第82話 妖花乱れる

 エフィメラは浜を一望する小高い丘の上に立っていた。

 海の側に目を向ければ、巨大な廃造船所と、海岸に打ち捨てられた大小さまざまな廃船群が目に入る。

 ひるがえって陸の側では、町から浜へと続く細い道の全景を眺望することができる。

 闇を凝視するエフィメラの瞳は、ほどなくして道の半ばに停車した一台の馬車を認めた。

 時刻はすでに夜半を過ぎている。

 周りには人家もなく、昼間でもめったに人通りのないものさびしい田舎道である。

 そのような場所で、道幅をめいっぱい占有して停まった馬車は嫌でも目を引く。

 皇太子ルシウスの馬車とみて間違いない。

 見たところ、ザザリの放った虫はまだ標的のもとに辿り着いていないようであった。

 馬がすべて無事でいるのがその証拠だ。

 骨咀虫ほねがみむしはルシウスを最優先に襲うように調教されているとはいえ、その本能を完全に制御することはザザリにも不可能だ。

 獰猛で食欲旺盛な虫はその場の生物を見境なく食い荒らすはずであり、それを行動の目安とするようエフィメラに言ったのは、他ならぬザザリだった。

 なんらかの理由で遅れているのか。それとも――敵に先手を打たれたのか。

 いずれにせよ、ザザリが動きをみせない以上、標的の始末はエフィメラの手に委ねられた格好になる。

 エフィメラは慎重に風向きを確かめたあと、懐に手を差し込む。

 取り出した瓶は、白と青――媚薬と幻覚毒だ。

 続いて、やはり懐から取り出したのは、小ぶりなを思わせる器具だった。

 エフィメラは慣れた手つきで二つの瓶を器具に装着していく。

 器具はまさしく小型のだった。内部にはポンプ状の機構からくりが仕込まれ、後端の取っ手を押し出すことで薬液を大気中に噴霧する。

 瓶のなかに詰められているのは、きわめて高濃度の原液である。大気によって希釈されたとしても薬効を失うことはない。

 飲食物への毒の混入は古来より暗殺の常套手段だが、毒見役によってたやすく阻まれるだけでなく、毒を盛る段階で発見される危険も大きい。よしんば毒を盛ることに成功したとしても、標的がそれを口にしなければ、すべての努力は水泡に帰すのだ。

 それに対して、大気への毒の混入ははるかに確実かつ安全な手段であった。

 人間は飲まず食わずで数日を過ごすことは出来ても、呼吸をしなければ数分と生きられぬ動物である。好むと好まざるとにかかわらず、およそこの地上に生きるすべての人間が絶えまなく酸素を体内に取り込んでいる。

 そのうえ、ひとたび大気に溶け込んだ毒は肉眼では決して捉えることはできないのだ。

 毒を溶け込ませる触媒としてこれほど確実なものはない。

 標的は知らぬ間にみずからを取り巻く空気に一服盛られ、まったく自覚のないままエフィメラの術中に陥る――

 これまでエフィメラの手にかかった犠牲者は三百人を超える。

 刺客たちのなかでは最も非力な彼女だが、その実績は最強の武力をもつシュラムと較べても遜色はない。

 屈強な大男であろうと、薬によって身体の自由を奪われれば赤子も同然だ。女の細腕でもとどめを刺すのはたやすい。実際にエフィメラは抵抗らしい抵抗に遭うこともなく、悠々とを成し遂げるのが常だった。

 そうするうちに、ポンプの手応えが軽くなった。薬剤の散布が終わったのだ。

 エフィメラは前もって解毒剤を染み込ませておいた布で口元を覆うと、そろそろと丘を下る。

 路傍の草むらに身を隠しつつ、忍び足でルシウスの馬車に近づいていく。

 奇妙なことに、馬車の周囲に護衛の姿は見当たらなかった。

 もっとも、たとえ十分な数の護衛がついていたとしても、エフィメラの目論見を阻むことは出来なかったはずだ。

 幻覚を見せられたうえに媚薬の催淫作用まで加わっては、どれほど屈強な兵士でも腰砕けとなるにちがいない。

 アストリカの街中でザザリが呼び寄せた無数の羽虫の群れを巨人と錯覚させ、大勢の野次馬を恐慌状態に陥れたのがいい例だ。エフィメラにとって、護衛の兵士などさしたる脅威とはなりえないのだった。

