第32話 暗夜開戦

 寒風が骨に染み入るような夜だった。

 普通の人間であれば、こんな晩に好き好んで外出しようという気にはならない。

 往来を行く人々が普段よりずっと少ないのも道理であった。

 「……なんであたしがこんな目に……」

 人もまばらな路地をとぼとぼと歩きながら、イセリアはひとりごちた。

 (あいつ……運のいい娘!!)

 オルフェウスの顔を思い出し、イセリアは忌々しげに歯噛みする。

 結局、最後にクジを引くことになったイセリアが順当に”ハズレ”を掴んだのだった。

 当然やり直しを訴えたイセリアだったが、アレクシオスにすげなく一蹴されたのは言うまでもない。

 「あたしがどうなってもいいの!? 怪しい連中に捕まって手篭めにされちゃうかもしれないのに!」

 涙声を作りながらなおも食い下がるイセリアだったが、

 「おまえを手篭めに出来る人間がどこにいる。おれたちも離れないようについていく。――もし危ないと思ったら戎装しろ」

 アレクシオスはそれだけ言うと、さっさと詰め所を出立したのだった。

 歩きつつ、イセリアはときおり背後を振り返る。

 そのたび、さっと脇道に身を隠す人影が二つほど目についた。

 アレクシオスとオルフェウスだ。

 二人は先ほどからイセリアを尾行しながら、遠巻きに見守っているのだった。

 (……本当なら、あたしがあそこにいるはずだったのに!)

 路上に転がるゴミや小石を手当たり次第に蹴飛ばしながら、イセリアは心のなかでひとしきり毒づく。

 そうしてあてもなく彷徨っているうちに、詰め所から。

 街区を隔てる門はすでに二つほど通り抜けただろうか。官庁街の灯りは遠く、暗い裏路地には人の気配もない。

 耳をすませば、かすかなせせらぎの音が聞こえてくる。同時にどこからか漂ってきたのは、鼻を突く悪臭だった。

 どうやら川が近くにあるらしい。

 帝都には大小さまざまな河川が存在するが、いずれもひどく汚染されている。

 百万の市民が日々垂れ流す下水が絶えまなく流れ込み、大量のゴミが投棄されていることを考えれば当然でもあった。

 しばらく歩くうちに見えてきた川は、はたして予想通りのドブ川だった。

 「……おあつらえ向きの舞台って感じね。そんな簡単に出てきてくれるなら手間も省けるんだけど」

 川沿いの小道を歩きながら、イセリアはぽつりとつぶやく。

 (あの二人、ちゃんとついてきてるかな?)

 出立にあたって、アレクシオスには「あまり振り返るな」と釘を刺されている。

 尾行に気づかれては、作戦そのものが瓦解するからだ。

 その点はイセリアも承知していたが、気になるものは仕方がない。

 (……まさか、二人でイチャついてるんじゃないでしょうね!?)

 イセリアはぶんぶんとかぶりを振って、一瞬よぎった想像を打ち消す。

 囮役を放って二人きりの時間を満喫する――

 それはオルフェウスをまんまと罠に嵌めたあとでイセリアが画策していたことだ。

 憎い相手にする分には良心の呵責もないが、自分が同じ目に遭うとなれば話は別だった。

 背後を確かめたくなる衝動に必死に耐えていたイセリアだったが、それもいよいよ限界を迎えようとしている。

 意を決して足を止め、振り返ろうとしたその時だった。

 どこからか音が響いてくる。湿った布を叩きつけるような、それは奇妙な音だった。

 錯覚などではない。

 たやすく誤作動をきたす人間の感覚器とは異なり、騎士のそれはいかなる状況でも正確な情報を捉える。

 「ふん――案外早かったわね」

 川べりに設置された手すりにもたれかかりながら、イセリアは前方の闇に視線を投げる。

 恐怖も不安もなかった。

 犯人が人間であるかぎり、騎士である彼女の敵ではない。たとえどれほど屈強な大男だろうとおなじことだ。

 だが――と、イセリアは思い直す。

 いまの自分は人間の少女なのだ。

 行動や態度もそれらしく装わなくてはならない。

 本来であれば抱くはずのない恐怖を演じてみせる――

 いかなるときも無表情を崩さないオルフェウスには務まりそうもない役目だった。

 そうするあいだにも、奇妙な音は少しずつ近づいてくる。

 (どうなってんのよ……?)

