第80話 鋼鉄の戦乙女たち

 「いまの音、聞こえた!?」

 イセリアははたと足を止めると、すぐ後ろを追従していたオルフェウスに問うた。

 オルフェウスは無言のまま頷く。

 ごろごろと何かが転がる地鳴りみたいな音のあと、火薬が炸裂する爆轟音が立て続けに廃墟のなかに轟いたのは、つい今しがたのことだ。

 イセリアとオルフェウスは、船体に装着する艤装をつくる工房を進んでいるさなかであった。

 かつて日々の仕事に用いられていた工具類はほとんどが持ち去られ、工房内にはがらんとした空間が広がっている。造船所のなかで最も海に近いということもあり、建物の風化の度合いも顕著だった。歩くたびに床はぎしぎしと軋み、時おり吹く隙間風が潮の匂いを運ぶ。

 「あの音、アレクシオスになにかあったに決まってる。あたしたちも行かなきゃ!!」

 イセリアはオルフェウスの返答も聞かず、はやばやと駆け出していた。

 と言っても、来た道を戻るのではない。力任せに壁を突き破り、音の根源へと直行しようというつもりだった。

 オルフェウスもとくに異を唱えるでもなく、イセリアの背を追う。

 二人の少女騎士が部屋の中ほどを通り抜けたようとした、まさにそのときだった。

 みしっ――

 と、床から奇妙な音が生じた。

 軋むだけなら気にも留めないが、それにしてはどうも様子が妙だ。

 イセリアが立ち止まろうとした瞬間、足元がぐらりと揺れた。木が裂ける不快な音が耳朶を打つ。

 直後、二人の身体は浮き上がっていた。

 イセリアとオルフェウスを中心に、かなりの広範囲に渡って床面が崩落したのだ。はるか下方には底の見えない暗闇がぽっかりと口を広げている。

 足場を失い、二人は宙に投げ出される格好になった。

 自由落下に入るのとほとんど同時に、イセリアとオルフェウスは戎装を開始していた。

 少女たちの身体は、それぞれ黄褐色と真紅の装甲をまとった異形へと変じていく。

 転瞬の間に戎装を終えた真紅の騎士――オルフェウスは、そのまま加速に入る。

 飛び散り、落下するに任せていた床の断片が中空で静止する。

 それだけではない。

 空気中の細かな塵のひとつひとつも、墜落しつつあるイセリアも、オルフェウスの視界に映るなにもかもが動きを止めているのだった。

 自身を取り巻く森羅万象がことごとく凍てついた時間の只中で、オルフェウスの意識は研ぎ澄まされていく。

 やがて、透きとおった紅い装甲に覆われた四肢が動きだした。美しい騎士は、この状況でおのれがすべきことを完全に把握したのだ。

 オルフェウスは手近な床の破片を即席の足場とし、重力に逆らって上昇する。

 イセリアを助けられないことは分かっていた。

 同じ戎装騎士といえども、非力なオルフェウスに重量級のイセリアを牽引するほどの膂力はない。もし手を差し伸べれば、二人ともに真っ逆さまに奈落へと落ちていくしかない。

 堅牢な身体をもつイセリアならば、たとえよほどの高さから落下したとしても傷ひとつ負わずに済む――信じた上での決断だった。

 破片から破片へと軽々と跳躍し、オルフェウスの身体は大穴の外に着地していた。

 加速を解除する。世界がふたたび色彩と音を取り戻していく。

 数秒遅れて、複数の物体が打ち付けられる音。床の破片とイセリアが大穴の底に墜落したのだ。

 「イセリア、大丈夫――」

 オルフェウスは大穴の縁に立ち、イセリアにむかって呼びかける。見下ろした穴の底には、周囲よりも数段濃い色の闇がわだかまっている。

 返事はなかった。

 と、オルフェウスの顔面めがけて大穴の底から飛来するものがある。

 オルフェウスはわずかに右手を動かし、飛んできた物体をこともなげに掴み取る。それは掌に収まる程度の木片であった。

 「ちっ」と、大穴の底で舌打ちが聞こえた。

 「イセリア、よかった」

 「よかったじゃないわよ! 一人だけ逃げてどういうつもり!? 薄情者!」

 「ごめんね」

 「だいたいなんなのよ、ここ? カビ臭いし足元ぬかるんでるし、なんであたしだけこんな目に……」

 イセリアが落下したのは、廃造船所の地下に設けられた貯水槽だった。

 近傍の河川から引いた真水を一時的に貯めておく容器は深く、底に向かってゆるやかな台形を描いている。廃墟となってからもわずかに水は循環しており、地下空間はよどんだ水溜りの様相を呈している。

