第149話 開戦前夜

 夜半――。


 帝都イストザントの大城門のほど近くに設けられた円環広場ロータリーは、時ならぬ喧騒に包まれていた。

 広場には中央軍の旌旗せいきを掲げた輸送用の馬車が整然と並び、そのあいだを兵士たちが慌ただしく行き来している。武器と弾薬がぎっしりと詰まった木箱が陸続と運び込まれ、広場の片隅にいったん積み上げられたかと思うと、またたくまに馬車の荷台に積み込まれていく。

 いつのまにか夜風にきなくさいものが混じりはじめている。

 火薬と金属の匂い――。

 それは、まごうかたなき戦争の匂いであった。


 南西の要衝ガレキアが反乱軍に奪取されたという急報が帝都にもたらされたのは、いまから半日ほど前のことだ。

 ガレキアは帝都に最も近い大都市のひとつである。それがさしたる抵抗もなく敵に奪われたことは、『帝国』の中枢に並々ならぬ衝撃を与えた。

 それ見たことか、だから言わぬことではない――尚書令マギストロスを筆頭とする武断派はひそかにそう囁きあったが、むろん、公の場で皇帝を非難するような愚は犯さない。

 皇帝ルシウスはただちにガレキア解放のための出兵を命じ、元老院もこれを承認したのだった。


 それからの中央軍の行動は迅速だった。

 もともと各辺境に派遣するつもりで部隊編成の計画プランを練っていたということもある。帝都に駐屯する各軍団から人員と兵器を簡抜し、夜更けまでには動員可能な態勢を整えたのだった。

 集結した部隊は総勢三万あまり――たんにガレキアを攻略するだけであれば、二万で事足りる。

 それにもかかわらず、これほどの規模にまで兵数が膨れ上がったのは、兵站や各種の後方支援体制までも中央軍みずからの手で賄おうとしたためだ。

 本来なら現地の辺境軍と連携し、精鋭である中央軍は戦闘に専念するべきところを、すべて中央軍が自弁する。それが意味するところは、辺境軍に対する露骨なまでの不信と敵視にほかならない。


――東方人どもは信用できない。


 上級将校から末端の兵士から至るまで、いまや中央軍ではそんな見方が支配的になりつつある。

 そもそも、堅牢な城壁に守られているガレキアがこうもあっけなく敵の手に落ちたのも、本来都市を守るべき辺境軍が早々に敵方に寝返ったせいなのだ。


――もはや辺境軍は『帝国』と皇帝のための軍隊などではない。

――奴らはいつ裏切るとも知れない、武装した危険な東方人の群れにすぎない。


 直截にそう言い放つ者こそいないが、中央軍の将兵が多かれ少なかれそのように思っているのは事実だった。

 ガレキアに到着した後は、つねに友軍の裏切りを警戒しながら都市攻略戦に臨むことになる。まぎれもなく自国の領域内だというのに、そこはすでに敵地となっている可能性も否定出来ないのだ。

 だが、たとえ現地の辺境軍すべてが敵に回ったとしても、独自の支援体制を確立してさえいればすぐには問題は生じない。練度と兵器の質では中央軍が圧倒的な優位にある以上、兵力の多寡はさしたる問題とはならないはずだった。三万の精鋭ならば、一地方の反乱を平定する程度は難なくやってのけるだろう。


