第81話 永遠と刹那の狭間で
シュラムはふいに木片を拾う手を止めた。
とくに理由があった訳ではない。
あえて言うなら、暗殺者としての直感がそうするように命じたのだった。
積み上がった木片は、すでに彼の膝ほどの高さになっていた。
一帯には木材の焼け焦げた匂いが漂う。廃船に穿たれた破孔ではまだ小さな火がくすぶり、かぼそい白煙をくゆらせている。
シュラムはじっと破孔の奥を睨んだ。
砲弾をまともに喰らい、吹き飛んだアレクシオスが作った破孔だ。
アレクシオスの身体はいまもこの奥にあるはずであった。
だいぶ木片を取り除いても、見つかるどころか一向に気配すら感じられないのは奇妙だった。
生きているにせよ死んでいるにせよ、なんらかの痕跡を見つけないことには、シュラムとしては安堵することは出来ない。
と、シュラムはふいに懐に手を差し込んだ。やはり直感がそうさせたのだった。
ぐら――と足元が揺れた。
それが収まらぬうちに、シュラムの背後で凄まじい音が生じた。力任せに木を叩き割る鈍い低音と、空気を切り裂く鋭い高音。まったく異なるふたつの音が混ざりあい、恐るべき旋律を奏でる。
反射的に振り向いたシュラムの視界に飛び込んできたのは、漆黒の
アレクシオスは、ぶつかりあって一塊になった廃船群の内部をモグラみたいに掘り進み、シュラムの背後を取ったのだ。
両足の推進器が大きく展開しているのは、全開稼働に入っている証だ。
アレクシオスの身体は巨大な推進力に押し上げられ、薄紙を破るようにやすやすと船の外板を突き破ったのだった。
ながく尾を引く噴射炎が闇にあかあかと映えた。
深夜の廃墟のなかにあって、そこだけはまるで昼日中みたいに明るく、対峙した二人の戦士を照らし出す。
上方から襲いかかるアレクシオスの槍牙を、シュラムは懐から取り出した多節棍で受け止める。
二つの身体が交錯し、激しい衝突音が何重にも反響する。
直後、傍らの廃船に突き立ったのは、半ばから断ち割られた多節棍であった。
シュラムはすかさず飛び退くと、もはや用を成さなくなった棍をアレクシオスめがけて投擲する。
アレクシオスは上半身をわずかに傾けただけだ。
黒い装甲のすれすれを棍は飛び、はるか後方に墜落した。
シュラムも折れた棍ごときで戎装騎士にダメージを与えられるとは思っていない。狙いはあくまで回避行動を誘発させ、次なる一撃を見舞うための隙をつくることにある。
アレクシオスはその狙いを看破し、最小の動作で応じたのだった。
黒騎士は槍牙を構え、反撃の姿勢をとる。
シュラムは覚悟を決めたように長い息を吐いた。一見すると脱力しているようにみえるのは、全身の筋肉を一旦まっさらな状態に戻しているためだ。
そして――目に見えない変化がはじまった。
しなやかで静謐な動作を旨とする暗殺から、持ちうる力のすべてを叩きつけて敵を制圧する正面戦闘へと、シュラムはおのれの肉体の特性を切り替える。
戦士としての強さと暗殺者としての優秀さは、本来相容れないものである。
それぞれ鍛えるべき肉体の部位も違えば、習得すべき技術もまるで異なる。両立させようとすれば、どちらも中途半端に終わるのが関の山だ。
暗殺者であるかぎり、真っ向から敵と戦うことはいかなる場合も避けねばならない。
ただひとつの例外――暗器使いを除いては。
ひとたび戦いが始まれば、彼らは凡百の武芸者を寄せ付けない力を発揮する。
そのすさまじい強さの秘密が矛盾する肉体の特性を使い分ける技能にあるとは、熟練した術者以外はおよそ知りえぬことだった。
シュラムが懐から取り出したのは、二振りの奇妙な剣だ。
平らな底辺から刃先にむかって急激に鋭角化し、アンバランスな二等辺三角形を形作っている。
特異なのは刃の形だけではない。
剣には必ず備わっているはずの柄がどこにも見当たらないのだ。