 「待ってて、すぐ行くから」

 「余計なお世話! あんたに助けてもらうなんてまっぴらだわ!」

 イセリアは吐き捨てるように言った。

 「あんたはさっさとアレクシオスのところに行くこと! こんな穴くらい自力で出られ――ひあっ!」

 イセリアが素っ頓狂な声を上げたのは、虫が足首を這ったためだ。

 戎装し、分厚い装甲に覆われているとはいえ、皮膚感覚は人間のそれと大差ない。

 ぞわぞわと怖気が走るのをこらえながら、イセリアは”尾”を器用に操って虫を払いのける。

 「と、とにかく! あんたは自分のするべきことをしなさい! あたしのことは放っておいていいからっ!」

 「……分かった。イセリアも気をつけてね。また落ちたら大変――」

 「それが余計だって言ってんの!!」

 イセリアはこの不快な空間から脱出するため、貯水槽の壁に鋭い爪を立てる。

 オルフェウスもイセリアに言われるまま、アレクシオスの救援に向かうため踵を返す。

 部屋をふたつほど通り抜け、中庭に面した小部屋に出た。アレクシオスがいる製材施設は中庭を挟んだ向こう側にある。

 そのとき、ふいに室内に人の気配が生じた。

 ざっと十人以上はいる。どこからか侵入してきたのか、あるいは息を潜めて待ち構えていたのか。

 闇のなかに影が踊った。

 いずれも物陰に巧みに身を隠しつつ動いているため、騎士の目でもその正体を見破ることは困難であった。

 奇怪な影の群れは、オルフェウスを取り囲むように展開する。

 「――だれ?」

 影たちに向け、オルフェウスは誰何する。

 当然と言うべきか、影はいずれも押し黙ったまま答えようとしない。

 敵であったとしても、いまはかかずらっている暇はなかった。無駄なエネルギーを消耗するのは得策ではない。

 オルフェウスが強行突破を試みようとしたとき、行く手を阻むように現れた影がある。

 頭部のほとんどが鉄の仮面に覆われたその姿は、まさしく怪人というほかない。

 「お初にお目にかかります――『帝国』の騎士よ」

 鉄仮面の男は慇懃に言うと、恐れる様子もなくオルフェウスのまえに歩み出る。

 「そこをどいて」

 「これはこれは……しかし、それは出来ない相談です。それに、私の話を聞けば、あなたもここから動けなくなる」

 「なぜ――」

 疑問を呈するオルフェウスに、鉄仮面の男はかすかな笑声を立てた。

 「エンリクスとデキムスは私が預かっています。あなたがたはあの二人を奪還するために来たのでしょう?」

 その言葉を耳にして、オルフェウスは動きを止めた。

 鉄仮面の男は真紅の騎士を恐れる素振りもなく、なおも言葉を継いでいく。

 「ご安心を――あの二人は生きていますよ。そう簡単に殺しはしません」

 「……どこにいるの?」

 「さあ? それを教えてしまえば、私はきっとあなたに殺されてしまいますからねえ。だが、あなたが私の要求を呑んでくれれば考えないこともありません」

 それだけ言って、男は両手を広げながらオルフェウスに近づいていく。

 「さて、まずは人間の姿に戻っていただきましょうか。あなた方は怪物の姿に変わらなければ真の力を発揮することは出来ない……違いますか?」

 「……」

 「だんまりですか。私を殺したいならそれも結構。もし私が死ねば、私の部下があの二人を殺すでしょう。さあ、あなたの答えを聞かせていただきましょう」

 オルフェウスは言われるがまま、戎装を解く。

 ほんの一瞬前まで五体を隙間なく覆っていた真紅の装甲はたちどころに消え失せ、白皙の美貌があらわになった。

 オルフェウスが完全に人の姿に戻ったことを確かめると、鉄仮面の男は軽く指を弾いた。