 音が聞こえてくる方向を割り出すのはたやすい。

 だが、奇怪な音の発生源と思われる方向には、相変わらず異臭を放つドブ川があるばかりだ。

 河原などは存在しない。手すりの向こう側は、切り立った崖のように垂直に水面に落ちている。

 人間が水面を歩けるはずもなく……ならば、この音はどこから生じているのか。

 考えるうちに、イセリアはふいに足首に奇妙な圧迫感をおぼえた。

 「なっ――!!」

 足元に視線を落としたイセリアは、おもわず驚嘆の声を上げていた。

 それは手首であった。

 ぼろ布に巻かれた手首がイセリアの足首をしっかりと掴んでいるのだ。

 粗く巻かれた布の合間からかすかにのぞく皮膚は蒼白を通り越し、ほとんど土気色にちかい。生者の肌の色とはとても思えなかった。

 手首の持ち主は、ちょうどヤモリみたいに垂直の岸壁を這い登ってきたのだろう。

 イセリアからはちょうど死角になる。接近を許したのも道理であった。

 「おやおや……こんな場所で独り歩きとは感心しないな。不用心なお嬢さん」

 真反対の方向から声がかかった。

 闇の中から黒い影がゆっくりと近づいてくる。

 奇怪な鳥面の男――ケイルルゴス。

 「君には感謝しているよ。今日はめぼしい獲物が見つからず困り果てていたからね」

 「いやっ! は、放してください!」

 いかにも可憐な少女といった風を装いつつ、イセリアはじたばたと抵抗してみせる。

 予期せぬ場所からの登場で多少肝を冷やしたが、その気になれば手首のひとつ程度、力任せに引き千切るのはたやすい。

 だが、探し求めていた犯人がようやく姿を見せたのだ。迂闊に騎士としての力を振るえば、すべてが台無しになる。

 「あいにくだが、それは出来ない相談だ。私たちの研究には君たちの協力が必要なのだからね。崇高な目的のために身を捧げることを光栄に思うがいい」

 「研究って、一体何のことですか?!」

 「君のような無知な町娘に説明したところで理解出来ないだろうさ」

 言うが早いか、ケイルルゴスは指を鳴らす。

 イセリアの足首を掴んだまま屍徒が岸壁を這い登ってくる。

 それだけではない。周囲の暗がりから、次々とあらたな屍徒が姿を現す。

 六つの奇怪な影が揃うまでさほどの時間はかからなかった。

 「何なの……この人たち……」

 「私の忠実なる下僕たちさ。我々は屍徒と呼んでいる」

 ケイルルゴスは得意げに語ってみせる。

 「これから君もかれらの同類なかまになるのだよ。だが、何も心配することはない。苦痛どころか、この上ない恍惚を味わうことだろう」

 六体の屍徒は音もなく散開し、イセリアを取り囲みつつある。

 「さっさとその娘を運べ――くれぐれも手足をもぎとってしまわないようにな」

 「いや……! 助けて!」

 「無駄なあがきはやめることだ。こんな場所でいくら叫んでも、助けなど来るはずがないだろう?」

 むろん、すべては芝居だ。

 イセリアは我ながら堂に入った演技だと感心しながら、その一方で苛立ちを覚えずにいられない。

 すぐ近くにいるはずのアレクシオスたちは何をやっているのか――。

 (まさか、このままこいつらの棲家に連れて行かれるまで手を出さないつもり!?)

