第150話 それぞれの戦場へ…

 陽炎のむこうで白い城壁が揺れていた。

 正午に近づくにつれ、気温は際限なく上がっていくようだった。

 ガレキアを包んだ熱暑は一向に立ち去る様子もなく、今日も今日とて仮借なく大地を灼いている。

 都市の外周を流れる川はぬるく淀み、ひとときの涼をもたらすどころか、かえって蒸し暑さに拍車をかける始末だった。

 風はなく、空気は熱を孕んだまま重く停滞している。おかの上にも凪があるとすれば、おそらくこのような状態を指すのだろう。こころなしか、時間の流れさえ緩慢になっているようであった。

 と、川岸の木立がかすかに揺れた。

 木立と言っても、人の背丈より低い灌木がまばらに生い茂っているだけだ。枝葉の動揺は数秒もしないうちに収まり、水辺には何事もなかったみたいに静寂が戻った。


「バカ、何をやっているんだ!! 見つかったらどうする!?」


 腹ばいになったまま、アレクシオスはちいさく叱声を飛ばす。

 イセリアは髪をいらいつつ、いかにも不満げに唇を尖らせてみせる。


「仕方ないでしょ。じっとしてるのにもいい加減飽きちゃったんだもの」

「おまえ、おれたちが何をしているのか分かっているのか? 迂闊な真似をして奴らに気づかれたら元も子もないんだぞ」

「ふん、そのときは返り討ちにしてやればいいのよ」


 言って、イセリアは隣で伏せている少女に軽く肘打ちをする。


「あんたもそう思うでしょ?」


 イセリアに問われても、オルフェウスはきょとんとした面持ちで見つめ返すだけだ。

 真上から見れば、三人はちょうど川の字に寝そべる格好になっている。

 灌木の木立は背が低く、また上に行くほど枝葉の密度も薄くなっていく。それゆえ、隠れる側は身を低くする必要があるのだ。

 もしうっかり立ち上がれば、城壁の上からたやすく発見されてしまうだろう。

 イセリアはまさにそのをしかけて、アレクシオスに咎められたのだった。


「とにかく、エウフロシュネーが戻るまで大人しくしていろ。これは命令だぞ」

「はいはい、分かってる分かってる」

「……『はい』は一度でいい」


 と、背後でふいに気配が生じたのはそのときだった。

 何の前触れもない出現は、まるで無から一瞬に生み出されたようでもある。

 その出現を察知すると同時に、アレクシオスはほとんど反射的に首を巡らせていた。


「私だよ、お兄ちゃん――」


 言うが早いか、エウフロシュネーはすばやく身を屈める。


「早かったな。それで、首尾はどうだ?」

「もちろんバッチリだよ!」


 得意げに言うと、エウフロシュネーは懐から折り畳まれた紙片を取り出す。

 地面の上に広げたそれは、ガレキアの見取り図だ。簡潔ではあるものの、主要な建物や通りはひととおり網羅されている。

 エウフロシュネーはアレクシオスから筆と墨壺を渡されると、見取り図に手際よく書き込みを入れていく。


「こんな感じかな?」


 見取り図のところどころに書き加えられたのは、大小さまざまの数字だ。

 ガレキア城内に展開する部隊の配置図、そして各隊のおおよその兵数であった。

 エウフロシュネーは自在に空を舞い、さらには自分の姿を周囲の景色に完全に溶け込ませることが出来る。二つの能力を用いて、誰にも気づかれることなく城壁内の偵察を完了したのだった。

 アレクシオスは見取り図の上に視線を走らせながら、数字を合算していく。

 敵方の兵力は一万余り――その大半は、もともとガレキアに駐屯していた辺境軍の将兵である。彼らは市内に潜伏していたゼーロータイの部隊と合流し、反乱軍となって『帝国』にそむいたのだ。


 それでも、中央軍と辺境軍のあいだに横たわる格差は歴然としている。

 同じ軍と言っても、辺境における治安維持を主任務とする辺境軍と、純然たる戦闘集団である中央軍とでは、まるでその性質を異にしているのだ。

 三万の中央軍とまともに戦えば、一万余りの反乱軍は為す術もなく蹴散らされるにちがいない。

 だが、もし彼らがガレキアの堅固な城壁を最大限に活用し、ひたすらに籠城に徹したならどうか?

 中央軍が犠牲の多い正面突破作戦を選択することはまずありえない。東方人の反乱はいつまで長引くか知れないのだ。緒戦で優秀な兵士をみすみす失うことは愚の骨頂であり、指揮官たちは可能な限り戦力を温存しようとするはずだった。