 周囲の物陰で様子を伺っていた影が一斉に動いた。

 姿を見せた影は一五人。いずれも黒装束に身を包み、手には武器を携えている。

 オルフェウスを取り囲むように陣取った四人の影がじわじわとにじり寄る。

 飛び退いて逃れようとするオルフェウスだったが、男の声が機先を制した。

 「そこから一歩も動かないように。もし妙な素振りを見せれば、あの二人は助からないと思いなさい」

 言うが早いか、オルフェウスの美しい顔に刃が突きつけられる。

 影たちは透き通る雪膚をなぶるように剣先を押し当て、冷たい刃を這わせていく。

 凶刃が喉や胸元をかすめても、オルフェウスは微動だにしない。紅の双眸はじっと男を見据えている。

 「無様なものですね。『帝国』が誇る戎装騎士も、こうなってはか弱い乙女とおなじ――」

 「……言うとおりにした。あの子がどこにいるか、教えて」

 この期に及んでみずからの置かれた状況を理解していないオルフェウスに、鉄仮面は少なからず驚いたようであった。

 「教えるかどうかは私が決めること――そして、あなたの態度次第です」

 目配せしたのを合図に、影たちが一斉にオルフェウスに殺到した。

 華奢な身体を力任せに押さえつけられると、オルフェウスは意外なほどたやすく膝を折った。

 「何を――」

 「動くな、と言ったはずですが。あなたは私がいいと言うまでそこでそうしていなさい。そうすれば、あの二人の居場所を教えてあげましょう」

 身動きの取れないオルフェウスに、鉄仮面の男は嗜虐心に満ちた視線を向ける。

 類まれな美貌と最強の力をもつ少女が為す術もなく膝をついているのだ。

 どうやっていたぶってやろうか――次々に浮かぶ下卑た考えは鉄仮面でも覆いきれない。

 絹糸のような亜麻色の髪を掴もうと手を伸ばした、まさにそのときだった。

 「ぎゃっ!」と短い悲鳴が暗い室内に響きわたった。

 悲鳴を上げたのは影の一人だ。それは断末魔であった。

 影の背には割れた木板が深々と突き刺さり、さながら即席の墓標であるかのよう。

 木板が投げ込まれた方向に鉄仮面と影の群れが一斉に視線を向ける。

 暗闇の奥から現れたのは、あきらかに人間とは異なる輪郭だった。

 甲殻類を彷彿させる無骨な装甲。ひときわ目を引く鋏状の五指。そして、それ自体が一個の生物であるかのようにうねる節くれだった二本の尾。

 頭部に刻まれたスリットをなぞるように萌黄色の閃光が迸る。

 黄褐色の装甲をまとった戎装騎士――イセリア。

 「ずいぶん楽しそうなことやってるじゃない。あたしも混ぜてくれない?」

 イセリアの予期せぬ出現に、さしもの鉄仮面も狼狽を隠せない。

 「バカな……あの深さからそう簡単に脱出できるはずはない!」

 「はぁ? ――あんた、誰に向かってモノ言ってんのよ。あのくらいの落とし穴でこのイセリア様をどうこうしようなんて、寝言は寝て言いなさい!!」

 イセリアの足が激しく床を蹴った。えぐれ、ささくれだった破孔がその脚力の凄まじさを千の言葉より雄弁に物語る。

 重厚な身体は、見かけからは想像もつかぬほどの素早さで影の群れとの間合いを詰める。

 近づいたところで、イセリアは迎え撃とうと剣を構えた影の一人を捕捉する。

 イセリアは右手を軽く振るっただけだ。

 それで十分だった。

 五本の指すべてに備わった刃が影に触れた途端、つい数秒前まで人間だったものは、肉と骨とが入り混じった無残な塊へと変じていた。

 イセリアはそのまま尾を旋回させる。節一つひとつに刃が仕込まれた尾は、より広範囲の敵を一掃するにはうってつけの殺戮器だった。四人の影が腰から上を斬り飛ばされ、下半身は天井までとどく血柱を噴き上げた。