 予定通りといえばそれまでだが、イセリアにとっては面白くない。

 と、一体の屍徒がイセリアの背後から近づき、両脇から抱えあげようと腕を伸ばす。

 その動作が、イセリアには後ろから乳房を鷲掴みにしようとしているように見えたらしい。

 「――どこ触ってんのよ!」

 イセリアは一喝すると、屍徒にむけて肘打ちを見舞う。

 釣り鐘に撞木をおもいきり叩き込んだみたいな凄い音が響いた。大柄な屍徒は枯れ葉みたいに軽々と浮き上がり、そのまま頭からドブ川に墜落する。

 「なにが囮よ、バカバカしい! もうやってられないわ! あんたたち、覚悟しなさい!!」

 「この女、何を!?」

 「乙女の清らかな体に触れた罪の重さ、たっぷり思い知らせてやるわ!!」

 イセリアの気迫に圧され、ケイルルゴスはおもわず腰を抜かしそうになる。

 辛うじて姿勢を立て直したケイルルゴスの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。

 そこに少女の姿はなかった。

 一瞬にも満たないわずかな時間のあいだに、イセリアは戎装を終えていた。

 顔は双角を備えた無骨な兜へ、身体は堅牢きわまる甲冑へ、指は鋭利な五つの刃へと変貌を遂げた。人間であった頃の面影はどこにも見当たらない。

 戎装とともに生成されたのか、腰のあたりでは身の丈ほどもある長大な一対の”尾”がのたうつ。

 いまケイルルゴスのまえに立ち現れたのは、黄褐色の重装甲に鎧われた異形の騎士であった。

 これがイセリアの戎装騎士ストラティオテスとしての姿。

 先の戦役において、少女はこの姿で多くの戎狄バルバロイを葬ってきたのだった。

 イセリアはケイルルゴスと屍徒たちに向き直ると、くいくいと手招きをしてみせる。あからさまな挑発であった。

 「かかって来なさい。最強この騎士あたしが相手になってあげる!!」

 「……バケモノめ!」

 ケイルルゴスが声を張り上げると、たちまちに屍徒たちがイセリアを取り囲む。

 いずれの屍徒も体の大きさは並の成人男性をゆうに超えている。

 戎装によって多少背丈は伸びているものの、イセリアにとっては見上げるほどの体格差がある相手だ。

 「言っとくけど、こんな大きいだけのウスノロを何匹集めてもあたしの敵じゃないわ」

 「ほざけ!――屍徒ども、を八つ裂きにしろ!」

 ケイルルゴスの命令を受け、屍徒の群れが四方からイセリアに飛びかかる。

 かれらが屍徒に作り変えられる過程で奪われたのは、自我と記憶だけではなかった。

 本来であれば脳が肉体に課しているはずの制限までもが取り去られているのだ。

 それゆえ、屍徒となった者は命令さえあれば素手で巨木をなぎ倒し、千里の道を休まずに駆け続けることもできる。

 限界を超えた肉体が崩れようとも、どれほどの深手を負おうとも、悲鳴ひとつ上げることはない。

 主に命じられるがまま、命尽きるその瞬間までひたすら使命を果たすのみ。

 いまイセリアに襲いかかるのは、そんな痛みも恐怖も知らない不死の兵士たちであった。

 イセリアの戎装を目の当たりにして狼狽していたケイルルゴスも、いまは屍徒の勝利を確信している。

 仮面の下で一切の余裕が消え失せたのは、次の瞬間だった。

 真っ先にイセリアに組み付こうとした屍徒は、突進の勢いもそのままに激しく転倒した。

 じたばたともがく屍徒に目をやれば、両膝から下がごっそりと消えていることに気づく。切断面からは赤黒い体液が迸り、あたりに血溜まりをつくる。

 「まどろっこしいわね――まとめてかかってきなさい!」

 イセリアは十指の刃を鳴らし、いま一度挑発する。

 手指が変じた刃は、その一つひとつがするどい切れ味をもつというだけではない。

 掌を握りこみ、親指と四指の刃とを巧みに噛み合わせれば、五指は刃からハサミへと形を変える。

 刃が通るものはまるで熟した果物みたいにやすやすと切り裂き、刃が通らぬものは持ち前の怪力に任せて挟み潰す――

 破壊という目的に特化した、それは恐るべき裁断器具であった。

 その威力を以ってすれば、一瞬のうちに屍徒の五体を断ち切るなどは造作もないことだ。

 だが、どれほど敵が強大であろうとも、意思をもたない屍徒がすくみ上がることはない。

 不気味なうめき声を立てて、二体の屍徒が猛然と走り出した。

 どうやら左右からイセリアを挟撃するつもりらしい。

