第38話 帰るべき場所


 「そろそろ年貢の納め時みたいね?」

 力なくうなだれる仮面の男を見下ろしつつ、イセリアは冷たく言い放った。

 あたりにはむせ返るほどの血臭が立ちこめている。それに加えて鼻を衝くのは、常人であれば到底耐えがたいほどの腐敗臭であった。

 それも当然だ。

 つい先ほどまで二人の騎士と五十体以上の屍徒が闘争を繰り広げていた地下空洞は、地獄もかくやというほどの惨状を呈している。

 足元に散らばるのは、原型を留めぬほどめちゃくちゃに切り刻まれ、磨り潰され、粉砕された屍徒の残骸だ。赤黒い血の海のなかで肉片と臓物、脳漿が混じり合い、酸鼻きわまる光景を現出させるに至っている。

 一帯にただよう吐き気をもよおすような異臭は、もともと屍徒の体内に充満していたものが解き放たれた結果にほかならない。屍徒たちの肉体は生きながらにしてすでに腐りつつあったのだ。

 文字通りの屍山血河の只中にあって、イセリアとオルフェウスは悠然と佇立している。

 返り血で汚れてはいるものの、紅と黄褐色の甲冑には傷ひとつ見当たらない。

 ケイルルゴスが繰り出した五十体あまりの屍徒は二騎になんらの痛手を与えることもなく、一方的に殲滅されたのだった。

 「バケモノどもめ……!」

 負けじとイセリアを睨み返しつつ、ケイルルゴスは恨めしげにつぶやく。

 身を隠して指揮を執っていたケイルルゴスだが、屍徒がすべて倒されてしまえば、もはやかれを守るものはない。

 二人の手であっけなく建造物の中から引きずり出され、こうしてみじめな姿を晒しているという次第だった。

 「はん――この期に及んでバケモノ呼ばわりなんて、見かけによらずいい度胸してるじゃない。もしかして、まだ自分がどういう立場か分かってないのかしら?」

 イセリアは五指の刃をケイルルゴスに突きつけ、これ見よがしに打ち鳴らしてみせる。

 刃がもうすこしでケイルルゴスの仮面に触れるというところで、横合いから制止したのはオルフェウスだ。

 「……イセリア、駄目だよ」

 「本当にやる訳ないでしょ。こんな奴さっさと始末しちゃいたいけど、生け捕りにしろってアレクシオスに言われてるもの」

 オルフェウスは無言で頷く。

 一方のイセリアはやれやれといった風に肩をすくめながら、爪先でケイルルゴスをかるく小突く。

 「あんたも逃げようなんて思わないことね。少しでも妙な動きをしたら、その貧相な首が飛ぶわよ」

 「……この私が大人しく縛に就くと思うな」

 「また手品を使って逃げようってつもりなら無駄よ。同じ手が何度も通用するなんて思わないことね」

 「同じ手、か」

 言って、ケイルルゴスは仮面の下でわずかに唇を歪める。

 「……貴様らの力はたしかに凄まじい。だが、これで勝ったと思うなよ」

 「その格好で何を言っても負け惜しみにしか聞こえないわよ?」

 「ただの負け惜しみかどうかは、じきに分かる」

 言うなり、ケイルルゴスは唇を尖らせ、仮面越しに口笛を吹いてみせる。

 「いくら貴様らでも、あれだけの数の屍徒を相手にすれば疲労するはずだ。違うか?」

 「はあ? 何を言って――」

 と、イセリアの背後でもぞもぞと蠢動するものがある。

 血の海に沈んでいた数体の屍徒がやおら立ち上がり、ふたたび動き始めたのだ。

 どの個体もひどく損傷しているが、もともと痛覚を持たない屍徒である。手足の欠損などお構いなしに、雄叫びを上げて突撃を開始する。

 「しつこいっての!」

 イセリアは刃で縁取られた尾をしならせ、接近する屍徒を横薙ぎに薙ぎ払う。

 先頭の二体ほどが胴を両断されて倒れたと思ったのもつかの間、後続の屍徒が矢継ぎ早に襲いかかる。

 すぐさま防御の構えを取るイセリアだが、反応がわずかに遅れた。

 (……しまった!)