 いま、広場に集まった兵士たちは誰も彼も眼を血走らせ、すさまじい殺気を発散している。

 どの顔にもただならぬ鬼気が漲り、眠りも疲労もどこかに置き忘れてきたようであった。

 戦いを前にした極度の緊張と興奮のためだけではない。


 ようやく『帝国』に逆らう小癪な東方人どもを誅伐することが出来る――。

 おろかにも反乱を企てたあの連中に、誰がこの『帝国くに』の支配者かを身をもって教えてやる――。


 そんな仄暗い情熱が兵士たちを衝き動かし、夜を徹して出陣のための準備に奔走させているのだった。

 もし本当に辺境軍が裏切るというなら、彼らにとってむしろ望むところだ。

 そのときこそ、大義名分のもとに心置きなく東方人たちを殲滅することが出来るのだから。

 末端の兵士たちだけでなく、彼らを統率する将校でさえ、心のどこかではそんな事態の出来しゅったいを待ち望んでいるありさまだった。


 はたして、彼らのなかに事態の深刻さを理解している者がどれほどいるのか。

 中央軍と辺境軍の衝突は、取りも直さず西方人と東方人の全面戦争を意味している。

 どちらが勝ったとしても、もはや『帝国』は現在の姿を保つことは出来なくなる。

 これまで歴代皇帝のもとでかろうじて統合されていた東方の諸民族は分裂し、おそらく二度と元に戻ることはない。

 『帝国』の構造システムは崩壊し、全人口の一割を占めるにすぎない西方人が大多数の東方人を支配する時代は終わりを迎えるはずだ。

 だが、人間は欲望と闘争心の動物である。

 たとえ抑圧されていた民族同士であったとしても、平和な共存など望むべくもない。

 西方人による支配が崩れ去った後は、同じ東方人のあいだで新たな序列が作られる。すなわち、武力による征服と収奪だ。

 ふたたび統一をなしとげる者が現れるまでの何十年……あるいは何百年ものあいだ、大陸東方はさまざまな勢力が割拠する戦乱の世に突入するはずだった。

 強い者が弱い者を支配し、奪う。

 『帝国』が千年ものあいだ行ってきた残酷な営みは、次の千年においても変わらずに繰り返されるにちがいない。それも、おそらくは前の千年よりずっと陰惨なかたちで――。


 と、広場に第一陣の出立を告げる鉦の音が鳴り渡ったのはそのときだった。

 大城門の付近で馬のいななきが上がったかと思うと、重い荷車がゆっくりと地面を進む音がそれに続く。

 ようやく出陣出来る喜びからか、将兵のなかには「皇帝陛下万歳!!」「『帝国』万歳!!」と声を枯らして叫んでいる者もいる。

 どこか祭りの前夜みたいな浮ついた雰囲気のなかで、終焉の時はすこしずつ、しかし確実に近づいている。


***


「あーあ、まさかこんな用事でガラキアに行くことになるとは思わなかったわ」


 言って、イセリアはわざとらしくため息をついてみせる。

 アレクシオスはそんな少女をちらと一瞥すると、


「なんだ、不満でもあるのか?」


 努めてぶっきらぼうな声音で問うた。


「当たり前でしょ。”麗しの都”って言うくらいだし、どうせなら観光で行きたかったわ」

「それは残念だったな。観光がしたいなら、この仕事が終わってからゆっくり行くことだ」

「そのときはもちろんアレクシオスも一緒よね?」

「なぜおれが――」


 どさくさ紛れに抱きつこうとしたイセリアを軽くいなしつつ、アレクシオスは周囲に視線を巡らせる。

 そして、誰もいないことを確かめると、小さく鼻を鳴らす。


「……あいつら、ずいぶん時間がかかっているな」 



 ガラキアの一件が騎士庁ストラテギオンにもたらされたのは、日も沈みかかったころだった。

 皇帝直々の出動命令であることは言うまでもない。

 ついに来るべき時が来た――。

 覚悟していたこととはいえ、事態はもはや抜き差しならない局面を迎えようとしている。

 これまで水面下で暗躍していたゼーロータイが本格的な蜂起に打って出たということは、いよいよ『帝国』との直接対決に踏み切ったということだ。

 ガラキア市中では、ナギド・ミシュメレト本人とおぼしき人物が辺境軍を扇動したという情報も入っている。『帝国』が騎士を差し向けた場合に備えて、ヘラクレイオスらもナギドに同行していると考えるのが妥当だ。