 ひゅっと鋭く空気が裂ける音が生じたかと思うと、二体の屍徒はどちらもその場に膝を突いた。

 二つの首が転がり落ちたのと、首のない胴体から二本の血柱が噴き上がったのは、ほとんど同時だった。

 この間、イセリアの両腕はわずかも動いていない。

 ただ、無数の可動節を持つ二本の”尾”が、周囲の屍徒たちを威嚇するように鎌首をもたげている。

 もし昼日中であったならば、ケイルルゴスは尾の節々に光るものを認めたはずだ。

 装甲を縁取るように配されているのは、研ぎすまされた極薄の刃だ。

 鋭利な刃をまとった二本の尾は、イセリアの意のままに彼女の周囲を飛びまわり、両側から迫りくる屍徒の首をあっさりと刎ねたのだった。

 「馬鹿な……こんなことが――」

 「ご自慢の怪物はもう三匹もやられたわ。あんたもそろそろ観念したら?」

 イセリアが啖呵を切るのにあわせて、兜の前面に光の筋が走る。

 あざやかな青い光は、装甲の表層に刻まれたスリットに沿って流れているのだ。

 「まだだ……屍徒ども、来い!」

 切迫した危機を前に隠密行動を諦めたのか、ケイルルゴスは喉も枯れよとばかりに絶叫する。

 その声に応え、ドブ川から這いずり出るようにして五体の屍徒が姿を現す。

 不測の事態に備えてあらかじめ待機させていたものだろう。

 屍徒たちの全身は泥土にまみれ、すさまじい悪臭を放つ。怪物じみた外観はいっそう悽愴さを増したようであった。

 「懲りない連中――何体来たって同じよ!」

 イセリアは威嚇するように両腕と尾を構え、迫りくる敵を待ち受ける。

 と、その時だった。

 青白い炎が夜空に高く上がった。それは鋭く大気を切り裂きながら、一直線に降下していく。

 やがて岸壁をよじ登っていた屍徒の胸に吸い込まれると、泥にまみれた巨体をはるか対岸まで弾き飛ばしていた。

 「アレクシオス!!」

 目の前に黒い影が降り立つのを認めて、イセリアは歓喜の声を上げた。

 黒く艶やかな甲冑をまとった異形の騎士は、アレクシオスが戎装した姿だ。

 つい一瞬前まで全開噴射を行っていた両脚の推進器は熱気を帯び、周囲に季節外れのかげろうを揺らめかせている。

 「無事か!? イセリア」

 「あたしを助けに来てくれたのね! うれしい!!」

 「戦っているのが見えたからだ。いつまでもおまえだけに任せてはおけないからな」

 「もう、照れなくてもいいのに!」

 はしゃぎまわるイセリアを、アレクシオスはいかにも鬱陶しげに遠ざける。

 「バケモノがもう一体……? どういうことだ……?」

 一方のケイルルゴスは、あらたな騎士の出現によってほとんど恐慌に陥りつつあった。

 単独でも三体の屍徒をたやすく屠った怪物である。それが増えたという事実は、たんに敵が二体になったという以上の意味を帯びる。

 残る七体の屍徒をすべて投入したとしても、はたして勝機があるかどうか――。

 状況を打開するために猛回転をはじめたばかりのケイルルゴスの頭脳は、早くも焼けつく寸前だった。

 「……私もいるよ」

 闇を割って現れたのは、真紅の騎士――オルフェウス。

 すでに戎装を終え、アレクシオスとイセリアの背後から近づいてくる。

 「べつにあんたは呼んでないわよ。こんな連中、あたしとアレクシオスだけで十分!」

 「そこまでにしておけ。今は犯人を捕らえることが最優先だ」

 「……ふん!!」

 アレクシオスに咎められ、イセリアは不貞腐れたように真横を向く。

 控えめに言っても三人の騎士の相性は最悪だ。緻密な連携などは望むべくもない。

 だが、そんな相性の悪さも戦いを進める上で問題とはならないはずだった。

 並び立った三騎は、それほど隔絶した力をその身に宿している。

 そうこうするあいだに七体の屍徒は四方に散り、三人の騎士を完全に取り囲む格好になった。

 「観念しろ。大人しく投降すれば、命までは取らずにおいてやる」

 なおも抵抗を諦めていない様子のケイルルゴスに、アレクシオスは半ばあきれつつ警告する。

 「誰が貴様らの言うことなど信じるものか!! ――行け、屍徒ども! 奴らを殺せ!」

 七体の屍徒はじわじわとアレクシオスたちににじりよる。

 濁った咆哮がドブ川の水面を震わす。夜更けの帝都に、いま血戦の幕が上がる。

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