第220話 宵祭、ふたり
色とりどりの光点が夕闇をやわらげていた。
帝都イストザントの目抜き通りである。
道路に面した店舗や民家の軒先には、この日のためにあつらえられた特別な提灯が吊り下げられている。
さまざまな色に染め抜かれた紙や布に覆われた提灯は、内側に抱かれた蝋燭の火を透かして、やわらかな色光をあたりに放つ。
目も綾な無数の提灯は、毎年七月に行われる祝祭――アエスタス大祭の象徴であり、帝都の夏の風物詩でもある。
七月は
当初は港湾都市パラエスティウムで始まった祭りは、イストザントに遷都してからは街を上げての一大
祭りの期間は三日間。
そのあいだ、街路には所狭しと屋台が並び、酒場や食堂はかきいれ時を逃すまいと昼夜の別なく営業を続ける。
『帝国』全土から詰めかけたおびただしい観光客によって、ただでさえ人口稠密な帝都は、いまや立錐の余地もないありさまだった。
昨年はイグナティウス帝の崩御という凶事に見舞われたため急遽中止となったが、二年のあいだ待たされたこともあって、今年のアエスタス大祭はまさしく空前の活況を呈している。
とくに最終日にあたる今日の夜には、祭りの目玉である花火の打ち上げが予定されている。
専用の大砲を用いて発射される花火は、この時代における最大の娯楽のひとつでもある。
ふだんは祭りの賑やかさを敬遠する人間も、夜空を彩る大輪の花をひと目見ようと、この日ばかりは街へ繰り出しているのだった。
雑踏と喧騒のなか、帝都の夜は穏やかに更けてゆく。
***
いま、通行人でごった返す大城門の門前通りを、一組の男女が進んでいく。
ひとりは黒髪黒瞳の東方人の少年。
もうひとりは、人混みのなかにあってひときわ輝く美貌を持った西方人の少女であった。
少年と少女は、押し寄せる人の波をかき分けるように進んでいく。
一見すると不釣り合いな二人が、それでもたしかな信頼で結ばれていることは、固く繋ぎあった手と手をみればあきらかだった。
「オルフェウス、おれの手を放すなよ。……こんなところではぐれたら見つけ出すのもひと苦労だ」
あくまでそっけないアレクシオスの言葉に、オルフェウスはこくりと頷く。
二人が市街地に出ているのは、むろん祭りを楽しむためではない。
元老院に届いた脅迫状――ゼーロータイの後継者を名乗る犯人の目論見を未然に阻止すべく、騎士たちは大祭のあいだじゅう市内を巡回しているのである。
不測の事態に備え、この種の任務においては二人一組で行動するのが原則とされている。
二人ならば、もう一方が事態に対処しているあいだに、残る一方が増援を要請することも出来る。それゆえ、中央軍や辺境軍では、兵士が行動する際の最小単位とされているのだ。
問題は、どのようにして組み合わせを決定するかだった。
もともと二人一組で真価を発揮するラケルとレヴィはそのまま、残る騎士たちの組み合わせは、公正を期すためにくじ引きによって決められた。
その結果、アレクシオスは初日はレオン、二日目はエウフロシュネーと組んで任務に当たったのだった。
両日ともに何事もなく過ぎ去り、ついに訪れた祭りの最終日。
アレクシオスと組むことになったのは、他でもないオルフェウスであった。
とうとう一度も自分が選ばれなかったことに不満と怒りを爆発させたイセリアから逃げるように、二人は足早に
「……それにしても、ここまで混んでいるとは思わなかったな」
アレクシオスは軽く舌打ちをすると、ひとりごちるみたいに呟いた。
門前の道路は文字通り黒山の人だかりである。
都会に不慣れな観光客が多いのか、人々の歩みはひどく遅い。
身体を割り込ませるようにして無理やり前進していたアレクシオスだが、それも最初のうちだけだ。
気づいたときには、前方だけでなく、左右と後方も分厚い人の壁に阻まれていた。
こうなっては、もはや進むも退くもままならない。
アレクシオスとオルフェウスは、手を繋いだままその場から一歩も動けなくなったのだった。
「大丈夫? アレクシオス――」
「すこし困ったことになった。どうにか脇道に抜けなければ……」
「あそこ、見て」
例によって抑揚に乏しい声で言って、オルフェウスは右前方を指差す。
通り沿いに軒を連ねる商店と商店のあいだのわずかな間隙。
うっかりすると見逃してしまいそうな細い暗がりは、どうやらその先へと続いているらしい。
人一人がやっと通り抜けられる程度の狭隘な裏路地だが、この殺人的な混雑から逃れるためには、そこを通るほかに道はないようであった。
「……いまは選り好みをしている場合じゃない、か」
アレクシオスはほんの一瞬逡巡したあと、覚悟を決めたように言った。
裏路地に入っていくのをためらったのは、むろん理由がある。
大抵の場合、帝都市中のそういった空間は街灯もないうえにひどく不潔で、まともな神経の持ち主なら一秒でも留まっていたくない場所と相場が決まっている。
それでも、アレクシオスひとりであれば迷いなく飛び込んでいたところだが、いまはオルフェウスを連れているのである。
自分ひとりならともかく、彼女には不快な思いをさせたくない――。
