第37話 少年の選択
暗い通路に足音が反響した。
灯りひとつない闇のなかに、ぼんやりと浮かび上がった人影がひとつ。
それは犬か馬みたいに荒く息をつきながら一心不乱に駆けてくる。
ときおり姿勢を崩すのは、平素の運動不足のためだけでなく、脇に大振りな包みを抱えているためだ。
「あと少し……あそこに辿り着きさえすれば……!!」
走りながら、疲労困憊の極みに達しつつある自分自身を励ますように呟く。
終点は少しずつ近づいている。
イアトロスの頭脳がはじき出した計算によれば、デフォルミスはまだアレクシオスを足止めしているはずだった。
デフォルミスはかれが丹精込めて作り上げた最高傑作とはいえ、鋼の怪物を相手に勝てるとは思っていない。何度頭のなかで計算を繰り返し、想像上の両者を戦わせても、残念ながらその結果は覆らなかった。
最強の屍徒であるデフォルミスを以ってしても時間稼ぎが精一杯となれば、自ずとかれの取るべき道も決まってくる。
これまでの研究で得られた成果を記録したありったけの資料を持ち出し、早々にこの場を脱出する。
(ケイルルゴスは助かるまい……)
イアトロスは一人取り残された同輩に思いを馳せる。
あの場に一人しか現れなかったということは、残る二人はケイルルゴスに向かったと考えてまちがいない。
気位だけは高い男だ。むざむざと司直の手にかかるくらいなら、潔く自決を選ぶはずであった。
(長いようで短い付き合いだったが、それもここまでか)
入門はイアトロスのほうがだいぶ遅かったとはいえ、ともに師のもとで切磋琢磨してきた間柄である。
なにかにつけて兄弟子として振る舞いたがり、ライバル意識をむき出しにしてくるのは煩わしかったが、それでも多少の親愛の情はある。
「――せめて安らかに眠れよ、カリム」
ぽつりと漏らしたそれは、ケイルルゴスの本名だった。
やがて走り疲れたイアトロスの膝が震えだしたころ、回廊は唐突に終点を迎えていた。
イアトロスにとっては勝手知ったる場所だ。慌てることもなく、突き当りの壁をさぐる。
どこかで歯車が噛み合う音が立ったかと思うと、壁はあっけなく奥へと引き込まれていった。
つい先ほどまで壁に覆われていた場所には、人一人がようやくくぐり抜けられる程度の亀裂が出現している。
イアトロスは迷うことなくそこに身を滑らせた。
亀裂を抜けた先に広がっていたのは、またしても地下空洞だった。
古帝国様式の列柱が巨大な天井を支え、床も壁も
それはいにしえの昔、氾濫した河水を一時的にプールするために建設された地下貯水池だ。
二つの地下空洞は、もともと一つの巨大な貯水池を形作るはずであった。なんらかの事情により完成を待たずに放棄され、帝都当局にさえ忘れ去られたまま今日に至っているのだった。
貯水池である以上、溜まった河水を外部に排出するための水路が存在している。
本来の目的で用いられなくなって久しいその水路を用いて、イアトロスは地上への脱出を図るつもりだった。
そのとき、イアトロスは柱のあいだに黒衣をまとった人影を認めた。
「おお、我が師よ!!」
イアトロスが調子外れな歓声を上げたのも無理はない。
なにしろ得体の知れぬ鋼の化け物に追い回され、ほうほうの体でここまで逃げ延びてきたのだ。
研究のためなら人を人とも思わない外道でも、自分の命は惜しい。敵を前にすれば恐怖を覚えもする。
そんな時に慕ってやまない師父を見つけたのだから、張りつめていた緊張の糸が切れかかったのも道理というものだった。
「どうか私とともにお逃げください、我が師よ。詳しい事情はあとで話します。ここに留まっていては危険なのです!!」
「……なにが危険なのだ?」
「怪物です! ケイルルゴスの間抜けめが、私たちの学び舎に怪物を招き寄せたのです!!」
ほとんど半狂乱になりながら訴えるイアトロスとは対照的に、師はあくまで落ち着き払った様子で弟子の話に耳を傾けている。
「今は私のデフォルミスが時を稼いでいます! そのあいだに師よ、私とともにこの場を逃れましょう!」
「……他の者たちはどうした」
「ケイルルゴスも他の門弟も皆死に果てました。怪物に殺されたのです!!」
「ふむ――」
「研究資料は可能なかぎり持ち出してきました。これさえあれば研究を継続できます。学び舎はまた再建すればよいではありませんか。あんな凡愚どもがいなくとも、私たち二人だけでいくらでも……」