 戎装騎士ストラティオテスと戦えるのは、おなじ戎装騎士ストラティオテスだけ――たとえ相手が最強の騎士であったとしても、その鉄則は変わらない。

 ヘラクレイオスへの恐怖を完全に払拭した訳ではない。

 それでも、アレクシオスには、もはやわずかな逡巡もためらいもなかった。

 最期の瞬間まで信じられるものがある。自分を信じてくれる人がいる。

 騎士である自分おのれが戦う理由は、それだけで十分なのだ。

 それはオルフェウスやイセリア、エウフロシュネーにしても同じはずだった。

 あえて口に出して確かめ合わなくても、それぞれの思いはたしかに通じ合っている。

 死地に飛び込むうえで最も必要になるのは、優れた武器でもなければ、卓抜した戦術でもない。

 それは、自分の生命を預けても惜しくない仲間だ。

 たとえ自分が道半ばで倒れても、きっと使命を果たしてくれる。心からそう信じられる者同士でなければ、死の恐怖を前に任務を遂行することなど出来るはずもない。

 友情や愛、絆といった月次つきなみな言葉で表したなら、その瞬間にふっと消え失せてしまう――四人の騎士たちを結ぶのは、そんな儚くも強い結束だった。



 騎士たちが集合を命じられたのは、円環広場ロータリーの片隅に設けられた乗降場だった。

 乗降場と言っても、かつてラエティティアを見送った貴人専用の豪奢な建物とはまるで違う。

 辺境へと向かう荷馬車や郵便馬車を一時的に停めるために作られたそれは、木組みの細長い納屋とでも言うべきものだ。利便性のために建物の前面が開け放たれ、等間隔で仕切りが設けられているところなどは、むしろ厩舎にちかい。


 いま乗降場にいるのは、アレクシオスとイセリアだけだった。

 いざ詰め所を出る段になって、騎士庁の責任者であるヴィサリオンが急遽帝城宮バシレイオンまで呼び出されたためだ。

 そこで、ひとまず二人が先行し、他の面々はヴィサリオンとともに後から合流するという手筈になった。

 予定より多少遅れるだろうが、それも致し方ないことだ。

 それに、この程度であれば、騎士にとっては遅れのうちにも入らない。

 騎士の脚力なら、ガラキアまで一日足らずで到着することが出来る。どれほど疾く駆けても息を切らすことはなく、定期的な休憩も必要ない。空を飛べるエウフロシュネーであれば、さらに時間を短縮出来るだろう。


