第192話 琥珀の狂姫
扉を開け放つと同時に、まばゆいほどの光が視界を満たしていった。
イセリアとオルフェウス、エウフロシュネー、ラケルとレヴィの五人は、示し合わせたみたいに足を止める。
天窓にはめ込まれた色とりどりのステンドグラスに、贅を凝らした調度品、優雅な曲線を描くアーチ状の梁……。
室内を見回すまでもなく、そこが貴賓をもてなすための
どうやら無事に
開かれたままの分厚い扉は、壁面と同じように塗り分けられ、一見しただけでは出入り口とは分からないように巧妙に偽装されている。
一行はイセリアを先頭に注意深く進んでいく。
あたりに人の気配は感じられないが、ここが敵地であることには違いないのだ。
まして、敵は複数の
どこから攻撃が仕掛けられるか分からない以上、用心するに越したことはない。
イセリアはちらと四人に目を向けると、
「あんたたち、気をつけなさいよ。うっかり物音立てて敵に見つかりでもしたら、承知しないんだから――」
指揮官代行らしく、いかにもしかつめらしい口調で言ったのだった。
レヴィとラケルは瓜二つの顔を見合わせると、やはり同時に首をかしげる。
「それは私たちに向かって言っているのか?」
「察してやれ、ラケル。このなかで一番ドジを踏みそうなのが誰かくらい、当然自覚しているだろう」
「自戒なら結構なことだ」
歯に衣着せぬ二人のやり取りを聞きながら、イセリアの眉がぴくぴくと小刻みに動く。
とっさに三人のあいだに割って入ったのはエウフロシュネーだ。
「お姉ちゃん、落ち着いて!! いまは喧嘩してる場合じゃないよ」
「言われなくても分かってるわよ。いまは我慢してあげる。その代わり、双子は帰ったら覚悟しときなさい」
苛立ちを噛み殺すように言って、イセリアは前進を再開する。
五人が奇妙な違和感に見舞われたのは、それからまもなくだった。
身体がやけに重い。
それも、ただ重く感じられるだけではない。
足裏が床に張り付いているような、いままで経験したことのない感覚。
「ねえ、なんか変な感じじゃない……?」
イセリアの問いに、四人はこくりと頷く。
足元を確かめてみても、大広間を埋め尽くしているのは何の変哲もない木の床板である。
貴人が利用するための空間とあって床面は鏡のように磨き上げられてはいるが、それ以外に変わった点は見受けられない。
そうするあいだにも、身体はますます重く、両足は床に縫いつけられたように動かしにくくなっている。
気のせいなどではない。
オルフェウスは真紅の瞳をイセリアに向ける。
「イセリア――」
「分かってる。どうやら待ち伏せされてたみたいね」
イセリアはおおきく息を吸い込むと、
「そこにいるんでしょ? 出てきなさい!! 言っとくけど、隠れてても無駄よ!!」
いまだ姿を見せない敵にむかって、能うかぎりの大音声で叫んだのだった。
わざとらしく両耳を手で抑えながら、レヴィはふっとため息をつく。
「私たちに騒ぐなと言ったのは誰だったかな」
「うっさいわね。もう敵に見つかってるならコソコソしてても仕方ないでしょ」
「やれやれ――」
大広間の片隅で気配が生じたのはそのときだった。
五人の視線が一点に集中する。
ほんの一瞬前までただの壁としか見えなかった場所に佇むのは、燃えるような赤髪の少女であった。
「あー、うっさいなあ。そんなバカでっかい声で叫ばなくても聞こえてるっつーの」
心底からうんざりしたように言って、少女――テルクシオペーは、ゆっくりと五人にむかって歩を進める。
どういうわけか、右の袖はぶらぶらと揺れている。
「久しぶり、おばさん。元気してたぁ?」
「あんたのほうこそ元気そうで何よりだわ。戦う前から弱ってたらボコボコにし甲斐がないものね」