底辺の中央がコの字にえぐれ、簡素な握り手がその窪みに埋没するように設けられている。握り込むことで剣と拳は一体となり、手首までも防護される。
分かちがたく結びついた剣と盾――まさしく攻守兼備の万能武器であった。
長い歳月を閲するあいだに正式な名称も忘れ去られたこの剣は、シュラムが最も得意とする武器だった。
ラフィカとの戦いで使用しなかったのは、文字通り奥の手であるからにほかならない。
それを見せた以上、相手を殺すか、おのれが死ぬかの二つにひとつ。
いま、シュラムは不退転の覚悟でアレクシオスと対峙したのだった。
アレクシオスもただならぬ気迫を感じ取り、右の槍牙をシュラムに向けたまま、左の槍牙で防御の構えを取る。十字を横に倒したような構えは、状況に応じて攻防どちらにも転じることができる。
二人――否、二体の人ならざる怪物は、闇のなかで正対する。
神経が研ぎ澄まされるほど時は密度を増し、廃墟のぬるく淀んだ空気さえひえびえとしたものを帯びはじめる。
先に仕掛けたのはシュラムだ。
一気に距離を詰め、二振りの剣をそれぞれ異なる角度から振り下ろす。
およそ人間の挙動の一切は、体幹に存在する強力な筋肉群から生じている。そして、関節をひとつ介するほどにそのエネルギーは漸減していくのが常だ。
剣であれ槍であれ、『斬る』という動作は複雑な関節の動きを必要とする。当然、動作を繰り出すまでに失われるエネルギーも相応に大きくなる。
だが、手首と一体化した剣であれば話は別だ。
肩から肘へと伝達された強大な力をそのまま動作に乗せることができる。
十分なエネルギーを温存したまま繰り出される斬撃は、通常の刀剣のそれに較べてはるかに速く、そして重い。
二振りをともに攻撃に用いれば敵を圧倒し、二振りをともに防御に用いれば鉄壁の守りとなる。
腕と一体化した剣の挙動はまさに変幻自在。その軌道を読み切ることは容易ではない。
アレクシオスは左の槍牙をかざし、上方から迫る剣を受け止める。
騎士の眼は、右下方から突き込まれつつあるもう一振りの剣を捉えていた。身体をひねってこれをかわし、すかさず反撃に転じるつもりであった。
「ぐっ……!!」
アレクシオスはわずかに後じさる。
鋭利な切っ先は、脇腹の装甲のわずかな隙間を抉っていた。
いかに重い斬撃でも、人間の力では
装甲に傷をつけられないならば、どのように打撃を与えるのか?
シュラムが導き出した答えは、装甲が途切れる一点を突くことだった。
複雑に重なり合った装甲と装甲の間隙を目ざとく見つけ出し、切っ先をねじこむ。
あらゆる鎧にとって装甲の継ぎ目は最大の弱点である。
戎装騎士の身体と人間の鎧とではまったく構造が異なるとはいえ、装甲が脆弱な部位を覆うものであるということには変わりない。一分の隙もない完璧な防御など存在しえないことも、また。
刃がすべり込んだ瞬間、アレクシオスの身体を駆け巡ったのは、たしかな痛みの感覚だった。
致命傷には至らなかったが、アレクシオスが危険を感じたのはまぎれもない事実だ。痛みの本質は警告である。人間が
「ほう――怪物も痛みを感じるか」
「蚊が刺した程度にはな」
アレクシオスは努めて平静を装いながら、あらためてシュラムに槍牙を向ける。
先ほどとは異なり、防御を打ち捨て、持てる力の一切を攻撃のみに傾けた捨て身の構えであった。
黒騎士が低く飛んだ。
純粋な脚力だけでおのれの身体を前方に押し出したのだ。
アレクシオスは右の槍牙を正眼に構え、シュラムめがけて突撃する。
推進器を作動させれば、さらに加速をつけた上で攻撃を仕掛けることも可能だ。
あえてアレクシオスがそれをしなかったのは、噴射炎によって軌道を見切られることを危惧したためであった。
アレクシオスが信じがたいものを目にしたのは次の瞬間だった。
シュラムは突撃を避けるでもなく、それどころか激しく床を蹴り、真正面からアレクシオスに向かってきたのだ。
(何をするつもりだ――!?)