 数秒のあいだに現出した酸鼻きわまる光景に、残る影たちも事態の深刻さを思い知ったらしい。

 各々が武器を構え、果敢にイセリアに襲いかかる。

 「ほらほら、さっさとかかってきなさい!! 片っ端から地獄に送ってやるわ!」

 右側方から斬りかかってきた影の頭を爪状の足先でつかみ取り、そのまま力任せに掴み潰す。黒頭巾に包まれた頭は、熟れた果実みたいにたやすく爆ぜて失せた。

 隙ありと見たか、槍を構えた影二人が前後から突進してくる。

 イセリアは尾を振るって後ろの一人の首を刎ね、前方の一人には固く握り込んだ拳を見舞う。強烈な打撃を浴びた影はそのまま壁を突き破り、頭も四肢も区別がつかなくなった肉塊がごろんと中庭に転がった。

 いま――イセリアは一切の加減を忘れ、おのれの持てる全力を傾けて敵を掃滅しようとしている。

 影たちもここに至ってようやく勝算がないことを悟ったようであった。

 戎装騎士ストラティオテスの常軌を逸した力のまえに、人間はあまりに無力だった。騎士と人間のあいだには、蟻と巨象ほどの力の差がある。そこらじゅうに撒き散らされた悽愴な人体の残骸は、動かしがたい事実をまざまざと示していた。

 「ふん、これで終わり? 言っておくけど、こんなもんで済むと思わないことね!」

 「――そこまでにしておきなさい」

 身体じゅうに返り血を浴び、ますます怪気炎を上げるイセリアのまえに、鉄仮面は臆することなく進み出る。

 「次はあんたが死にたいってわけ? だったら望みどおりに……」

 「そちらの麗しいお嬢さんにはお話したのですがね。エンリクスとデキムスは私たちが預かっています。あの二人を無事に返してほしければ、妙な真似はしないことだ」

 「なるほどね――それでその娘の身動きを取れなくしたってわけ? 卑怯者の考えそうなことだわ」

 イセリアは感心したように肩をすくめてみせる。

 そのままわずかに顔を動かし、座り込んだままのオルフェウスをみる。

 二人の少女は言葉を交わすことはなかった。ただ、萌黄色の光芒がちかちかと瞬いただけだ。

 それは目を瞬かせるより短く、見逃してしまいそうなほどかすかな意思疎通。

 それから三秒と経たぬうちに、イセリアはふいに尾を床に叩きつけた。

 巨大な鉄槌を振り下ろされたみたいな衝撃が室内を駆け抜ける。床だけでなく、壁までもがびりびりと震える。

 「何をする……!!」

 衝撃に耐えかねた鉄仮面が膝を突いたのを、オルフェウスは見逃さなかった。

 少女の身体は、ふたたび異形の騎士へと変わる。燃えさかる炎を凍てつかせたような真紅の装甲が闇を裂き、頭部に鋭い白光が迸る。

 鉄仮面が振り向こうとした瞬間、オルフェウスは加速に入っていた。

 みずからを取り巻くすべての事象が動きを止めるのを知覚する。オルフェウス自身、こうなればもはや音も光も感じることはない。加速に入る直前に視界に映ったものを記憶し、それにしたがって身体を駆動させるだけだった。

 廃墟と化した工房内を真紅の閃光が駆けめぐる。

 オルフェウスの行動は神速のうちに終始した。人間の目にはけっして捉えられない速度で周囲の影たちの心臓を次々に穿ち、最後に鉄仮面の喉元に手刀を突きつけたのだった。

 破断の掌――戎装騎士オルフェウスの最大の武器にして、彼女が最強の騎士と呼ばれる所以。

 その正体は、両の掌に配置された十六兆を超える数の微小な鋸刃の集合だ。

 いかなる物質よりも細く鋭い鋸刃は分子間構造を破壊し、触れたものすべてを分子の塵へと還元する。

 およそこの宇宙に質量を伴って存在する物質であれば、そのたおやかな掌にひと撫でされたが最期、例外なく消滅の運命をたどる。いかなる手立てを講じようとも防ぐことはできない。まさしく死神の掌であった。

