第115話 帝都の一番長い夜
もともと
昼から続く浮かれ騒ぎは、夜半を過ぎても一向に終熄する気配はない。それどころか、夜が更けるにつれて喧騒の度合いはいっそう激しくなっていく感さえあった。
あちこちで高らかに楽器が弾き鳴らされ、この時間になっても酒楼はどこも満席だ。あぶれた酔っぱらいが道ばたで宴会に興じているせいか、大通りの空気を吸うだけで酔っ払ってしまいそうになる。
ばか騒ぎを演じているのは帝都の住民だけではない。
新皇帝をひと目見るためにはるばる帝都までやってきた遠来の旅人たちも、旅の恥はかき捨てとばかりに大胆になっている。初対面の人々とまるで永年の友人であるかのように酒を酌み交わし、肩を組んで
抜け目のない商人たちはここぞと店を開け、財布の紐がゆるんだ客を相手に終夜の商いに励んでいる。
市中を巡回する中央軍の兵士たちも、昼間と同様、よほど羽目を外しすぎていないかぎりは見て見ぬふりをする。
普段は高圧的な態度で市民に接している彼らも、今日くらいはせいいっぱい粋に振る舞おうとしているらしい。
市民の側もそれを知悉したうえで、仕事中の兵士にしきりに酒や料理を勧めては、わざとらしく残念がってみせる。日頃の抑圧に対する意趣返しも、やはりどこか微笑ましい。
官と民。
そして、西方人と東方人。
この『帝国』をつらぬく残酷な原理――支配する側と支配される側という構図さえ、いまだけは霧消したようであった。
もっとも、そんな特別な日も今夜かぎりだ。
明日からはなにもかもが普段どおりに戻る。お目こぼしは
それを知っているからこそ、過ぎ去っていく一瞬を惜しむように、誰もが刹那の快楽に溺れているのだ。
祝祭の夜が醸し出す駘蕩たる雰囲気に浸りきり、したたかに酔いしれた人々は、むろん知る由もない。
夢のごとき宴に沸くその裏で、帝都に最大の危機が迫っていようとは――。
***
同時刻、
皇帝の正装に身を包んだルシウスの前には、主だった重臣たちが跪いている。
エウフロシュネーが帝都に急報をもたらしたのは、いまから一時間あまりも前のことだ。
すでに寝所に入っていたルシウスは跳ね起きると、文武の重臣をただちに帝城宮に召集したのだった。
緊急の会議が始まってすでに十五分ほどが経っている。
どうやら早くも結論は出たらしい。息も詰まりそうな重苦しい空気が広間を包んでいる。誰もが何かを言わねばならないと思いながら、みな皇帝を前に遠慮しているといった風にもみえる。
ややあって、ためらいがちに口を開いたのは、口髭をたっぷりとたくわえた五十がらみの屈強な男だ。
軍権を司る
全軍を統括する最高司令官というだけあって、いかにも文官然とした他の重臣とはあきらかに異質な迫力をまとっている。
「皇帝陛下、どうあっても帝都に留まるおつもりですか」
「余はそう言ったはずだ」
「ならば、せめて中央軍に出陣をご下命ください。親衛隊とともに帝都の防衛を――」
「ならぬ」
ルシウスは大司馬の目を見据えると、きっぱりと言い切った。
「敵が
「しかし、このままでは御身の安全に障ります。勝てないにせよ、敵が攻め入ってくると知りながらむざむざ座視する訳には……」
「『我が騎士たちに任せよ』――」
ルシウスは大司馬を見据えたまま、よく通る声で言った。
「……つい今しがた、余はたしかにそのように命じた。ひとたび余の口を出た言葉は二度と覆らぬ。それはそなたもよく承知しているはずだ。それとも、三度までも同じことを言わせるつもりか?」
ルシウスの言葉はにわかに冷たい響きを帯びている。
大司馬の額からひとすじ汗が流れた。最初の一滴が髭を濡らして落ちたそばから、汗の玉は次から次へと吹き出て、止めようにも術がない。
相手は皇帝とはいえ、まだ即位して間もないうえに、年齢は親子ほども離れている。