 エフィメラは馬車のすぐそばで足を止めた。

 いま彼女が懐から取り出したのは、掌に収まる程度の香炉であった。

 陶製の香炉の内部では熾き火がくすぶり、本体を包む革の被筒ジャケットを隔ててなおじわりとした熱感が伝わってくる。

 これこそがエフィメラの秘策だった。

 薬剤に熱を加えることで、風に紛れ込ませた場合の数倍から数十倍の効能を発揮する。

 たとえ馬車のなかに身を隠そうとも、薬の溶け込んだ煙は外板の隙間からやすやすと侵入する。車内にいるルシウスを濃厚な薬煙で燻そうというのだ。

 エフィメラは香炉の蓋を取り、青の薬液を数滴落とす。

 決して自分が吸い込まぬよう細心の注意を払いつつ、揃えた細い指を団扇の代わりにして、かすかにたなびいた白煙を馬車のほうに流していく。

 煙が十分車内に吸い込まれたのを見計らって、エフィメラは草むらから出た。

 周囲に人の気配がないことを確かめ、そろそろと馬車に忍び寄る。

 注意深く乗降扉に手をかけると、それは意外なほどあっけなく開いた。

 車内は見た目よりもだいぶ広い。

 黒檀のテーブルを挟んで向かい合うように配置された座席には、きらびやかな衣服に身を包んだ男がひとり横たわっている。

 おそらく薬が含まれた煙をたっぷりと吸い込み、そのまま昏倒してしまったのだろう。

 エフィメラに背を向けているため、顔はみえない。

 それでも、乳白色のうなじと金髪から、西方人であることはまちがいない。

 (――これが、皇太子ルシウス・アエミリウス)

 その名を心中で呟くと、エフィメラの心臓は早鐘みたいに激しく鼓動を打ちはじめた。

 ここまで護衛の一人も見当たらないのは不可思議であったが、そのような些事を気に留めている余裕はすでにない。標的は目と鼻の先に横たわり、自分の意志では指一本動かすことも出来ないのだ。