 異なる角度から三本の鉄棒が振り下ろされる。左右の二本は両腕で防ぐとしても、残る一本の直撃は免れない。

 「――いま、助ける」

 幻みたいなその声を、イセリアははっきりと聴いた。

 刹那、傍らに立っていた真紅の騎士の姿が突然にじんだかと思うと、その美しい姿形は影も残さずに消え失せていた。

 イセリアがふたたびオルフェウスの姿を捉えたのは、すべてが終わった後だった。

 周囲に殺到していた屍徒は、まるで最初から存在していなかったみたいに跡形もなく消滅していた。

 オルフェウスは加速に突入すると同時に、”破断の掌”で屍徒の肉体すべてを無に帰したのだった。

 最強と最速――二つの異能が揃って初めて実現する離れ業であった。

 およそ理解の及ばない現象を目の当たりにしたケイルルゴスは、ほとんど放心状態に陥っている。

 「イセリア、大丈夫?」

 オルフェウスは例によって抑揚のない声で問いかける。

 「……助けてくれなんて一言も言ってないんだけど」

 「いいよ。私が勝手にしたことだから――」

 言い終わらぬうちに、オルフェウスはその場に倒れ込む。

 最強の騎士も完全無欠ではない。

 ふたつの能力は、いずれも桁違いの威力に相応しい甚大な消耗を強いる。

 事実、オルフェウスの体力はこれまでの屍徒との戦いですでに限界に近づきつつあった。

 複数の敵との長時間に及ぶ戦闘は彼女自身にとっても未踏の領域であり、それゆえに配分を誤ったということもある。

 そのうえで駄目押しとばかりに能力の同時使用を強行すれば、わずかに残っていたエネルギーが完全に払底したのも道理だった。

 真紅の甲冑の騎士は、見る間に亜麻色の髪と白皙の肌の少女へと変じていく。

 もはや戎装を維持することも出来なくなっているのだ。

 イセリアは駆け寄り、半ば血の海に浸かったその身体を抱き起こす。

 「バカ!! 何やってんのよ!?」

 「……あの人の言ってたこと、当たってたね」

 「冗談じゃないわ! あんた、よりによってこんな時にバテてんじゃないわよ!!」

 「私……大丈夫……だから……」

 途切れ途切れに言葉を紡ぐあいだにも、真紅の双眸はゆっくりと閉じつつある。

 オルフェウスの肩を揺さぶりながら、イセリアは奇妙な違和感を覚えていた。

 気のせいなどではない。戎装騎士の感覚器は、確実に異変の予兆を告げていた。

 まもなくどこかでずうんと鈍い音が生じたかと思うと、地面と言わず壁と言わず、地下空間そのものが鳴動を始めた。

 はじめはごく小さな振動から始まったそれは、数秒とたたないうちに激しい縦揺れに変わる。

 「あんた、何かしたんじゃないでしょうね!?」

 「ち、違う! 私にこんなことが出来ると思うか!?」

 語気鋭く詰問するイセリアに、ケイルルゴスはしどろもどろになりながら答える。

 もう一方の地下空洞が崩落を起こしたためだとは、むろんこの場の誰一人として知る由もない。

 そうするあいだにも頭上からはひっきりなしに大小の岩石が落下し、背後の建造物群の壁にはヒビが入り始めている。

 (このままここにいたら、あたしたちも危ないわね……)