政務のいろはも知らぬひよっ子のうちは嫌でも臣下を頼らざるをえまい……参内するまでひそかに抱いていたうす甘い期待は、いまや跡形もなく打ち砕かれている。
こうして鳶色の鋭い双眸に見つめられているだけで、大司馬は身体の芯から徐々に凍りついていくようだった。
「では、市民の避難は……」
「その必要はない」
「それでは、このまま何も知らせずにおけと?」
「この真夜中に避難を命じたときの混乱を考えてみるがいい。秘しておくことが被害を最小限に留めることになる」
動揺を隠せない大司馬に対して、ルシウスはにべもない。
青年皇帝はおのれの見立てに寸毫ほどの疑いも抱いていないようだった。
首都防衛を第一の任務とする中央軍としては面子を潰された格好になる。それもほかならぬ皇帝の叡慮とあれば、大司馬もこれ以上食い下がるつもりはなかった。
「城外での迎撃も不要だ。そのかわりに大城門を固く閉ざし、夜明けまで誰も城外に出さぬようにせよ。……そなたらは配下に余の意向を伝え、くれぐれも騎士たちの邪魔立てをせぬよう取り計らえ」
「御意のままに――」
「余からはそれだけだ。そなたらはもう下がって構わぬ」
言われるがまま、大司馬は青白い顔を引っさげて玉座の間を辞する。
広間を埋めていた重臣たちもぞろぞろとその後に続いていく。
ルシウス以外のすべての人間が退出し、寂と静まり返った玉座の間に、ふいに気配が生じた。
「本当にあれでよかったんですか?」
赤銅色の髪を揺らしながら、ラフィカは玉座の裏からひょっこりと顔を出した。
ルシウスは振り向くこともなく、前を向いたまま言葉を返す。
「人間が出張ってどうなるものでもあるまい。騎士の力はよく知っているつもりだ」
「ええ、まあ、それは私も同感ですけど……」
「もし我が騎士たちが敵の足止めに失敗したなら、その時はその時だ。在位期間が最も短い皇帝として歴史に名を残すのも悪くない」
「お言葉ですが、陛下――」
ラフィカは咳払いをひとつすると、いかにも重大そうな口ぶりで言った。
「在位の最短記録はすでに超えています。玉座に座る前に暗殺された皇帝が三人ほどいたのをお忘れですか?」
「いま死んだとしてもせいぜい四人目が関の山か。それではつまらんな」
「そのとおりです。どうせ目指すなら、歴代最長在位のほうがずっといいですよ」
「何年かかる?」
「私の記憶が間違っていなければ、あと八十年ほどお元気で過ごされれば十分かと」
ルシウスは小さく笑い声を漏らす。
玉座の上で見る影もなく老いさらばえた自分自身の姿を想像したためであった。
そのときまで座るべき玉座があればいいが――とルシウスは心のなかで呟く。
「なあ、もしヘラクレイオスがここまで攻めてきたら、おまえは奴と戦うのか?」
「もちろん。それが護衛である私の仕事です」
ラフィカはこともなげに言う。
ルシウスの背中を見つめる瑠璃色の瞳は、いつになく冷たく澄み渡っている。たんなる軽口ではないことの証左だ。
剣の奥義を極めたラフィカでも、戦う前から死を覚悟するほどの相手なのだ。
「しかし、いくら私でも、
「あまり無理はするな。おまえに死なれると、余も困る」
「担ぎ上げられないと誰が言いました?」
いつのまにか、ラフィカは玉座の前に回り込んでいる。
そして、ルシウスの顔を覗き込み、小柄な護衛はふっと相好を崩す。
「もちろん、まともにやりあえば私も無事では済まないでしょうけど。あなた一人をお逃しするあいだくらいは、見上げるほどの
「余がおまえを捨てて逃げると思うか?」
「あなたはそういうときに迷わない人だと信じていますよ。殿下――いいえ、皇帝陛下」
ルシウスは否定も肯定もせず、ただ黙って瞼を下ろしただけだ。
わずかな時間が流れ、ルシウスがふたたび目を開けたときには、ラフィカの姿は幻みたいに消え失せていた。
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