第39話 エピローグ

 この季節にしては珍しく、好天に恵まれた日だった。

 吹きすさぶ寒風は骨まで凍てつかせるようだが、降りそそぐ陽光にはまだ遠い春の気配がある。

 時刻はまもなく正午を回ろうとしている。

 採光窓から差し込む日差しに眩しさをおぼえて、青年は目を細めた。

 青年がひとり佇む部屋は、個人が起居する空間にしてはやけに広々としている。

 貴人の住居らしく、華美な装飾は抑えながらもすみずみまで手抜かりなく整えられている。

 どうやら書き物をしていたらしい。机の上には書きさしの文が広げられている。

 ふいに筆を置いてバルコニーに出たのは、あるいは単なる気まぐれであったのかもしれない。

 手すりにもたれかかりながら、青年の鳶色の目ははるか彼方に向けられていた。

 眼下には帝都イストザントの市街と、街を取り囲む長大な城壁がある。さらにその先を見渡せば、枯れ草色の沃野が茫々と広がっている。

 帝都盆地の全景がこうもくっきりと見えるのは、一年を通して最も大気が澄んでいる冬のあいだだけだ。

 もっとも、季節の如何を問う以前に、この眺望はだれにでも開かれている訳ではない。

 百万を超える帝都の市民は、みずからが暮らす街の全景さえ知らずに生涯を終えるのが常だ。いま青年の目に映るのは、選ばれた者だけに許された景観だった。

 帝都の最奥部、そり立つ山肌を開削して築かれた巨大な山城――帝城宮バシレイオン

 青年の居室は、皇帝とその家族が起居する宏壮な御殿の一角にある。

 「――こんなところに長居をなさるとお風邪を召しますよ、殿下」

 背後から声がかかった。

 青年はゆっくりと振り返る。ほんの一瞬前まで何もなかったはずのバルコニーの一隅で、赤銅色の髪が風に揺れている。

 「相変わらず心配性だな、ラフィカ」

 「ご自分がこの国の将来を背負って立つ方だということをお忘れなく。御父上だけでなく殿下にまで何かあれば、それこそ一大事ですよ?」

 「そうなれば飛び上がって喜びそうな顔はいくらでも思い浮かぶな」

 冗談めかした口ぶりに反して、青年の目は笑っていない。

 それも一瞬のことだ。青年はふっと口元を緩めると、

 「さいわい今日は春のようにあたたかい。それに、いにしえの太祖皇帝は敵を追って真冬の河を渡ったという。その頑健さに余もあやかりたいものだ」

 たくましい腕を広げて、胸いっぱいに冷え冷えとした空気を吸い込んだ。

 大柄な西方人のなかでも図抜けた長身には、匂い立つような高貴さと無頼漢のごとき豪胆さが同居している。

 『東』の皇太子――ルシウス・アエミリウス・シグトゥスその人だ。

 あくまでのんきなルシウスにラフィカもこれ以上物を申す気にもなれず、ぽりぽりと頭を掻くばかり。

 「……それで、例の件は片付いたのだったな」

 「騎士たちが上手くやってくれました。いくつかの街区で地面が陥没した他には、とくに目立った被害もありません」

 「そうか」

 ルシウスは短く言うと、ふたたび視線を城下に向けた。

 ルシウスが帝都で頻発する行方不明事件の背後に尋常ならざるものを感じ取ったのは、そう昔のことではない。

 例によってひそかに宮殿を抜け出て城下の歓楽街に遊んだ折、何人もの女たちに身内をさらわれたと泣きつかれたのだ。

 遠回しに帝都の治安維持を担う中央軍に捜査を打診したが、のらりくらりとかわすばかりで、まともに取り組む気がないのはあきらかだった。

 (仕方のない連中だ――)

 こうした中央軍の怠慢に関して、ルシウスはなかば諦観している。

 中央軍は皇帝の直属軍という性質上、将校から末端の兵士に至るまで西方人だけで構成されている。将兵のなかには名だたる名門貴族の子弟も少なくない。

 上流階級の出身であるかれらが軍人を志す理由は、ひとえに出世の下地作りのためだ。官職を得るまでは重要でも、その後何をするかはさして重要ではない。

 泥にまみれて地道な捜査を行い、時には危険を冒して犯人を逮捕するなど、富貴の生まれである自分たちのすべきことではない――中央軍の将兵には、そのように考えている者が大多数を占めている。

 そのため、実際の捜査はもっぱら嘱託の下級官吏に委ねられるが、模範を示すべき上役がそのようでは芳しい成果など期待できるはずもない。

 ルシウス直々の意向であることを伝えれば中央軍も本腰を入れただろうが、それができない事情もあった。

 皇太子という立場を考えれば、市井の一事件に介入するのはあまりに軽率と言わざるをえない。

 東方辺境での一件からさほど時間が経っていないこともある。奔放不羈を地で行くルシウスも、すべてが思い通りに行く訳ではないのだ。

 あれこれと思案した末、先だって帝都に呼び寄せたまま処遇を決めかねていた騎士たちに白羽の矢が立ったという次第だった。

 「しかし、こうも早く解決してくれるとは思わなかったぞ」

 「まったくです。私も協力しようかと思いましたが、どうやらその必要もなかったようで」

 「おかげで懸案がひとつ消えた。……が動き出す前に、帝都の問題は片付けておきたいからな」

 ルシウスはひとつ大きく伸びをすると、ふたたび居室へと戻っていく。

 その背中を追うように、正午を告げる鐘が響き渡った。

 やがて鐘が鳴り終わったころには、ラフィカの姿はバルコニーのどこにも見当たらなかった。


 あの夜の出来事から、すでに五日が経っている。

 騎士庁ストラテギオンの詰め所には、早くも日常が戻ってきていた。

 アレクシオスはぱらぱらと手元の書類をめくりながら、あの日の記憶をいま一度思い起こす。

 崩壊する地下空間からすんでのところで逃げおおせた三人を待っていたのは、武装した中央軍の兵士たちだった。

 すでに夜も白みはじめた時刻である。ドブ川沿いの小路に散乱した屍徒の残骸を見つけた周辺の住民が通報し、当直で詰めていた兵士たちがおっとり刀で駆けつけたのだった。

 普段の犯罪捜査には消極的な中央軍ではあったが、血と臓物と肉片が盛大に撒き散らされた地獄絵図のごとき光景を目の当たりにしては話は別だ。戦争を知らない坊ちゃん育ちの兵士たちはすっかり動転し、上を下への大騒ぎになった。

 そこへ全身返り血にまみれたアレクシオスたちが地下から現れたのだから、一触即発の事態へと発展したのは当然だった。

 アレクシオスたちにしても、大勢の兵士に囲まれて居丈高に尋問されるのはたまったものではない。

 イセリアなどは腹に据えかねたあまり、


 ――どうせ血まみれなんだし、あいつらもシミのひとつにしてやろうかしら?


 聞こえよがしに兵士たちを挑発しはじめる始末だった。

 アレクシオスが必死で止めていなければ、本当に乱闘を始めていたにちがいない。

 緊張が頂点に達しようとしたそのとき、両者のあいだに割って入ったのはラフィカだった。

 「かれらは皇太子殿下の命を受けています」

 目の前で皇太子ルシウスの発給した文書を広げられては、中央軍としても強硬な態度に出るわけにはいかない。以後の捜査は中央軍が引き継ぐことを条件に、騎士たちはようやく解放されたのだった。

