第113話 闇を裂く雷閃

「ヘラクレイオス――」


 アレクシオスは、ちいさくその名を反復する。

 口にするたびに喉がつかえそうになるのは、あながち錯覚でもあるまい。けっして長くはないその名前には、いわく言いがたい異物感がつきまとっている。


――最強格の騎士と、最強の騎士。


 そのふたつの概念は、似ているようで大きな隔たりがある。

 いずれ劣らぬ猛者たちのなかでも、最強の座を専有出来る者はただ一人だけだ。

 ヘラクレイオスは名実ともに最強の騎士だった。

 先の戦役で倒した戎狄バルバロイの数はゆうに五百体を超える。

 最強の一角に数えられるオルフェウスやラグナイオスでも、倒した戎狄は三百体前後に留まることを考えれば、まさしく破格の戦績であった。

 戦役の最初期から終結まで、つねに最前線に身を置き、ひたぶるに戎狄バルバロイを狩り続けた灰色の戦鬼。

 真に恐るべきは、他の騎士のような華々しい能力も、強力な武器も持っていないということだ。

 ヘラクレイオスは、おのれの拳ひとつで最強の称号を掴み取ったのだった。


 北方辺境にいたころ、アレクシオスは一度だけその姿を目にしたことがある。

 白く染め上げられた世界のただなかにあって、灰白色の異形は、見上げるほどの巨躯を天にそびやかしていた。

 その魁偉な容貌以上に鮮烈に記憶に刻み込まれたのは、鬼神もかくやというすさまじい戦いぶりだ。

 アレクシオスがながく苦しい戦いの末にようやく仕留める戎狄バルバロイを、ヘラクレイオスは造作もなく葬り去ってみせた。

 その瞬間、アレクシオスの胸に澎湃と沸き起こったのは、偉大な戦士への憧憬でも、強さへの羨望でもない。


 少年の胸を埋めたのは、どこまでも純粋な恐怖だった。


 アレクシオスは戎狄バルバロイを恐れたことはない。

 無意識のうちに恐れを抱いたとしても、腹の底からこみ上げてくる怖気おぞけを噛み殺して戦場に赴くことが出来た。

 オルフェウスとの戦いでも、アレクシオスは臆することなく試合に臨んだのだ。

 抗いようのない恐怖に襲われたのは、後にも先にもあのときだけだ。

 ヘラクレイオスの姿を遠目に認めただけで、アレクシオスの脚はどうしようもないほどにすくみ、恥も外聞もなく逃げ出したい衝動に駆られたのだった。


 味方であることは分かっていた。

 ヘラクレイオスの拳が向けられている対象はあくまで戎狄であり、自分ではないことも。

 それでも、理性では抑えきれない恐怖は、アレクシオスの心をがんじがらめに縛り上げたのだった。


 あれから数年――いまもあの日のいましめめは解けていない。

 それどころか、ヘラクレイオスの名を耳にした途端、見えない呪縛はふたたびアレクシオスを苛みはじめている。

 味方であった時でさえそれほどの恐怖を覚えた相手と、今度は敵として戦うことになる。

 心の底に薄氷が張っていくような感覚は、死の予感にほかならなかった。

 あの男と戦えば、まちがいなく殺される――ラグナイオスがそうだったように。


「……アレクシオス、アレクシオスってば!」


 小声で呼びかけられて、アレクシオスははたと我に返る。

 ほんのすこし首を傾けると、心配そうな面持ちのイセリアと目が合った。


「どうしちゃったの? さっきから様子がおかしいわよ」

「いや……なんでもない……」

「本当?」


 アレクシオスは『大丈夫だ』とぶっきらぼうに答えて、ふたたび前を向く。


「それで、帝都への連絡は?」

「すでに早馬をやらせた。だが、間に合うかどうかは……」


 答えたのは司令官だ。酢を含んだような面持ちで騎士たちを見据えている。

 アレクシオスはしばらく考え込んだあと、


「エウフロシュネー、すぐに帝都に飛んでくれ。オルフェウスも連れていけるな」

「お姉ちゃんは軽いから大丈夫だけど……」

「たのむ。帝都にはタレイアとアグライアがいる。オルフェウスが加われば、帝都の守りは万全だろう」

「お兄ちゃんはどうするの?」

「おれは――」


 アレクシオスはイセリアに視線を向ける。


「おれとイセリアは、奴らが通りそうな街道に先回りする」

「ちょっと、アレクシオス、それ本気で言ってるの?」

「当たり前だ。迎え撃つ準備が整うまで、おれたちで奴らを足止めをする。勝てなくても時間稼ぎが出来れば十分だ。いいな、イセリア?」

「ま、まあ……アレクシオスがそう言うなら、あたしは構わないけど……」


 イセリアはまんざらでもなさそうに頷く。

 アレクシオスが自分を選んだのがよほどうれしいのだろう。栗色の髪を指に巻き付けながら、表情は戦いを前にしているとは思えないほど緩んでいる。

 アレクシオスはそんなイセリアには目もくれず、ヴィサリオンに顔を向ける。


「すぐに出立する。ヴィサリオン、おまえはここに残ってくれ」

「分かりました。私が同行しても出来ることはありませんからね」

「すまん。――ここはおれたちに任せてくれ」


 足早に帷幄テントを出ていこうとしたアレクシオスの背中に、司令官の声がかかった。


「いま馬車を用意させよう。ここから帝都盆地までは早馬でも半日はかかるぞ」

「必要ない。敵は目立たないように旅行者や隊商に紛れ込んでいるはずだ。おれたちの脚なら、夜更けまでには追いつく」

「いくらなんでも無茶だ」

「それが出来るのが戎装騎士ストラティオテスだ」


 アレクシオスはもはや振り返ることもせず、駆け出すように帷幄を出た。

 三人の少女も置いていかれまいと、あわててその背中を追う。

 一陣のつむじ風みたいに騎士たちが去ったあとには、あっけにとられたみたいに立ちつくす司令官と高級将校たち、そして祈るような面持ちのヴィサリオンだけが残された。


***


 空一面に濃墨を塗り込めたような夜であった。

 あたりを覆う夜闇は時を追うごとに濃くなった。かそけき薄明かりを投じていた半月は分厚い雲に隠れ、初夏だというのに風には冷たいものさえ混じっている。

 夜の帳に包まれた大地を鳥瞰すれば、うっすらと白く浮かび上がった線がみえる。

 帝都盆地と外界をむすぶ二つの関所――北嶺関と南嶺関より発した二本の街道であった。

 どちらも盆地を流れる河川に沿ってゆるやかに蛇行しながら、帝都イストザントへと伸びている。


 時刻はすでに夜半をまわっている。

 日が高いうちは人馬であふれる街道も、この時間は閑散としたものだ。

 帝都周辺は良好な治安が保たれているとはいえ、盗賊や追い剥ぎが出没しない保証はどこにもない。賊によって盗まれた物品、あるいは人間は、多くの場合二度と帰ってこない。被害に遭ってから後悔しても遅いのだ。

 旅慣れた人間であれば、関所の近くで一夜の宿を取り、日の出を待ってから帝都を目指すのが常であった。


 いま、南嶺関から続く街道の上を、車輪の音を響かせて進む馬車がある。

 四頭立ての大型馬車であった。荷台には幌が張られているため、外からはなにが積まれているかは判然としない。

 荷台の大きさから推測するに、人間であればざっと十人以上、物であれば一家族分の家財道具はなんなく積載出来るはずだ。

 四囲は寂然と闇に沈み、すれ違う人も馬もしばらく絶えている。

 宿駅と宿駅のちょうど中間地点にあたる一帯は、ただでさえ物寂しい深夜の街道にあって、とくに人気のない場所だった。

 他の馬車や通行人に気を遣う必要がないため、能うかぎりの速度を出せるという利点もある。

 このままのペースを維持出来れば、夜明け前には大城門に到着するはずであった。

 馬車の前方に人影が躍り出たのはそのときだった。


「――止まれ!!」


 甲高いいななきと、車軸の軋りが夜空に響きわたった。

 急制動をかけられた馬車は、人影のすぐ脇で停止した。

 命知らずな闖入者にむかって、金髪の御者は呆れたようにため息をつく。走行中の馬車の進路上に飛び出てくるなど、およそ正気の沙汰ではない。

 小柄な人影は、夜闇に溶け込むみたいな黒いケープを羽織っている。顔は見えないが、先ほどの声から若い男だということは知れた。


「何か用か?」

「おまえたち、こんな時間にどこへ行く」

「帝都に急ぎの荷物でね。あんたには関係のないことだ――」


 そのまま馬車を進めようとして、御者はちいさく舌打ちをした。

 四頭の馬は動き出そうとしているにもかかわらず、いっかな前進する気配はない。

 男の手が車台を掴み、馬車を押し止めているのだ。片腕だけで四頭立て馬車を抑え込むことは、言うまでもなく人間業ではない。


「すぐに降りろ」


 どこまでも威圧的な声で男は命じる。


「……嫌だと言ったらどうする」

「力ずくで引きずり下ろすまでのことだ」

「そりゃ面白え――」


 御者はくっくと哄笑を漏らす。先ほどまでとは打って変わって、声音にはあからさまな嘲りと侮蔑とが滲んでいる。


「テメェ、人間じゃねえな?」

「――――」

「とぼけんじゃねえよ。片手で馬車を止められる人間がどこにいる。テメェも騎士ストラティオテスなんだろう?」


 御者は短い金髪をくしゃくしゃと掻きながら、


「まったく、帝都まであとすこしのところで見つかっちまうとはなぁ。こうなっちまったら仕方ない。ヘラクレイオスの兄貴、エリスの姐御、ここは俺に任せてくれ。すぐに片付けてくる」


 御者台から飛び降りると、男にむかってつかつかと歩み寄る。


「この俺――カドライが相手だ。どこのどいつか知らねえが、テメェ死んだぜ」

「ヘラクレイオスはそこにいるのか」

「あ?」


 次の瞬間、カドライの目交を横切るように、黒いケープが舞い上がった。

 ケープの下から現れたのは黒髪の少年だ。背丈は頭二つほど低いが、年齢はカドライとほとんど変わらないだろう。


「――戎装騎士ストラティオテスアレクシオスだ。ただちに投降しろ。貴様らの犯した罪は消えないが、いまならまだ間に合う」

「投降だ? ハッ! 何を言い出すかと思えば、これから盛大にハラワタぶちまけて死ぬ奴がほざくセリフかよ!!」


 カドライはおもわず吹きだす。

 それも一瞬だ。ひりつくような緊張と殺意があたりを覆っている。


「……来い。街道の真ん中では都合が悪いだろう」

「俺はどこだろうと構わねえが、せめて死に場所くらい選ばせてやるよ」


 二人の騎士は街道を外れ、遮るもののない原野へと場所を移す。

 夜風が吹き渡るたび、ざあざあと下草が波打つ。心をもたない自然までもが、血なまぐさい戦いの予兆に震えているようであった。

 アレクシオスとカドライは、いままさに対決の時を迎えようとしていた。


「戎装――」


 どちらともなく口にしたその言葉。

 それが変形へんぎょうの引き金だった。

 二人の少年の姿はもはやどこにもない。かわりに立ち現れたのは、二体の異形だ。

 一方は、黒曜石のごとき艷やかな装甲に身を包んだ漆黒の騎士。

 そして、もう一方は、あざやかな橙色オレンジの装甲に鎧われた騎士であった。

 戎装を終えたカドライは手首を回す。関節が小気味いい音を奏でるたび、無貌の面を碧色の光条が走り抜けていく。

 体型はアレクシオスに較べるとだいぶ華奢だ。それでも、刺々しく鋭角な装甲は、その身に秘めた苛烈な攻撃性を窺わせるのに十分だった。


「……もう後戻りは出来ないぞ」

「望むところだ。テメェの方こそ、命乞いにはもう遅いぜ」


 言って、カドライはアレクシオスに人差し指を突きつける。


「見せてやるよ――俺の力をな」


 言い終わるが早いか、橙色の装甲が闇に滲んだ。

 刹那、カドライの姿は忽然と消え失せていた――文字どおり、影も形もなく。

 アレクシオスはとっさにあたりを見回す。

 雷に打たれたような衝撃が背中を突き抜けていったのは次の瞬間だった。

 カドライは姿勢を崩しかけたアレクシオスの腕を掴み、半ば強引に引き起こすと、


「おっと! まだ寝るなよ。戦いは始まったばかりだ。せいぜい愉しませてもらわないとな」


 嗜虐心をむき出しにした声音で囁いたのだった。


 アレクシオスは答えず、右手の槍牙カウリオドスを叩きつける。

 確実にカドライの頭部を貫くはずの一撃は、しかし虚しく空を切った。アレクシオスは体勢を立て直しつつ、すばやく視線を巡らせる。


「おいおい――どこに目ェつけてんだ?」


 声はアレクシオスの背後で生じた。

 振り向いたときには、カドライはまたもアレクシオスの背後に回っている。


「分かったか? ――これが俺の能力だ。ヘラクレイオスの兄貴が最強の騎士なら、俺は最速の騎士だ。誰も俺には追いつけねえ。テメェは百年かかっても俺の影も踏めねえのさ」

「なるほどな。オルフェウスとおなじ能力か。道理で目では追いきれないはずだ」

「あの人形みたいな女と一緒にするな――俺の方がずっと速えぇ」


 カドライは吐き捨てるように言うと、ふたたび加速に入った。

 アレクシオスが防御姿勢を取るよりはやく、右脇腹から左肩へと逆袈裟に閃光が走った。

 装甲表面ではげしい火花スパークが散る。電離した大気が綾なす色とりどりの光芒プラズマが暴れ狂い、あかあかと夜空を照らす。


「ぐっ……!!」

「どうだ? 俺にはこんな芸当も出来る!! すぐには殺さねえ。自分の身体が少しずつ溶けてなくなっていくところをゆっくりと見物させてやるよ」


 漆黒の装甲は無惨に灼け溶け、白煙を立ち昇らせている。

 まるで熱した刃で抉り取られたみたいな惨たらしい傷口は、事実、灼き斬られた痕跡にほかならない。

 カドライの四肢には超高温のプラズマ・ジェネレーターが内蔵されている。加速中に大気をプラズマ化させることで不可視の刃を形作り、すれ違いざまにアレクシオスの装甲を溶解させたのだ。

 カドライは勝ち誇ったようにアレクシオスに近づくと、


「おい、テメェ、たしかアレクシオスとか言ったな。そういえば聞き覚えがある」

「……おれを知っているのか?」

「たしかそんな名前の奴がおなじ戦線にいたはずだ。俺たちと違って戎狄バルバロイをろくに倒せなかったクズ騎士だったからよく覚えてるぜ。とっくに北方辺境でくたばったかと思ってたが、しぶとく生き延びてたとはなぁ」


 あくまで無情に言い放ち、肩を揺らして嗤う。

 自分より劣る者をあざ笑い、蔑み、思うさまにいたぶる――。

 そして、獲物の生命が尽きるその一瞬まで、みずからの快楽のために使い潰す。

 カドライにとって、それにまさる愉悦はない。

 おのれの意のままに生命を玩弄する喜びに較べれば、この世のどんな快楽も霞んでしまうだろう。

 もっとも、いくら劣弱な相手を弄ぶといっても、人間は脆すぎる。手加減をしたつもりでも、いつもあっけなく壊れてしまう。嗜虐心を満たすどころか、かえって鬱憤ストレスが溜まるほどだった。


 だが――自分とおなじ戎装騎士ストラティオテスなら話は別だ。


 どれほど傷をつけても、そうそう死ぬことはない。思う存分痛めつけ、気が済んだら息の根を止めてしまえばいい。

 ヘラクレイオスがただひとりで追手を掃滅してしまったことにひそかに不満を抱いていたカドライだが、悔しい思いをした分、こうして恰好の獲物を独り占めできる喜びもひとしおだった。


「俺と出会ったのが運の尽きだ。クズはクズらしく惨めにくたばるんだな」

「あいにくだが、そう簡単に倒されてやるつもりはない!!」

「ほざいてやがれ――」


 アレクシオスの目の前で、橙色の装甲はふたたび闇に溶けた。

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