「……アレクシオスは、さ」 


 イセリアは乗降場の壁にもたせかかりながら、ぽつりと呟いた。


「夢っていうか……将来こうしたいとか、こうなりたいみたいなの、ある?」

「なぜいまそんなことを訊く?」

「べつにいいじゃない。あたしが知りたいから訊いてみただけ」


 怪訝そうに問い返したアレクシオスに、イセリアはつんと唇を尖らせる。

 アレクシオスはしばらく思案顔で考え込んだあと、


「夢くらい、おれにもある」


 あくまでそっけなく言ったのだった。


「あたしに教えてよ。あたしのも教えてあげるから!」

「お断りだ。だいたい、おれはべつにおまえの夢など知りたくない」

「あたしの夢はね、アレクシオスのお嫁さん! 子供も五人くらい欲しいかも――」

「言っているそばから勝手に聞かせようとするんじゃない!!」


 アレクシオスは耳を塞ぎながら、イセリアに背を向ける。


「……おれの夢は……」


 そして、振り返ることもなく、独り言みたいに言葉を継いでいく。


「おれの夢は――いつまでも人間の世の中が続くことだ。そして、誰も理不尽に傷つけられることなく、幸せに生きられる世の中が来ればいいと思う」

「……それだけ? ホントに?」

「ああ、それだけだ」

「でも、それってアレクシオスの夢じゃなくない? 自分以外の人間のことしか考えてないじゃない。あたしはもっと我を出したほうがいいと思うけどなぁ」

「我が弱くて悪かったな――」


 アレクシオスは拗ねたように言うと、イセリアから数歩ばかり遠ざかる。


「まったく、おまえに話したのが間違いだった。これからは訊かれても二度と話さないからな」

「でもさ、そういうとこ、アレクシオスらしくてあたしは好きだな」


 イセリアはいたずらっぽく笑うと、軽やかな足取りでアレクシオスの前方に回り込む。


「とにかく、お互いまだまだ夢は叶いそうもないし、長生きしなくちゃね。死んじゃったら夢も見れないもの。でしょ?」

「言われなくてもそのつもりだ。ついでに言っておくと、おまえの夢は叶わないし、叶えさせない」

「なによそれ!! ひどーい!!」

「それはこっちの台詞だ!! 身勝手な夢におれを巻き込むんじゃない!!」


 言い争いを始めた二人の背後で、ふいに複数の足音が生じた。

 その瞬間、まるで示し合わせたみたいに、アレクシオスとイセリアはほとんど同時に振り返っていた。

 二人の視線の先には、いかにもばつが悪そうに佇む線の細い青年の姿がある。


「ヴィサリオン、ずいぶん遅かったな」

「ええ、あのあと色々とありまして……すっかり待たせてしまいましたね」


 すまなげに言ったヴィサリオンの背後から、オルフェウスとエウフロシュネー、そしてラケルとレヴィがぞろぞろと姿を現す。


「ラケル、あれが痴話喧嘩というやつか?」

「どうかな。私には嫌がっているように聞こえたが――」

「では、ただの喧嘩だな」


 ラケルとレヴィのやり取りを横目で見つつ、エウフロシュネーは呆れたように肩をすくめてみせる。


「あの二人はいつもあんな調子だから気にしなくていいよ。ね、お姉ちゃん?」

「私にはよく分からない――けど」


 オルフェウスは澄んだ真紅の瞳で一同を見渡す。


「イセリアとアレクシオスが仲良しなのは知ってるよ」


 玲瓏な声で紡がれたその言葉に、アレクシオスとイセリアはさっと距離を取る。それまでなんとも感じていなかったはずが、ふいに気恥ずかしさを覚えたようであった。


「っていうか、全員揃ったならさっさと出発しましょ!! ただでさえ時間ないんだし」

「いや、全員ではない」


 ラケルはイセリアの言葉を遮るように言うと、レヴィとともに一歩前に進み出る。


「私とレヴィは帝都に残るように命じられた。ガラキアには行けない」

「……それが賢明だろうな」


 ラケルの言葉に、アレクシオスは深く首肯する。


「おれたちにもしものことがあったとき、戦える騎士は一人でも多いほうがいい。全員で挑めば勝てるという相手でもないからな――」


 事実、ヘラクレイオス追討のために派遣されたラグナイオスとその仲間たちは、為す術もなく殺害されている。彼らの死は、灰白色グレーの騎士の凄まじい力の前では数の有利などまるで無意味であることの何よりの証左であった。

 今回のアレクシオスたちにしても、誰一人として生きて帰れないおそれは十分にある。

 しかし、ラケルとレヴィが健在なら、タレイアやアグライアとともにヘラクレイオスに対抗出来る可能性はまだ残されている。

 二人が合体することで完成する戎装巨兵ストラティオテス・ギガンティアは、それほど強大な力を秘めているのだ。

 だからこそ、ただ一度の戦いで貴重な戦力が失われる事態は避けねばならない。


「ヴィサリオン、おまえも帝都に残っていいんだぞ。今回はおれたちも守ってやれそうにない」

「いえ――私もガラキアまで行きます」


 気遣うように言ったアレクシオスに、青年は決然と答える。


「戦いであなたたちの役には立てませんが、私には私の役目があります。やれるだけのことはやるつもりですよ」

「分かった。おまえがそこまで言うなら止めはしない。だが、無茶はするなよ」

「それはあなたもですよ、アレクシオス」


 微笑みながら言うヴィサリオンに、アレクシオスは一本取られたというように頭を掻く。

 そして、そのまま大城門のほうに視線を向けると、


「城門はもう開いているようだ――おれたちも行くぞ」


 その場で身を翻し、少年はさっさと走り出していた。

 オルフェウスとイセリア、エウフロシュネーもその背を追う。

 広場は無数の篝火に照らし出され、深夜とは思えないほどに明るい。

 ひとたび大城門を抜ければ、その先には深い淵みたいな闇がぽっかりと口を開けている。

 茫漠と広がる闇を切り裂き、四人の騎士は風のように駆けていく。

 先行していた中央軍の部隊をすべて抜き去ったとき、少年と少女はすでに変形へんぎょうを終えていた。

 それぞれの色彩をまとった四騎の異形は、さらに速度を上げ、寸秒を惜しむように先を急ぐ。

 最強の敵が待ち受ける、最後の戦場へと。

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