そんな心のうちを口にすることも出来ないまま、アレクシオスは表情を見られまいと顔をそらす。
「あまり居心地のいい場所じゃないが、すこし我慢出来るか?」
「私は平気だよ。気にしないで」
こともなげに言って、オルフェウスは先に歩き出していた。
アレクシオスも遅れまいと、慌ててその後を追いかける。
ふいに人の波が動いたのはそのときだった。
二人はもつれあうように大通りを流されながら、それでもどうにか裏路地へと辿り着いた。――というよりは、群衆に無理やり押し込まれたと言うべきだろう。
さらに悪いことに、そのまま通り抜けられると思われた路地は、うず高く積み上げられた木箱によってすぐに行き止まりになっていた。
「……すまん」
アレクシオスはそれだけ言うと、とても耐えられないとでもいうように瞼を閉じていた。
どちらも壁を背にして向かい合った二人の身体は、一分の隙もなく密着している。
とっさに飛び退こうにも、三方を障害物に囲まれた状況ではどうすることも出来ない。
(とんでもないことになった……)
こうして並ぶと、オルフェウスのほうがすこし身長が高い。
アレクシオスは首筋から頬のあたりに顔を埋める格好になった。
衣服越しに少女の規則正しい息遣いと、たしかな温もりが伝わってくる。
鼻先に触れた亜麻色の髪がくすぐったい。
頭の芯が融けるような甘い匂い。
陶然と目を閉じかけて、アレクシオスははたと我に返ったように頭を振った。
「これは……その……不可抗力なんだ。わざとやった訳じゃない。すぐに離れて――」
「……このままでいいよ」
「え?」
「いま出ていくと離れ離れになっちゃうかもしれないから。もうすこしこのままでいたほうがいいとおもう」
それだけ言って、オルフェウスはまっすぐにアレクシオスを見つめる。
どこまでも澄みきった真紅の瞳。
大粒の
見慣れたはずの少女のすべてが、新鮮な感慨とともにアレクシオスの胸に迫る。
「アレクシオスは、私とこうしているのは嫌?」
「……嫌なはずがないだろう」
「よかった」
オルフェウスの玲瓏な、そして相変わらず感情の篭もらない声。
それでも――否、だからこそ。
アレクシオスは、言葉の奥底に込められた確かな心の機微を感じ取っていた。
「このあいだ、イセリアに貸してもらった本に書いてあったよ」
「……」
「人間は、好きな人に触れると幸せなんだって」
「オルフェウス、おまえ……」
「私は幸せがなんなのかよく分からない。だけど、アレクシオスとこうしていると、胸の奥が温かくなる気がする」
耳元で囁かれて、アレクシオスは雷に打たれたように全身を硬直させる。
どれほどの時間が流れただろう。やがて、アレクシオスは意を決したように口を開いた。
「おれもおまえに言っておかなければならないことがある」
「アレクシオス?」
「本当は初めて出会ったときから気づいていた。それでも、いままでずっと自分の気持ちから逃げ続けていたんだ。それも今日で終わりにする」
アレクシオスはオルフェウスと真正面から見据えると、深く息を吸い込んだ。
「オルフェウス。おれは、おまえのことが――――」
耳を聾する爆発音が一帯を領したのは、まさにその瞬間だった。
アレクシオスはとっさにオルフェウスを抱き寄せると、そのまま上方へと跳躍する。
やがて屋根の上に降り立った二人の目に飛び込んできたのは、夜空に冲するひとすじの黒煙だった。
爆発が起こったのは隣の街区らしい。騎士の脚力なら、一分とかからずに到達出来る距離である。
アレクシオスはオルフェウスに目配せをすると、猛然と屋根伝いに疾駆を開始していた。
近づくにつれて、何かが焼けたような悪臭と、悲鳴と怒号が綯い交ぜになった叫び声が流れてくる。
はたして、黒煙を吐き出しているのは、ほとんど倒壊しかかった一軒家だった。
高さをものともせずに屋根から飛び降りたアレクシオスは、騒ぎを聞きつけて集まってきた野次馬の一人に声をかける。
「なにがあった!? 詳しい状況を教えろ!!」
野次馬の男は、少年がだしぬけに発した不躾な質問にすっかり面食らったようだった。
それでも、アレクシオスのあまりの剣幕に恐れをなしたのか、戸惑いながらも語り始める。
「お、俺にも分からねえ……花火見物に行こうと思って外に出たら、いきなりあの家が吹っ飛んだんだ」
「怪我人は!? 中に取り残されている人間はいるのか!?」
「さあ……たぶんどっちもいないと思うが……」
「どういうことだ?」
訝しげに問うたアレクシオスに、男は首を横に振る。
「どうもこうも、あそこはもう何年も人が住んでない空き家だったからな。火の気なんてないはずなのに、おかしなことも――――」
男の言葉はそれ以上聞き取れなかった。
隣り合う街区で二度目の――そして、三度目の爆発が立て続けに生じたためだ。
やがて轟音が熄み、野次馬の男がこわごわ目を開いたときには、少年と少女の姿はどこにも見当たらなかった。
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