第132話 誰がための騎士(前編)
朝の光が山肌をまばゆく染めていた。
朝露に濡れた木々の新緑はいっそうみずみずしく輝き、樹上ではさまざまな種類の山鳥が競うようにさえずっている。
下草が生い茂る道を進むたび、やわらかで生命力に満ちた感触が靴底を押し上げる。
溢れんばかりの光と生命の
つい今しがたまで拘束されていた暗闇の岩窟とは、なにもかもが真逆の世界だった。
アレクシオスは少なからぬ戸惑いを覚えながら、ヘラクレイオスの背中を追っている。
人間であれば極端な明暗差から
――なぜおれを解放した?
喉まで出かかったその言葉を、アレクシオスはぐっと飲み込む。
岩窟を出てからここまで、ヘラクレイオスに声をかける機会は何度もあった。
それどころか、隙を見て逃げ出すことさえ不可能ではなかったはずだ。
アレクシオスにはそのどちらも出来なかった。
ヘラクレイオスはアレクシオスの存在などまるで関知しないとでも言うように前進を続けている。山塊みたいな分厚い身体に、アレクシオスは我知らずに引き寄せられていくようだった。
しばらく歩いたところで、ふいに視界が開けた。
わずかに先を進んでいたヘラクレイオスが足を止めたのに気づいて、アレクシオスもその場に立ち止まる。
「ここは……」
アレクシオスは誰に問うでもなく、ぽつりと呟いた。
目の前に広がっているのは、崖下にひっそりと築かれたちいさな集落だ。
どの建物も外壁は蔦に覆われ、一見すると太古の廃墟みたいにみえる。アレクシオスも最初は打ち捨てられた廃村と思ったほどだ。
それでも、集落のそこかしこを行き交う人々の姿は、この地にいまなお人の営みが維持されていることを示している。
小川へと続く小道には洗濯籠を手にした婦人が列をなし、子供たちは路地を駆け回り、広場らしき一角では年頃の娘たちが集まっておしゃべりに興じている。
何の変哲もない、辺境ならばどこにでもあるような
それでも、じっと眺めているうちに、すこしずつ違和感は募っていく。
まず第一に、どの家からも炊煙が昇っていない。個人宅での火気の使用が制限されている帝都ならいざしらず、ここは人里離れた山村である。この時間であれば、家々では朝食の準備のために竈に火を入れているはずであった。
そしてもうひとつは、男の姿がどこにも見えないことだ。
路地で遊ぶ十歳にも満たない男児を除けば、青年や働き盛りの男は一人も見当たらない。働きに出るにはまだ早いということを差し引いても、影も形もないのはなんとも奇妙だった。
アレクシオスがはたと我に返ったとき、ヘラクレイオスの広い背中はずっと先を進んでいた。
燦々と降り注ぐ陽光は集落へと伸びる山道を白く輝かせ、荒れた路面に
追いかけるべきか、それともこのまま逃げ出すべきか――。
アレクシオスは立ち尽くしたまま逡巡する。
いまや五体を
もし逃げたとしても、ヘラクレイオスがわざわざ引き返して追ってくるとは到底思えなかった。
しかし、それは、はたして本当に喜べることなのか。
自分にはあの男を動かすほどの価値はない――もし無事に逃げおおせることが出来たなら、これまで何度も胸裡をよぎった不安は現実のものになる。
むろん、アレクシオスが判断を下しかねている理由はそれだけではない。
最強の騎士の傍らに安穏と留まることができるこの
それを理解しているからこそ、自分の手で稀有な時間に終止符を打つことに躊躇いを覚えているのだった。
いまを逃せば、ヘラクレイオスの真意を確かめる機会は永遠に失われるだろう。
この先にあるものを見極めれば、謎に包まれたナギド・ミシュメレトとゼーロータイの実態を掴めるかもしれないというかすかな
ためらいを断ち切るように唇を強く噛むと、アレクシオスは駆け出していた。
***
建物は集落の外れにぽつねんと建っていた。
さほど大きくはないが、半球状の屋根が遠くからも目を引く。
ヘラクレイオスは集落には入らず、民家が密集した一帯をぐるりと迂回して、直接この建物へとやってきたのだった。
そのまま建物の内部へと入っていくように思われた巨漢は、朽ちかけた門の前でふいに足を止めた。
そのすぐ後ろを付かず離れず進んでいたアレクシオスは、面食らった様子で立ち止まる。
「……行け」
アレクシオスには一瞥もくれないまま、低く重い声でヘラクレイオスは言った。
「この先に何がある?」
アレクシオスは声が震えていないことに安堵しつつ、あくまで毅然とヘラクレイオスの背に問いかける。
数秒の沈黙のあと、ヘラクレイオスは悠然と踵を返した。
むろん、返答のために向き直ったのではない。立ち去ろうとした方向にアレクシオスがいたというだけのことだ。
それが分かっているからこそ、通り過ぎざま、
「貴様の目で確かめろ」
ヘラクレイオスがぼそりと口にした言葉は、アレクシオスを大いに驚かせたのだった。
岩窟から解き放ち、ここまで導いてきたのは、この建物の中にあるものを見せたかったからだとでも言うのか。
またしても遠ざかっていく背中を、アレクシオスはもう追わなかった。
ヘラクレイオスに何を問いかけたところで、望む答えが返ってくるとは思えない。
自分の目で確かめろ――探し求めている答えは、ヘラクレイオスの言葉の中に秘められているはずであった。
アレクシオスは意を決したように建物に近づいていく。
玄関と思しき場所はすぐに見つかった。飾り気のない木の扉には、どうやら鍵はかかっていないようだ。軽く押してみると、やはりと言うべきか、扉はあっけなく開いた。
慎重に周囲を警戒しながら、そろりと半身を建物内に入れたところで、アレクシオスは釘付けにされたみたいに動けなくなった。
予期せず大勢の人間の視線を浴びたためだ。
それも、ただの人間ではない。アレクシオスに視線を向けているのは、すべて幼い子供であった。
建物の内部には三十人ほどの子供が居並んでいる。男女の比率は半々と言ったところ。下は二・三歳、上はせいぜい十歳くらいまでの子供たちであった。
しばらく珍しいものでも見るように
「もしかして、騎士さまですか?」
「そう――だ、が……」
躊躇いがちにそう答えると、アレクシオスを見上げていた少女の顔がぱあっと明るくなった。
「やっぱり!!」
その声が合図だったみたいに、遠巻きに眺めていた子供たちも一人また一人と近づいてくる。アレクシオスはまたたくまに取り囲まれる格好になった。
「ああ、よかった。また新しい騎士さまが来てくれたんですね!」
「ちょっと待て、いったい何を言って……」
「騎士さま、私たちのために悪い『帝国』と戦ってくれるんでしょう?」
あくまで無邪気に言いのけた少女に、アレクシオスはおもわず言葉を失った。
しかし、ここにいる子供たちは、騎士を『帝国』の敵だと思い込んでいる。
アレクシオスが頭を金槌で殴られたような衝撃を覚えたのも当然だった。
「ナギドさまが仰ってました。騎士さまは天の神さまが私たちに遣わしてくれた心強い味方だって」
「違う、おれは――」
「なにが違うのですか?」
おれは、皇帝陛下の騎士だ――自信を持って言い切れるはずのその言葉は、しかし、へばりついた
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます