第三章:玉座争乱編

第40話 今際の願い

 夜気がふいに重さを増した。

 濃い死の匂いをはらんだのだ。

 匂いの根源を辿ってゆけば、一人の男に行き着く。

 男の生命は尽きようとしていた。

 それだけなら、特段珍しいことでもない。

 この国では今日も数えきれないほどの人間が死出の旅へと立ち、また一方では同じだけのあらたな生命が呱々の声を上げているのだから。

 男のとしは七十をいくらか過ぎている。

 七十といえば、世間では老翁と呼ばれて然るべき年齢だ。

 五十にも満たないこの時代の平均寿命を考えれば、およそ天寿を全うしたと言えるだろう。

 男が身を横たえているのは、天蓋付きの豪奢な寝台であった。四方は薄地の御簾ぎょれんに囲われている。

 寝台の大きさに比べると、やせ衰えた肉体の矮小さはいっそう際立った。

 皮膚はすっかり艶を失い、ほとんど土の色に近い。

 すっかり肉の削げた身体つきとあいまって、横たわる姿は枯木を彷彿させた。

 男の体内にはさまざまな病根が巣食い、宿主に残ったわずかな精気を根こそぎ喰らい尽くそうとしている。死病とは、あるいは病それ自体の自滅に巻き込まれることを言うのかもしれない。

 浅い呼吸に合わせて、肋骨の浮いた胸が弱々しく上下する。

 生命を保つための最低限の動作ですら、男にはひどい疲労をもたらすようであった。

 時刻は夜半をすぎたころ――夜明けまでは、まだたっぷり時間はある。

 この夜、男は一睡もしていなかった。

 眠りたくても眠れないのだ。身の内からじわじわと湧き上がる抑えがたい苦痛は、男にひとときのまどろみすら許さなかった。

 最期の時はゆっくりと、しかし着実に近づきつつある。

 いまこの瞬間にふいに息を引き取ったとしても、なんら不思議はない。

 男の生命をかろうじて繋ぎ止めているのは、強靭な意志の力だった。


 男が病に臥せったのは、一年前の秋の暮れのことだった。

 左の脇腹に生じた豆粒ほどのしこりは瞬く間に肥大し、数ヶ月ののちには拳ほどの大きさになった。

 余暇には供回りを大勢引き連れて巻狩りに出ていた男が、おのれの意志で立つことすらままならない身体に成り果てるのにさほどの時間はかからなかった。

 発病から現在まで、『東』の全土から数多の名医が招聘され、昼夜を分かたず懸命に男の治療に当たってきた。

 医師団は希少な薬を惜しげもなく投与し、望みうる最高の技術を以って男の平癒を期した。

 だが――

 薬石効なく、男の体は日ごとに病魔に蝕まれていった。

 恐るべき速度で進行する病の前に、人間の力はあまりに無力だった。

 ある時期を境に、最高峰の医療は快癒のためでなく、その日をすこしでも先延ばしにするために費やされるようになった。

 本来であればとうに尽きているはずの男の命はそうして延長され、今日に至っている。


 男が右手を上げた。ほとんど骨と皮だけになった手を。

 すかさず駆けてきた若い従僕に、男はちいさな声で何かを呟く。

 従僕は一瞬驚いたような表情を浮かべたのち、男に命じられたとおりに文箱を枕頭に置く。

 男は、やはり従僕に命じて小ぶりな文机を寝台の上に持ってこさせる。

 絶えまなく全身を苛む痛苦に顔を歪ませながら、男はのっそりと上体を起こす。

 そして荒い息をつきながら、ゆるゆると筆を走らせはじめた。

 従僕が驚いたのも無理はない。男が手ずから筆を取るのは、よほど珍しいことであった。

 男の名はイグナティウスといった。

 イグナティウス・アエミリウス・シグトゥス――

 『東』の第四十三代皇帝にして、世界の半ばまでをうしは至尊者アウグストゥス

 ややあって、皇帝は筆を置いた。

 置くというより、それはほとんど取り落とすような動作であった。

 そして老皇帝は乱れた呼吸をひとしきり整えると、

 「……あの者たちを呼べ」

 蚊の鳴くような声で呟いたのだった。

 わずかな時が流れた。ふいに御簾の向こう側で影が揺らいだ。

 つい先ほどまで何もなかった空間に、降って湧いたように現れた影は三つ。

 そのうち二つはほとんど同じ上背だが、一つはやけに小さい。

 「お呼びですか――皇帝陛下」

 御簾越しに涼やかな声が上がった。若い女の声だ。

 「騎士ストラティオテスアグライア、御命により参上いたしました」

 「同じく、騎士タレイア――」

 続いて上がったのも、やはり女の声だ。

 一人目の女性らしい柔らかな声色とは対照的に、こちらは凛とした気勢が漲っている。硬骨な武人の声であった。

 間髪をいれずに三人目――ひときわ小さな影が名乗ろうとしたところで、

 「……エウフロシュネーをこれへ」

 皇帝の声が遮った。

 名指しされたのがよほど意外だったのか、小さな影はまるで叱られたみたいに肩をすくめる。その様子は御簾越しにもはっきりと見えた。

 「エウフロシュネー。今から私が言うことをよく聞きくがいい。これはお前にしか出来ぬことだ――」

 皇帝が言葉を絞り出すのに合わせて、小さな影は何度も首を縦に振る。

 病床の皇帝は何事かを語り、エウフロシュネーは御簾の向こう側でひたすら皇帝の言葉に耳を傾けた。

 やがてすべてを語り終えると、皇帝はしずかに瞼を閉じた。

 眠りについたのだ。目覚めればふたたび耐えがたい苦痛に苛まれることを思えば、それは一時の救いとさえ言えるかどうか。

 皇帝が眠りにつくのを見届けると、三つの影はまるで最初から幻だったみたいに霧消した。

 いや――消えたのは影だけではない。

 つい今しがた皇帝が手ずからしたためた書状も、忽然と消え失せている。

 静寂を取り戻した皇帝の寝室にはふたたび死の気配が充溢しはじめた。

 折しも夜が最も暗く、冷たくなる時分のことであった。

 夜明けはまだ遠い。

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