 一撃のもとに心臓を消し去られて即死した影たちは、見方によれば幸運でもある。

 彼らは痛みを感じることもなく、みずからの身になにが起こったかさえ理解せぬまま死んだのだから。

 「――動かないで」

 例によって抑揚に欠けた、それでいて鬼気迫る声色であった。

 オルフェウスは鉄仮面の首筋に真紅の手刀を這わせながら詰問する。

 「……私を殺すつもりですか? 言ったはずです。それをすれば、あの二人は死ぬと――」

 「あなたは殺さない」

 「なにを……」

 はっきりと断言したオルフェウスに、鉄仮面は驚いたように反問する。

 「生きたまま、あの子のところに案内してもらう」

 言って、人差し指で軽く喉に触れる。

 破断の掌は起動していない。ただ、鋭利な装甲がわずかに皮膚を裂いただけだ。

 それでも、脅迫ブラフではない死の恐怖を味わわせるには十分だったのだろう。

 「し、知らない! 私……いいや、俺は本当は何も知らないんだ」

 鉄仮面は震える声でつぶやいた。

 「はあ? この期に及んですっとぼけるつもり? あんまり人をバカにするんじゃないわよ!」

 割り込んできたのはイセリアだ。

 戎装を解きつつ近づくと、鉄仮面の胸ぐらをむんずと掴む。

 予期せぬ衝撃を加えられたためか、その顔を覆っていた仮面がぽとりと落ちた。

 仮面の下から現れたのは、粗野な顔つきの四十男だ。顔の皮を剥がされた痕跡などない、どこにでもいる平凡な東方人であった。

 オルフェウスもようやく戎装を解き、イセリアに譲るように一歩退いての進展を見守る。

 「俺はラベトゥルに身代わりをするよう言われただけだ。本当に何も知らねえ! だから生命だけは……」

 「なるほど、影武者ってわけ。そのラベトゥルっていうのはずいぶん用心深い奴みたいね。だったら、その臆病者のタマなし野郎のところに案内してもらおうじゃない!!」

 イセリアは男の胸ぐらを掴んだまま、片手だけで高々とその身体を持ち上げてみせる。

 男は苦しげに「ああ」とも「いや」ともつかない呻き声を漏らす。

 「なに? 聞こえないわよ? 言いたいことがあるならはっきり言ってみなさい!」

 刹那、轟音とともに暗闇に一条の火線が引かれた。

 間髪をおかずイセリアの顔にぽたりとひとしずく落ちたのは、男が吐いた血ヘドであった。

 イセリアとオルフェウスは、男が狙撃されたことを即座に理解する。

 男がすでに事切れていることを確認すると、二人の少女騎士は中庭へと飛び出す。

 『東』の標準的な銃器である鉄火箭であれば、射程距離はさほど長くはない。熟達した使い手でも二百メートル先の標的に命中させるのが精一杯なのだ。

 騎士の卓越した視力をもってすれば、近傍に潜んだ狙撃手を見つけるのはたやすいはずであった。

 が――どれほど暗闇を凝視しても、狙撃手の姿は見当たらなかった。

 屋根の上、中二階、庭の隅々……射撃に好適であろうそれらの場所には、人影どころか、今しがたまで人がいた跡すら認められない。

 それも当然だ。銃弾は、二人が目星をつけた位置よりはるか遠距離から撃ち込まれたのだから。

 廃墟の奥深くに陣取った狙撃手はすでに逃げおおせている。いかに騎士といえども、その痕跡を辿ることは不可能であった。

 狙撃手の捜索を諦めたイセリアは、深く落胆のため息をついた。

 顔を上げると、オルフェウスの真紅の瞳がみずからに向けられていることに気づく。

 「さっきはありがとう、イセリア」

 「……べつに。あんたにお礼言われる筋合いないし! 勝手に勘違いしてんじゃないわよ!」

 「私はうれしかったよ。イセリアが来てくれて」

 イセリアはふんと鼻を鳴らし、オルフェウスに背を向ける。

 ――なんでか知らないけど、いまの顔だけは絶対に見られたくない!

 胸のなかに沸き起こった形容しがたい感情。それがイセリアの意識とは無関係に顔をそむけさせたのだった。

 背を向けたまま数歩進むと、イセリアは半身だけでオルフェウスに振り返る。

 「これであんたとは貸し借りなし!! 分かったわね!?」

 オルフェウスはこくりと頷く。

 「ほら、ボケっとしてないでアレクシオスのところに行くわよ!」

 二人の少女の後ろ姿は、目の前にそびえる廃墟へと吸い込まれていった。

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