「へえ? あたしをボコボコに? あっははは!!」
破顔したテルクシオペーは、五人の顔を一瞥する。
するどい乱杭歯を見せつけるような、それは凶猛な笑みであった。
「はーあ、超笑える。そんなの、あんたら五人がかりでも無理だっての」
「ずいぶんデカいクチ叩いてくれるわね。いまさら泣いて謝っても許してあげないわよ」
「それじゃ、そこから動いてみなよ。……動けるものならね」
イセリアたちが身体を動かそうにも、身体はさらに重く、四肢はおろか指一本さえ思うに任せない。
かろうじて姿勢を保ってはいるが、気を抜けば頭から床に突っ伏してしまいそうになる。
「ちょっと、これ、どうなってんのよ……!?」
「まだ分かんない? この部屋に入ってきたときからあんたたちは罠にかかってんの。どんなに踏ん張っても無駄、無駄」
嘲るように言って、テルクシオペーは戎装を開始する。
肉体の
五人の前に佇むのは、澄みきった
午後の陽光を浴びてきらめく身体は、しかし、十全とは言いがたい。
右の手首が失われているのだ。
「ふうん――その右手、あのレオンとかいう騎士に斬り落とされたんでしょう。可哀想だけど、片手がないからって手加減はしないわよ」
「へえ、あんな話、ホントに信じてたんだ? 帝都の騎士ってマジでちょろいよねぇ」
「何ですって?」
天窓を突き破って何かが飛来したのは次の瞬間だ。
視界の片隅にそれを認めて、イセリアはおもわず瞠目していた。
放物線を描いて落ちたそれは、琥珀色の装甲に覆われた右手首であった。
どのように推進力を得ているのか、独立した生物みたいに指をうごめかせる手首は、床の上を滑空して主人の元へ帰還する。
テルクシオペーは手首を拾い上げると、断面同士を接合させる。
「ん、いい感じ……」
装甲の表面に浮かんでいた接合線が消えるが早いか、テルクシオペーは五指を力強く握り込んでいた。
切断されていた神経がふたたび接続されたのか。
あるいは、ずっと繋がっていたのか。
テルクシオペーはひらひらと手首を回しながら、身動きの取れない五人の騎士を見やる。
「あんたらもさっさと戎装したらぁ? 動けなくても、そのくらいは出来るでしょ?」
「余裕ぶってるみたいだけど、吠え面かいても知らないわよ」
「だからさぁ、そんな情けない姿で言っても説得力ないよ。おばさん?」
イセリアは答えず、低い声でぽつりと呟く。
「あんたたち、やるわよ。このクソガキにやられっぱなしなんて冗談じゃない」
四人は無言のまま、イセリアの呼びかけに力強く首肯する。
「戎装――」
五人の声が重なったのと、大広間に五色の閃光が迸ったのは、ほとんど同時だった。
黄褐色。
真紅。
蒼。
赤と緑。
五人の少女たちは、それぞれ異なる
肉体が鋼に変わったところで、状況が好転する訳ではない。
それどころか、身体はますます重く、もはや立っていることさえままならない。
とくに非力なオルフェウスとエウフロシュネーに至っては、ほとんど膝を折りそうになっている。
「あっはっはぁ、本当に戎装した!! もっとつらくなるだけなのに、バカねぇ!!」
苦しげにもがく五騎を指さして、テルクシオペーは狂ったように哄笑する。
いつ終わるとも知れない笑声はふいに熄んだ。
凍りついたと言うべきだろう。
無意識のうちに後じさったテルクシオペーを、世にも恐ろしげな破壊音が追いかけていく。
「あんまりあたしたちを舐めてんじゃないわよ……」
イセリアは床に右手を突き入れると、そのまま力任せに持ち上げる。
建物の基礎ごと一帯の床材を剥ぎ取ろうというのだ。
ただでさえ身体じゅうに重石をつけられているような状態であるにもかかわらず、黄褐色の騎士は渾身の力を振りしぼり、みごと力業を成し遂げたのだった。