師は返事をするでもなく、イアトロスがまくし立てるのに任せている。
転瞬、フードの奥の双眸に妖しい光が宿った。
「それは出来ない」
「出来ない? 我が師よ、それはどういう――」
イアトロスはそれ以上言葉を継ぐことができなかった。
「我が師よ……なにを……」
辛うじて吐き出した言葉とともに、唇から赤いものが一筋流れ落ちた。
ひゅうひゅうと喘鳴を漏らしつつ、イアトロスはおそるおそる視線を下に向ける。
いつのまに取り出したのか、師の手には長刀が握られている。
その切っ先はみえない。ちょうどイアトロスの心臓のあたりに吸い込まれているためだ。
するどい銀光を帯びた刀身はみるみる鮮血に染まっていく。
悪夢のような光景は、逃れようもない現実の痛みとなってイアトロスの身を苛んでいく。
「なぜ……です? 私は……あなたの後継者と……」
「少しばかり期待しすぎていたようだ。お前たちのような愚か者は、もう必要ない」
「師よ……こんな……私は……」
「お前は今日限りで破門だ、イアトロス」
師が長刀を振るって血を払ったのと、イアトロスの身体が糸の切れた操り人形みたいに倒れたのは、ほとんど同時だった。
即死に至らなかったのは幸か不幸か。みずからの肉体から湧き出た血の海に沈みながら、イアトロスはもぞもぞと手足を動かしている。
必死に何かを訴えかけようとしているようだった。
それもつかのま、最後に四肢を大きく痙攣させると、それきりイアトロスは動かなくなった。
一番弟子だったものの残骸にはもはや一瞥もくれず、師は床に落ちた研究資料を拾い集めていく。
寸法も厚さもまちまちの資料は、全部で十三冊。
そのひとつとして血で汚れていないのは、イアトロスがみせた最期の気配りだった。
と、宏大な地下空間にふいに乾いた足音が響き渡った。
音が生じたほうへ、師はゆっくりと視線を向ける。
濃灰色の闇に赤い光が浮かぶ。
足音が近づくたび、すこしずつ輪郭が鮮明になっていく。
漆黒の戎装騎士――アレクシオス。
人間とはかけ離れたその姿に、師も多少面食らったのだろう。
ほんのわずかに後じさったものの、努めて平静を保ったまま異形の騎士に向き直る。
「……そいつを殺ったのは貴様か?」
「そうだとしたら、どうする」
「知れたことだ!!」
言うなり、アレクシオスは師の鼻先に槍牙を突きつける。
先の戦いで浴びたデフォルミスの血はとうに剥落し、研ぎ澄まされた槍先は薄闇のなかで白く輝いている。
「貴様もそいつの仲間だということは分かっている。大人しくおれと一緒に来てもらうぞ。地下に隠れていられるのもこれまでだ――陽のあたる場所で裁きを受けさせてやる」
「……仲間、か」
くっく、と師は哄笑を漏らす。
「なにがおかしい!?」
「彼らがどう思っていたかは知らないが……少なくとも、私は仲間だなどと思ったことは一度もない」
「貴様がどう思っていようと知ったことじゃない。知っていることを洗いざらい吐いてもらうだけだ。まずは素顔を見せろ!!」
アレクシオスに詰問され、師はフードに手をかける。
ほんのすこし持ち上がったところで、赤茶色のものがちらと覗いた。
そしてフードに覆われた顔貌があらわになったとき、アレクシオスは言葉を失った。
「おまえ――ペトルス――」
「ほう? ……私の名前を知っているとは驚いた。怪物の友人を持った覚えはないが」
アレクシオスはなにかを言おうとして、喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
そのかわりとでもいうように、一呼吸置いて、戎装を解除する。
赤光が流れる兜は少年の顔面に、黒く艶やかな甲冑はしなやかな皮膚へと、見る間に変貌していく。それは戎装を逆行する過程にほかならない。
異形の騎士と入れ替わりに現れた黒髪の少年を目の当たりにして、ペトルスの顔にひとかたならぬ驚きの色が浮かんだ。
「君だったとはな、アレクシオスくん」
「ペトルス、なぜあんたがこんなところに……」
「それは私の台詞だよ。君たちが私たちのことを嗅ぎ回っているのは知っていたが、まさかここまで追ってくるとは思っていなかったからね」
アレクシオスの目を見据えたまま、ペトルスは淡々と言った。
その言葉はあくまで飄々としている。その声も、語り口も、よく知っているペトルスのままだ。