 今はまだ致命的な崩落に至っていないが、この空間がまもなく消滅するのはだれの目にもあきらかだった。

 現状での最善策が早急にこの場所から脱出することだとは、当然イセリアも承知している。

 それでも一向にこの場を動こうとしないのは、むろん理由がある。

 「敵の退路を断つ」――そう言って先ほどから別行動を取っているアレクシオスが戻らない以上、自分たちだけがここを離れる訳にはいかないのだ。

 「何をしている!? このままではお前たちも死ぬぞ!」

 「うっさいわね! あんたは黙ってなさい!!」

 「貴様らがどうなろうと勝手だが、巻き込まれるのはごめんだ! バケモノと心中など冗談じゃない!!」

 ケイルルゴスはほとんど半狂乱になって喚き立てる。

 二人の騎士を相手にすっかり足のすくんでいたケイルルゴスだが、差し迫った生命の危機は恐怖心を塗りつぶしたらしい。

 イセリアの制止も聞かず、鳥面の男は脱兎のごとく駆け出していた。

 絶え間なく揺れる地面にたびたび足を取られつつ、ケイルルゴスは地下道の入口に向かって全力疾走する。

 幸いと言うべきか、イセリアも積極的に追いかけるつもりはないようだった。

 ケイルルゴスは脇目もふらず走りつづける。

 もはやイアトロスや他の門弟がどうなったかなどは思考の埒外だ。生き残る。ただそれだけに意識のすべてを集中させる。

 もしこの時、多少なりとも周囲に注意を払っていれば、あるいは折悪しく天井から落下してきた巨岩を回避することも可能だったかもしれない。

 はたと我に返った時には、かれの右半身は巨岩にすっかり潰された後だった。

 「がはっ――!!」

 抜け出そうともがくほど、ますます苦痛は増していくようだった。

 手足はすでに使いものにならなくなっていたが、焼けつくような激痛だけは律儀に脳へと送られ続けているのだ。

 「ばかな……この俺がここで死ぬはずがない……! お助け下さい、師よ……! 我が師よ……!!」

 ケイルルゴスはうわ言のように師を呼び続ける。その師がもはやこの世にいないことなど知りもせず――

 「いやだ……死にたくない……先生――」 

 仮面の下で澎湃と涙が溢れる。

 頬を伝った末期の涙は、潰れた臓腑からこみ上げた血の色に呑まれて失せた。

 「――だから止めたのに。まったく、勝手に飛び出して死ぬようなバカの面倒まで見きれないわ」

 もはやぴくりとも動かなくなったケイルルゴスを一瞥し、イセリアは心底呆れた様子で吐き捨てた。

 揺れはさらに激しさを増している。壁と天井はますます崩落が進行し、床は崩壊した下層空間に引きずり込まれるようにして傾きはじめている。

 背後の施設は、ほとんど崩れかかりながら辛うじて原型を保っているという有様だった。

 と、施設のなかから飛び出してくる影がある。

 「アレクシオス!」

 その姿を認めたとき、イセリアは感極まって叫んでいた。

 推進器を巧みに用いて倒壊した建物を飛び越えつつ、アレクシオスは二人の少女騎士の眼前に着地する。

 どちらともなく戎装を解いたのは、もはや戦うべき敵が存在しないことを察したからだ。

 「無事だったか。――オルフェウスはどうしたんだ」

 「心配いらないわ。疲れちゃって眠ってるだけ」

 「ここもじきに崩れる。オルフェウスはおまえが連れて行ってやれ。力仕事は得意だろう」

 イセリアは複雑な表情を浮かべてオルフェウスを見る。

 むろんこのまま置き去りにするつもりなどない。だからといって、二つ返事で承諾すれば、自分のなかで何かが決定的に変わってしまう気もする。

 危ういところを助けられた直後ならなおさらだ。

 二人のあいだに何があったかなど知る由もないアレクシオスには、そんなイセリアの心の機微を察する余裕はなかった。

 「おまえがやらないなら、おれが……」

 「いい――あたしが連れてく!!」

 イセリアはオルフェウスをひょいと抱き上げると、地下道に向けて走り出した。

 アレクシオスは並走しながら、巨岩に押し潰された亡骸に目をやる。

 「……おい、あれは」

 「言っとくけど、やったのはあたしじゃないわよ? 落ちてきた石に潰されて死んだんだから! 自業自得よ、自業自得!!」

 「べつに責めている訳じゃない。……死なせてしまったのは、おれも同じだ」

 アレクシオスは消え入るような声で付け加える。

 結局、犯人を生け捕りにするという当初の目的は失敗に終わった。

 生き残った者がいる可能性も否定できないが、そのすべてを把握することは難しい。ペトルスと弟子たちがそうであったように、一般人として世間に紛れているとなればなおさらだ。

 せめてもの救いは、研究資料とともに屍徒を作り出すノウハウも消滅したことだ。

 人を人ならざる存在へと変える忌まわしい外法は、それを編み出した者たちの頭脳とともに失われた。

 非道な実験よって得られた成果の数々は、地下空洞の崩壊とともに地底へと葬られる。ペトルスがひそかに積み重ねてきたものは、誰にも知られることなく埋葬されるだろう。

 (……本当にこれでよかったのか)

 おのれの選択を振り返るたび、アレクシオスの胸中に疑問の影がよぎる。

 ペトルスが選んだ方法はとても容認できるものではなかった。

 それでも、病に苦しむ人々を救うという目的はまちがいなく正義であるはずだ。

 あの研究資料があれば、病苦にあえぐ多くの人々を救えたかもしれない。

 アレクシオスは自分ひとりの判断でそれを否定し、跡形もなく破壊した。

 独断だ。あえて口外しなければ、他の誰かに知られることもない。だからこそ、すべての責任が自分ひとりにのしかかる。

 ペトルスが言ったように、自分は救えるはずだったすべての生命に対して罪を背負ったのではないか? ――

 考えるほど疑問は尽きない。

 そのすべてに納得の行く結論こたえを出すことは、途方もない試みのように思われた。

 鬱々とした想念をふり払うように、アレクシオスは顔を上げる。

 「帰ろう――おれたちの居場所へ」

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