(皇帝がすべてを支配するかぎり、我が身の栄華など所詮一時のまぼろしよ――)


 以来、パトリキウスは中央に絶えずまいないをして着実に官界での地歩を固め、帝都から遠く離れた辺境の地で人知れず力を蓄えてきた。すべては野心を隠し、ひそかに牙を研ぐためであった。

 この闘技場にしても、密かに気脈を通じた人士をもてなす社交場であるというだけでなく、決起の際には要塞として機能するように設計されている。そもそも、戎狄バルバロイの猛威に晒された北方辺境ならばいざしらず、平和な東方辺境で秘密裏に要塞を築くという行為それ自体が、皇帝へのあからさまな挑戦にほかならない。


 不安定な借り物の権威などではなく、誰にも奪われることのない自分だけの王国をこの地に築き上げる――。

 それこそが、パトリキウスの積年の悲願であった。

 戎装騎士という強大無比な戦力を掌握し、密かな野望はいよいよ実現に向けて動き出そうとしている。


「それにしても、オルフェウスの力は凄まじいものだ。あれなら他の騎士など問題にはなるまい」


 中央の意向により、騎士たちは各地に散在させられている。たとえ数の上では不利でも、各個撃破に追い込めば何の問題もない。

 言ってみれば、中央政府は騎士の反逆を危惧するあまり、みすみす墓穴を掘った形になる。


「あの小童……アレクシオスだったか。あれもオルフェウスには遠く及ばぬにせよ、いずれ何かの役には立つだろう」

「はい。人間相手なら十二分の働きをしてくれましょう」


 カミラは空になった酒盃に赤紫色の液体を注ぎながら応じる。


「人質がいる限り、あの小童は我らには逆らえん。一人の男にあそこまで入れ込むとは、化け物にしてはおかしな奴ではあるがな……」


 パトリキウスは、もう何度満たされたか知れない盃を一息に飲み干すと、酒精をたっぷりと含んだ臭い息を吐いてみせる。


「カミラよ、ヴィサリオンから目を離すでないぞ。もし脱走でもされれば厄介なことになるからのう」

「むろん心得てございます、閣下」

「もっとも、たとえ脱走したところでこの闘技場からは出られはせぬだろうがな。もし小童と謀って反逆を企てるようなら、その時は死んでもらうまでのことよ」


 主人が哄笑するのに合わせて、カミラも追従の笑みを浮かべてみせる。

 だが――二人のどちらも気づいていなかった。


 まさにその時、床下で人知れず聞き耳を立てていた者がいたことを。


 赤銅色の髪の従者――ラフィカ。

 これ以上の長居は危険と感じたか、あるいは有益な情報は十分掴んだと判断したのか。ラフィカはあくまで隠形を保ったままその場を離れる。

 そして、華奢な身体の利点を最大限に活かし、音もなく来た道を戻っていく。

 今も観客席で戦いを見物している主人の下に戻るつもりはなかった。

 従者はみずからの判断で行動を開始したのだった。

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