ただひとつの違いといえば、柔和な微笑みが消え失せていることだけだった。
「そういえば、以前こんな話を耳にしたことがある。辺境で戎狄と戦っていたのは、人ではない鋼の兵士だったと。……くだらない与太話の類と思っていたが、なるほど、君がそれだったか」
深く頷きながら、ペトルスは一人得心が行ったというように唇を歪めてみせる。それは冷たく、どこまでも酷薄な笑みだった。
「おれたちは市民をさらっていた連中を追ってここまで来たんだ。ペトルス、あんたはあいつらとどういう……」
「君ももう察しはついているだろう。すべては私が仕組んだことだ。かれらは私の手足にすぎない」
「バカな――」
「残念だが、それが真実だ。この期に及んで隠し立てをするつもりはないよ」
こともなげに言ってのけるペトルスに対して、アレクシオスはすっかり打ちのめされた様子であった。
先ほどまでと状況は何ひとつ変わっていないというのに、いまやアレクシオスのほうが追い詰められている感さえある。
「ちがう――おれの知っているあんたは、貧しい病人たちを懸命に救おうとしていた。あんなことが出来る男じゃない!!」
「なぜそう言いきれる? どちらも私であることに違いはない。君は私という人間の一面を見てそう信じ込んでいたにすぎない」
「嘘だ……」
「くどいな、アレクシオスくん」
深い溜息に続いて、ペトルスは一語一語噛みふくめるように語り始める。
「病人を診察するのも、ここでの実験も、すべては医術を究めるために必要なことだ。私にとって、それらはすべて繋がっているのだよ」
「バカな!! そんな理屈があってたまるか!!」
「ひとつひとつの臓器の働きを観察し、薬の効き目を確かめるためには、どうしても生きた人間を使った実験が必要だった。多くの尊い犠牲のおかげで、私たちの研究は飛躍的な進歩を遂げたよ」
ペトルスは悪びれる様子もなく、どこか朗らかな調子で言葉を紡ぐ。
一方アレクシオスは唇を噛み締め、肩を震わせている。
到底受け入れがたい現実に必死であらがっているようであった。
「……『帝国』の医術はたしかに優れている。だが、古帝国の時代からろくに進歩していないのも事実だ。千年前に治せなかった病は今もそのままだ。自分のためなら金を惜しまない皇帝や貴族も、民のための医術には関心がない。それなら、私たち自身の手でどうにかするしかない……」
「それとあんな怪物を作ることに何の関係がある!?」
「屍徒のことか――あれはあくまで副産物だよ。解剖中に暴れないように調合した薬が予想外の効果を発揮した。言ってみれば偶然の産物だが、おろかな弟子たちは自分好みの玩具を作るのにすっかり熱中してしまったようだ」
「そのために多くの罪もない人をさらい、あんな姿に変えたというのか……?」
「屍徒の肉体はさほど長持ちしないからね。もっとも、そのために君たちを招き寄せてしまったのは、私にも予想外の誤算だったが――」
押し黙ったまま唇を噛むアレクシオスに、ペトルスはあくまで超然とした態度を崩さない。
少年の心は折れつつある――そんな確信が、ペトルスを大胆にさせた。
「アレクシオスくん。聡明な君なら、これからどうすべきか分かるだろう」
「……おれにどうしろと言うんだ」
「私を見逃してくれないか」
ペトルスはアレクシオスの手を握ると、臆面もなく言いのけた。
「私には人々のために研究を完成させるという目的……いいや、夢がある。ここでその夢を潰えさせる訳にはいかないんだ」
「本気で言っているのか?」
「捕まれば死罪は免れないだろう。私が死ねば、これまでの研究はすべて無駄になる。研究のために犠牲になった人々が浮かばれないだけじゃない。助けることができたはずの生命まで救えなくなる。――君はそれでもいいのか?」
言うなり、ペトルスはもう一方の手で抱えていた資料をアレクシオスに手渡す。
ずっしりとした重み。ひとつひとつの資料が、途方もない歳月と労力を傾けて作成されたことを示している。
「この重さが分かるだろう。私たちがこれまで積み重ねてきた研究のすべてがここにある。私の知るかぎり、『東』にも『西』にもこれ以上の医術書は存在しないはずだ。――これは、生命の重さだよ」
アレクシオスは何も言わなかった。
返答のかわりに、黒い瞳はまっすぐにペトルスを見据える。
「……ちがう」