 ラフィカに伴われて詰め所に戻った三人は、ヴィサリオンに事件の顛末のすべてを報告した。

 そして――すべてが終わったあと、アレクシオスは泥のように眠りつづけた。

 騎士は睡眠を必要としない。人間のように睡魔に襲われることもなく、その気になれば一月だろうと眠らずにいることもできる。

 にもかかわらず、かれらには「眠る」という機能が備わっている。

 睡眠という営みには、たんに肉体の疲労を除去する以上の効能があるからだ。

 丸一日あまり経って目覚めたとき、アレクシオスは不思議と心が穏やかになっていることに気づいた。

 鋼の身体を持つ騎士も、精神は人間と変わらない。あまりにも大きすぎる悲しみや衝撃を受け止めるためには、いっとき思考を手放す必要がある。

 重すぎる選択を強いられた少年にとって、それはほんのひとときの安らぎだった。

 それでも、疲弊しきった心がすっかり晴れやかになった訳ではない。

 苦悩の残滓は、アレクシオスの心に澱のように沈み込んだまま今日に至っている。


 「……それにしても、おれたちだけというのは久しぶりだな」

 書類を脇にどけながら、アレクシオスは正対する席の青年に声をかけた。

 ヴィサリオンは「ええ」と微笑んで、茶を一口すする。

 部屋はやわらかな日差しに満たされている。冬らしからぬぽかぽかとした陽気だった。

 イセリアとオルフェウスはすこし前から出かけている。

 昼食を買いに出ると言って出ていった二人だが、それにしては時間がかかりすぎている。よほど遠くまで足を伸ばしたか、どこかで寄り道をしているにちがいなかった。

 「あのふたりも仲良くなってくれたようで何よりです」

 「それは……どうかな」

 「そうでしょうか? 近ごろだいぶ距離が縮まってきたように見えますが……」

 「女同士のことはおれにはさっぱりだ」

 アレクシオスはしばし所在なげに頭を掻いたり、机に肘をついてみたりしたが、やがて改まった様子でヴィサリオンのほうに向き直った。

 「なあ、ヴィサリオン。ひとつ聞きたいことがある」

 アレクシオスの目はいつになく真剣だった。

 「正しい目的――実現すれば大勢の人のためになるような、そんな目的だ。それを叶えるにために必要なら、間違ったやり方を認めるべきだと思うか?」

 「……それはまた、難しい質問ですね」

 ヴィサリオンは茶碗を置きつつ、顎に手を当ててしばし沈思する。

 「私は認めるべきではないと思います」

 「なぜだ?」

 「たとえ正しいことのためでも、間違った行いが帳消しになる訳ではありません。それでもなすべきことがあるというなら、それは自分ひとりが背負うべき問題です」

 「誰かに認めてもらえるかどうかは重要じゃない……と?」

 「そういうことです。他人にそれを求めた時点で、もう自分の行いを肯定しきれなくなっているのでしょう。だれかの承認がなければ進めないなら、最初から間違ったやり方に手を染めるべきではありませんからね」

 アレクシオスは机に突っ伏すと、長く息を吐いた。

 「……ありがとう、ヴィサリオン」

 「どういたしまして」

 それきりふたりは無言になる。

 窓からはうららかな陽光が差し込み、テーブルにまだらの影を落とす。

 二人きりの部屋にふたたび穏やかな時間が流れはじめた矢先、

 「いま戻ったわよ!!」

 勢いよく扉を開け放ったのはイセリアだ。

 「……おまえ、もう少し静かに入ってこれないのか」

 「悪かったわね、どうせあたしはどこかの誰かと違ってガサツよ」

 イセリアに続いて、が部屋に入ってきた。

 首元には朱鷺色の襟巻が巻かれている。出ていくときには身につけていなかったものだ。

 やわらかなその色彩は、オルフェウスの亜麻色の髪と白皙の肌によく映えた。

 「自分で買ったのか?」

 アレクシオスに問われて、オルフェウスはふるふると頭を振った。

 「さっき、イセリアが買ってくれた」

 「あいつが? いったいどういう風の吹き回しだ? ……まさか、また何か企んでいるんじゃないだろうな」

 アレクシオスはちらとイセリアを見る。

 「……べつに何も企んじゃいないわ。単なる気まぐれよ、気まぐれ。この前のやつよりはマシでしょ」

 「前のも嫌いじゃなかったよ。――でも、ありがとう。イセリア」

 イセリアは「ふん」と横を向く。

 気恥ずかしさから顔をそらしたようにも見える挙措だった。

 二人の少女のあいだに何があったのか、アレクシオスには知る由もない。

 それでも、何かが変わったことはわかる。

 すくなくとも、以前よりはよい方向に――

 と、正午を告げる鐘が遠くで鳴った。

 「さあ、みんな揃ったところでお昼にしましょう」

 あたたかな光のなかで、一人の人間と三人の騎士はひとつの食卓を囲む。

 それは季節外れの小春日和のこと。

 冬の帝都に訪れたささやかな祝祭のような日は、ゆるやかに暮れていくのだった。


 【第二章 完】

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