 エフィメラは腰帯に手をかけると、衣服の一切を脱ぎ捨てた。

 燭台の灯が車内をほのかに照らし、エフィメラの白い裸体を影絵みたいに浮き上がらせる。

 白磁の肌はうっすらと上気し、肢体からは妖しく艶然とした香りが立ちのぼるかのよう。

 皇太子ルシウスを殺す――その目的を忘れたわけではない。

 そのためにみずからの肉体そのものを毒壺へと変えてここにいるのだ。

 エフィメラは『帝国』の次期皇帝に生きながらにして辱めを与えるつもりだった。

 快楽の頂へと至った瞬間、男という生き物は決まってぶざまな顔を晒すものだ。それはどれほど貴い血筋であろうと変わらないはずであった。

 エフィメラはその顔をはっきりとおのれの目に焼き付けてからルシウスを殺すつもりだった。

 相変わらず顔を背けて横たわったままの男の手を取り、むっちりとした太腿に這わせる。外側から内腿へ、さらにその奥へと。

 もう一方の手で豊かな乳房をなぞると、唇からはたまらず甘い吐息が漏れた。

 あらかじめ身体に塗り込めておいた媚薬は、エフィメラ自身にも相応の興奮をもたらしている。

 なめらかな肌にはいくつも玉の汗が浮かび、胸元にはりついた幾筋かの黒髪がいっそう淫靡な雰囲気を煽り立てる。

 男はエフィメラの指に身体をまさぐられるたび、くぐもった声を漏らすばかりであった。

 この国で最も高貴な男を組み敷き、一方的に嬲っているという事実がエフィメラをさらに高揚へと導いていく。

 何度も気をやりそうになりながら、エフィメラは赤い瓶の神経毒、そして黒い瓶に詰められた劇毒を手に取る。

 いずれも高い揮発性を特徴とする毒薬だ。開封すればたちまち気化するため、標的に近づくまでは蓋を解き放つことはできない。

 扱いの難しい薬だが、どちらも彼女の”計画”には不可欠だった。

 まずは微量の神経毒を投与することで五感を一つずつ断ち、粘膜の感覚だけを残す。

 そして、ルシウスが権威も誇りも失ってひたすら快楽に屈するさまを観察した後、満を持して劇毒を投与するつもりであった。

 劇毒に侵された人間は生きながらにして内臓を蝕まれ、理性を保ったまま極限の苦痛を味わう。

 それは、一瞬にして天上の快楽から地獄の苦痛へと突き落とされるということだ。

 ああ――!!

 そのさまを脳裡に描くだけで鳥肌が立つ。腰の奥がじんと熱を帯び、つま先まで甘い痺れが伝播する。

 どこまでも昇りつめていくかと思われたエフィメラの嬌声は、そこで途絶えた。

 薄紅色に色づいた胸の谷間から腹に赤いものがつうと伝っていく。

 それがおのれの血であることを理解したときには、エフィメラの意識はほとんど消え失せようとしていた。

 もし背後を振り向くだけの力が残っていたなら、彼女は死の間際にはっきりとその眼に捉えたはずだ。

 向かい側の座席を跳ね上げ、その下から飛び出した小柄な輪郭を。

 赤銅色の髪の剣士――ラフィカ。

 ラフィカが剣を引き抜くが早いか、エフィメラは糸が切れた人形みたいに崩れ落ちた。

 エフィメラが完全に事切れたことを確認すると、ルシウスものっそりと座席の下から這い出てくる。

 どちらも厚手の布を顔に巻き、いまなお車中に漂う薬煙の影響を免れている。

 「ふむ――こうして見るとなかなかいい女だ。殺すのはちと惜しかったな」

 ルシウスは残念そうに首を振ると、目を見開いたまま絶命したエフィメラの顔に手をやり、そっと両の瞼を閉ざしてやる。

 その様子を横目に見つつ、ラフィカはほとほと呆れ果てたというようにため息をつく。

 「殿下が冗談がお好きなことはよく存じ上げていますが、時と場合を選ぶべきですよ。――ヴィサリオンさん、怪我はありませんか?」

 言って、ラフィカは横たわっていた男に手を差し伸べる。

 「だ……大丈夫です。危ないところをありがとうございました」

 気化した薬を吸い込んだためか、はたまた濃厚な色香にあてられたか、ヴィサリオンは立ち上がることも思うに任せない。

 ルシウスはヴィサリオンの傍らに腰を下ろすと、その肩にぽんと手を置いた。

 「よく余の身代わりの役目を果たしてくれた。相手は刺客とはいえ、あれほどの美女だ。すこしは役得もあっただろう」

 「そのような……今までああいったことにはさっぱり縁がなかったので、驚きはしましたが……」

 「ふむ――真面目すぎるというのも考えものだな。帝都みやこに帰ったら余がいろいろとを教えてやろう」

 「はい」とも「いいえ」とも答えあぐねているヴィサリオンを見て、ルシウスはからからと笑う。

 と、その脇腹を肘で軽く小突いたのはラフィカだ。

 「悪ふざけが過ぎますよ。身持ちが堅いのは大変結構なことです。殿下もすこしは見習われたらいかがですか?」

 「考えておこう」

 ルシウスはラフィカに命じて馬車の乗降扉を開かせる。

 扉が開ききると同時に、車内に清冽な外気が流れ込む。先ほどエフィメラが散布した薬は潮風に薄められ、すっかり霧消したようであった。

 車内に漂っていたむっとするほどの女の匂いが薄まると、いつも以上に青白かったヴィサリオンの顔にようやく血の気が戻りはじめた。

 「さて――あの者たちも上手くやってくれていればいいが」

 ルシウスは彼方の闇に浮かんだ廃造船所を見据え、ひとりごちた。

 夜明けまであと二時間あまり。

 それは、夜を通して闇が最も深くなる頃合いでもある。

 蒼黒の地平線に海鳴りは重くとどろき、太陽はまだ見えない。

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