アレクシオスが正気を疑ったのも無理からぬことだ。
むろん、シュラムも酔狂で自殺行為に出ているわけではない。歴戦の暗器使いにとって、戦場での挙措はすべて緻密な計算に基づいている。
相対するふたつの軌道が重なり合ったとき、金属がぶつかり合う甲高い音が響いた。
触れたのはどちらの刃でもなかった。
すれ違いざま、シュラムは細い鎖を幾条も投擲し、アレクシオスの右足を絡め取ったのだった。
それだけであれば、
シュラムはそのまま走り抜けると、傍らの船のマストにすばやく鎖の一端を絡ませる。
そして、そのまま両手の剣をマストの下部に叩きつけたのだった。
朽ちたマストはあっけなく切断され、上甲板の構造物を破壊しながら横倒しになる。
アレクシオスは、着地と同時にマストの崩落に巻き込まれる格好になった。
ひと掴みに引きちぎろうにも、細い鎖は絡み合って散らばり、一つひとつ切り離すあいだに身体はずるずると引きずられていく。
「くそ――!!」
抵抗も虚しく、アレクシオスは崩れ落ちる船体に飲み込まれる。
シュラムはその様子を遠巻きに眺めながら、獲物を狙う猛禽みたいな眼光を注ぐ。
精悍なその顔貌には、わずかな慢心も安堵もなかった。暗殺者にとって予断はいかなるときも禁物なのだ。
「まだ終わりではないだろう。――立て、怪物。今度は間違いなく殺してやろう」
それはあからさまな挑発であった。
アレクシオスは答えず、ただおのれの健在を示すことで返答とした。
みずからの上にのしかかった残骸を軽々とはねのけ、黒騎士はふたたびシュラムと向かい合う。
頭部に刻まれた幾何学模様のスリットに赤光が走る。光の明滅は、アレクシオスの感情の昂ぶりと連動しているようだった。
「これ以上貴様にかかずらっている暇はない。――間違いなく殺すと言ったな。その言葉、そっくり返してやる」
「それは拙者も望むところ……いざ!!」
アレクシオスは両足の推進器を作動させ、ふたたび突撃する。
その速度は先ほどの突撃の比ではない。漆黒の騎士はみずからを一陣の颶風へと変え、シュラムの内懐に飛び入った。
間髪をおかず、右の槍牙をシュラムの心臓めがけて突き込む。
過たず胸を穿っていたはずの槍先は、しかし、あと一歩というところでシュラムの肩を掠めていった。
命中の寸前、シュラムは槍牙の軌道に刃を差し込み、強引に狙いを逸らせたのだ。まさしく人間離れした反射神経というほかない。
アレクシオスは驚くでもなく、間合いを離されぬように次々と攻撃を仕掛ける。
左の槍牙で首筋を払う。やはりぎりぎりのところで、シュラムはスウェーバックで回避する。
左右の槍牙を自在に切り替え、あるいは同時に用いて、アレクシオスは矢継ぎ早に電閃のごとき速攻をかける。
息つく間も与えないアレクシオスの猛攻のまえに、さしものシュラムも顔色が変わりはじめた。
いかに人間の限界まで心身を鍛え抜いた暗殺者とはいえ、体力は無限ではない。死闘の最中にあってはおくびにも出さないが、これまでの戦いで蓄積した疲労が少しずつ手足を重くしている。
アレクシオスひとりを倒すのにこれほど手こずるとは、当のシュラムにとっても誤算であった。
――長引けば、勝ち目はなくなる。
絶えまなく仕掛けられる攻撃を俊敏にかわし、防ぎつつ、シュラムは反撃の好機を伺う。
と、アレクシオスが大きな隙を見せたのはそのときだった。
槍牙を振り抜いたことで上体のバランスが崩れ、シュラムの目の前に無防備な首筋を晒している。
暗器使いはようやく到来した一瞬の好機を見逃さなかった。両手の剣を突き出し、装甲と装甲のあいだに生じたわずかな間隙にねじ込む。
切っ先は狙いどおり装甲の継ぎ目に差し込まれ、シュラムの手にはたしかな手応えが伝わった。
人間であれば頸動脈にあたる部位である。脳に血流を送る大動脈を切断されれば、どうあがいても助かる見込みはない。
赤光が徐々に弱まり、かすかな点滅を繰り返しているのは、生命の終焉を示しているようにみえた。
この時ばかりは、シュラムも心のなかで快哉を叫ばずにはいられなかった。
次の瞬間、シュラムは反射的に目を細めていた。
まばゆい真紅の光芒が視界を染める。
「――捕まえたぞ」
言い終わらぬうちに、アレクシオスは両足の推進器を全開していた。