「う、うそ……⁉ ありえない……あんた、バカじゃないの……⁉」
慄然と立ち尽くすテルクシオペーにむかって投げつけられたのは、五メートル四方の床面だ。
床だったものは轟音とともに砕け散り、一帯には木片と石材と土砂とが渾然となった濃密な煙が立ち込める。
それと同時に、騎士たちの身体を囚えていた違和感も消失していた。
イセリアはすかさずオルフェウスの肩を掴むと、語気強く言い放つ。
「いまのうちよ!! あんたはエウフロシュネーと一緒に先に進みなさい!!」
「でも、イセリアたちは……」
「あたしたちのことはいいから、早く皇帝陛下のところに行きなさい!! あいつがあのくらいで死ぬとは思えないわ。この先にも戎装騎士はいるはずよ。癪だけど、あたしたちのなかではあんたが一番強いんだから、こんなところで前座相手に体力ムダ使いしてる場合じゃないでしょ」
「……分かった。イセリアも気をつけて」
「誰に向かって言ってんのよ。あんたのほうこそ、バテて倒れないようによく考えて戦いなさい。いつかみたいに助けてあげられないんだから――」
イセリアはそこで言葉を切った。
土煙の向こうに凄まじい殺気を感じ取ったためだ。
その予感を裏付けるように、青い閃光が明滅を繰り返した。
「やってくれるじゃん……なんて馬鹿力」
テルクシオペーは装甲に付着した土埃を払いながら、イセリアの前に進み出る。
「ホント、ムカつく。遊んでやろうと思ったけど、気が変わったわ」
「ふうん、それは残念ね。あたしたちはここに残ってあげるから、たっぷり遊んでくれても構わないんだけど?」
「ちっ――」
からかうように言ったイセリアに、テルクシオペーは舌打ちで応じる。
オルフェウスとエウフロシュネーは土煙に紛れ、早くも大広間を出ようとしている。
いまから追撃しようにも、二騎の俊足に追いつけるはずもない。
イセリアの両隣では、ラケルとレヴィが早くも戦闘態勢に入っている。
「あんたの相手はあたしたちよ。三対一だけど、卑怯とは言わせないわ」
「不意打ちを食らわせたからってあんまり調子に乗るなよ。三人揃ってオルフェウスひとりにも及ばない雑魚のくせに……」
「その雑魚にボッコボコにされる覚悟は出来てんでしょうね」
テルクシオペーの両手が上がった。
ふたたび違和感が三騎を襲う。両足が床に吸い付けられる。
刹那、イセリアはラケルとレヴィを掴み取ると、そのまま十メートルあまり後方に飛びずさっていた。
危なげなく着地したイセリアは、テルクシオペーに人差し指を突きつける。
「ふん、やっぱり思ったとおりね。あんたの
「だからなに? この距離じゃ何も出来ないのは、そっちも同じ……」
「あいにくだけど、こっちにはとっておきの飛び道具があんのよ」
言って、イセリアはレヴィに目配せをする。
レヴィの右腕の肘から先は、すでに長大な
任意の空間に量子の
照準を終えた緑色の騎士は、テルクシオペーめがけて躊躇なく発砲する。
いかなる
見えざる軌道に沿って、凄まじい爆発と火炎が大広間を包んだ。
先ほどまでテルクシオペーが立っていた場所には、対消滅反応によってもたらされた破壊の爪痕がありありと刻み込まれている。
「ちょっと可哀想だけど、自業自得よ。この分じゃ骨も残らなかったかしらね」
言い終わらぬうちに、イセリアは息を呑んでいた。
それは傍らで様子を窺っていたラケルとレヴィも同様だ。
「これで勝ったつもりとか、ウケる――」
揺らめく炎を透かして立つのは、傷ひとつない琥珀色の装甲であった。
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