射すくめるみたいな冷たい視線に、ペトルスの背筋を冷や汗がつたう。
「こんなもの――おれたちの世界には、必要ない」
いつのまにか少年の指は異形と化していた。
分厚い資料の束がばらばらに引き裂かれたのは、次の瞬間だった。
この世に二つとない貴重な資料は、もはや意味をなさない紙片となり果てて、アレクシオスとペトルスのあいだに舞い落ちる。
「自分が何をしているか分かっているのか? その研究資料さえあれば、どれほどの命が救われたか――」
「そうだとしても、こんなものを認める訳にはいかない。……人はそんなものに頼らなくても進んでいける。あんたの身勝手な救いにすがるほど、人間は弱くない」
「人間でもない君が人間を語るのか?」
嘲笑するみたいに言った。
「人は君ほど強くはない。誰もがいずれ患い、死ぬ……その苦しみも理解できない君が――人間ですらない君が、人間の代弁者にでもなったつもりか?」
「関係ない」
それは血を吐くような声だった。
「おれは、人間だ。お前たちの勝手な理屈で命を弄ばれた人たちと同じ――人間だ」
少年はふたたび異形へと変じていた。
一分の隙もなく漆黒の装甲に鎧われたその身体にあって、兜みたいな顔貌に流れる赤光はひときわ目を引く。
明滅を繰り返しながら流れるそれは、とめどもなく流れ出る血涙を思わせた。
「おれと一緒に来るんだ。あんたには裁きを受けてもらう」
「裁き、か――」
アレクシオスの言葉に、ペトルスは唇を歪める。
「法も正義も、この私を裁くことなど出来はしない。私の行いが正しかったかどうかは、歴史が決めることだ」
言い終えるが早いか、ペトルスはアレクシオスに背を向けて歩きだしていた。
「……いつの日か、君は自分のしたことを悔やむだろう。数えきれないほどの生命への罪を背負って生きるがいい、アレクシオス」
「何をするつもりだ!!」
ただならぬものを感じ取り、アレクシオスは疾駆する。
「――もう遅い」
ガラスが割れる音がしたかと思うと、ペトルスの足元で炎が上がった。
先ほどイアトロスが用いたのと全くおなじ、あざやかな緑色の炎であった。
「お別れだ――君とは分かり合えると思ったが、残念だ」
アレクシオスの耳に届いた言葉は、はたして現実のものだったかどうか。
ペトルスの大柄な身体は、すでに火柱と化していた。
頭から爪先まですっかり猛火に呑み込まれ、緑炎のなかに影絵みたいな
「ペトルス! ――馬鹿な真似を!!」
全身を猛火に焼かれながらも、ペトルスは滄浪とした足取りでどこかへ向かおうとしている。骨も残らぬほどの高温のただなかにあって、まさに恐るべき精神力であった。
やがて手近な壁に近づいたところで、炎をまとった身体はぐずぐずと崩折れた。
肉体そのものが蝋と化して跡形もなく溶け落ちてしまったように見えたのは、あながち錯覚ではないだろう。
ペトルスの亡骸がすっかり焼尽するのに合わせて、緑色の炎は天井へと一気に駆けのぼる。
炎は不自然な動きを見せた。
壁から天井にかけて張り巡らされた木組みの支保工に引火したのだ。
支保工に導かれるように、緑色の炎は地下空間を縱橫に走る。
長い年月のあいだに老朽化が進んでいた木材はあっけなく焼き尽くされ、かさぶたみたいにぼろぼろと剥落する。
と、乾いた音とともに天井の混凝土に亀裂が入り始めた。
古帝国時代の混凝土は数百年もの歳月に耐える堅牢さで知られるが、この貯水池のように建設途上で放棄されたとなれば話は別だった。
本来なら完成と同時に取り外されるはずだった木々の骨組みが、辛うじてこの空間を今日まで保持していたのだ。
それを失ったいま、莫大な重量の土砂が天井を突き破るのは当然の結末だった。
「まずい……!!」
そうするうちにも、あちこちで土砂が噴き出しはじめている。
土砂は滝のように流れ込み、地下空間そのものを埋め尽くすのは時間の問題だった。
アレクシオスは踵を返し、イアトロスを追ってきた道を引き返す。
隣接する地下空間にはオルフェウスとイセリアがまだ残っているはずだ。
すみやかに二人と合流し、地下から脱出しなければならない。
(ここが崩れ落ちれば、向こうも無事では済まないはずだ――)
一心不乱に駆けていく黒騎士の背後では、押し寄せる土砂がすべてを飲み込もうとしていた。
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