シュラムは逃れようとして、漆黒の装甲に包まれた手がおのれの両肩を力強く掴んでいることに気づく。
一人と一騎はもつれ合いながら廃墟のなかを飛翔する。
進路上の柱をへし折り、壁をぶち破り、暗闇にまったくデタラメな軌道が描かれていく。
やがて推進器が停止し、二つの影はもつれたまま床に転がった。
やがてどちらともなく離れると、まるで屍みたいにぴくりとも動かなくなった。
先に動いたのはシュラムだ。
起き上がろうとして膝を折り、ひとしきり血を吐いた。
喉の奥から泡立った血がこみ上げてくる。おそらく折れた肋骨が肺を破ったのだろう。
手当たり次第に叩きつけられたことで体じゅうの骨が折れ、主要な臓器のほとんどが破裂している。鍛錬を積んだ達人でも、こうなっては立ち上がることさえままならない。
おのれの生命が長くないことを理解したシュラムは、わずかに頭を動かしてアレクシオスを見やる。
「……怪物め……」
アレクシオスはすでに立ち上がっていた。
装甲はひどく薄汚れているが、全身にあれほどの衝撃を加えられてなお致命的なダメージは負っていないようであった。
そして、横たわったまま動けないシュラムを見下ろし、
「……おれは人間だ」
魂の奥から絞り出すように呟いた。
「もう勝負はついた。貴様の負けだ。言え、親王殿下はどこにいる」
「拙者がそう簡単に教えるとでも思ったか?」
「言いたくないなら、好きにしろ。貴様の仲間も最後まで口を割らなかった。その傷ではどのみち長くは持たないだろう。せいぜい神に祈れ――おまえたちにも死に際に祈るような神がいるならな」
それだけ言って踵を返そうとしたアレクシオスを、シュラムは呼び止めた。
「あの二人なら、浜のはずれの廃屋に捕らわれているはずだ。ラベトゥルはまだ殺しておらぬだろう」
「……なぜおれに教える気になった?」
「もはや隠す意味もなかろうと思ったまでのこと。あの男は、結局最後まで本当のことを話そうとはしなかった。いまさら義理立てをする必要もない」
シュラムは何度か血を吐きながら、途切れ途切れに言葉を継いだ。
「それに、道連れとなる者に何を話したところで構わぬだろう」
「なに?」
問い返したアレクシオスの眼前で、シュラムは上衣の前を大きくはだけさせた。
腹部には横一文字に生々しい傷跡が走っている。完全に塞がってはいるが、さほど古いものではないようだ。
「怪物よ――暗器使いの矜持、冥土の土産とするがいい」
シュラムは渾身の力を振り絞って叫ぶと、傷口めがけて
褐色の皮膚に血の線が引かれ、薄い脂肪と筋肉があらわになる。
その下にちらと見えたのは、あきらかに人間の臓器とは異なる奇怪な物体だった。
それは馬の膀胱に特殊な加工を施した袋だ。この仕事を引き受けるにあたって、シュラムはみずからの体内にこの袋を埋め込んでいたのだった。
「貴様!!」
アレクシオスの制止を振り払い、シュラムはいま一度
袋いっぱいに充填されているのは、特殊な液体火薬だ。
それだけなら無害な物質だが、大気に触れることで可燃性を帯び、その状態で衝撃を加えれば容易に爆発する。
そして、ひとたび爆発したならば、シュラム自身は当然のこと、半径十メートル以内のあらゆる物体を焼き尽くさずにはおかない。
これこそがシュラムの真の奥の手だった。
本来であれば、すべての策が失敗したときの最後の手段として、みずからの生命と引き換えにルシウスを爆殺するつもりであった。
まさかただひとりの戎装騎士も倒せぬまま、これを使う羽目になるとは――
それでも、シュラムに後悔はなかった。
ただ、おのれが暗器使いとして培ってきたすべてを惜しみなく出しきった心地よい満足感だけがある。
この先どれほど生きながらえようと、これ以上の充足を得ることは叶わないはずだ。
ならば、この満たされた瞬間に
――いい死に場所を得た。
シュラムは静かに瞼を閉じると、くっと手首を返す。
一瞬の間をおいて、横たわった身体を飲み込むように火球が膨張し――爆ぜた。
高々と噴き上がった火柱が天井を焦がす。
四方八方に飛び散った炎はたちまち近くの木材に燃え移り、一面は見る間に火の海へと変わっていく。
焦熱地獄と化した廃墟のなか、アレクシオスの姿はもはやどこにも見当たらなかった。
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