 見取り図を睨みながら、アレクシオスの胸にひとつの疑問が沸き起こる。

 ゼーロータイは、ヴラフォス城と同じ策を取ろうとしているのではないか――。

 すなわち、籠城に持ち込むことで時間を稼ぎ、『帝国』の戦力を十分引きつけたうえで、あらかじめ用意しておいた別働隊を動かすということだ。

 あのときは帝都への五騎士の侵攻を許し、さらには興祖皇帝の陵墓を破壊されるという痛手を被った。

 今回はナギド・ミシュメレトみずからが出張っているという違いこそあるものの、ナギドがみずからの生命を惜しむとも思えない。

 たった一度だけとはいえ、実際に息がかかりそうな距離で対面したアレクシオスには分かる。

 ナギドの瞳に息づいていたのは、まぎれもない狂気だった。

 もとより常人の尺度で推し量れる相手ではない。ゼーロータイが掲げる目的を達成するためなら、我が身の破滅さえ厭わないはずだ。

 肉体的には何の変哲もない人間にすぎない。その身体能力は戎装騎士ストラティオテスとは較べるべくもなく、超常の力を持っている訳でもない。

 だからこそ、ヘラクレイオスとはまた別種の恐ろしさを秘めている。

 人間でありながら、人間ではない何者なにか――ナギドと言葉を交わしたときの印象を思い起こし、アレクシオスはあらためて戦慄を覚えたのだった。


「……で、これからどうするのよ?」


 イセリアはアレクシオスの顔を覗き込むと、しびれを切らしたみたいに問うた。


「エウフロシュネーも戻ってきたんだし、いつまでもここに隠れて様子を伺ってても埒が明かないわ」

「……分かっている。今日の夜には中央軍の本隊が到着するはずだ。ヴィサリオンも一緒に来ているだろう。日が沈んだら合流するぞ」

「ちょっと待ってよ。じゃあ、それまでここでじっとしてなきゃならないわけ?」

「文句を言うな。都市まちの近くで身を隠せそうな場所はここくらいしかなかったんだからな」


 にべもなく言ったアレクシオスに、イセリアはふんと鼻を鳴らす。


「まあ、あたしはアレクシオスと二人きりだったらぜんぜん構わないんだけど。お邪魔虫がいるから雰囲気も何もあったものじゃないわ――」

「ごめんね、イセリア」

「あんたもいちいち真に受けてんじゃないわよ。いくら好きでも、こんな暑いなかでくっつくのは御免被りたいわ」


 アレクシオスはそんな二人の会話に耳を貸すこともなく、


「エウフロシュネー、ここには何かなかったか?」


 見取り図の一角を指し示す。

 市街地のほぼ中心にあって不自然な空白が広がるそこは、”トゥリスの丘”とその裾野であった。


「……ごめんね。そこには近づかなかったから、よく分からないんだ。大昔の神殿みたいなのがあるのは見えたんだけど」

「近づかなかったのは理由があるのか?」

「なんて言ったらいいのかな……誰かに見られてる感じがするっていうか……」


 そこまで言って、エウフロシュネーは口ごもる。その横顔には快活な少女の面影はなく、声はかすかに震えている。


「この近くを通るだけでも、すごく怖かったよ」

「はあん? ……ふふん、お子ちゃまのエウフロシュネーちゃんはそれでビビって帰ってきちゃったわけね。可愛いところあるじゃない?」

「お姉ちゃんはここで寝そべってただけのくせに!」

「なによ!」


 例によって掴み合いを始めようとしたエウフロシュネーをアレクシオスが、イセリアをオルフェウスが羽交い締めにして引き離す。

 そして、アレクシオスはあらためて見取り図を手に取ると、 


「これはおれの勘だ。だが、おそらく間違いない」


 指先で円を描くみたいに、”トゥリスの丘”の一帯をゆっくりとなぞる。


「……ヘラクレイオスたちは、ここにいる」


***


 日が沈むと同時に、暑さはわずかに和らいだようだった。

 もっとも、不快な暑気が跡形もなく霧散したという訳ではない。

 大地が昼のあいだに溜め込んだ熱気をたえまなく放出しているためだ。

 そして、すべての熱を排出しきらないうちに、ふたたび日が昇る。毎日がその繰り返しだった。


 それでも、ときには大きな変化が生じることもある。

 いま、ガレキアの白い城壁と、その下を流れる川面は、無数の篝火によってあかあかと照らし出されている。

 中央軍はガレキアに到着するや否や、川を隔てた平原に野営地を構築し、臨時の司令部を置いたのだった。

 野営地の周囲には馬防柵が巡らされ、その内側には土塁と空堀が備わっている。あくまで簡易的なものとはいえ、とても短時間で仕上げられたとは思えない、じつに見事な野戦築城であった。

 広大な野営地には、いまなお物資を積んだ荷馬車が陸続と到着し、兵士たちは来るべき攻城戦に備えての態勢づくりに勤しんでいる。

 そのあいだにも戦闘部隊はガレキアの城壁を取り囲むように展開し、敵の攻撃を防ぐと同時に、篝火を焚くことで籠城側に精神的な重圧プレッシャーをかけているのだった。


 いまアレクシオスたちがいるのは、野営地に数多く設置された天幕の一つだ。

 騎士庁ストラテギオンの臨時の詰め所――最前線にあってどこか場違いな雰囲気も、中央軍とは別個の組織であることを考えれば、むしろ当然といえた。

 お世辞にも広いとは言えない天幕のなかで騎士たちと向かい合っているのは、ヴィサリオンと、中央軍の将校たちだった。

 おなじ西方人であっても、いかにも文官然とした青年とは異なり、五人の将校たちはいずれ劣らぬ威圧感を全身から発散させている。軍人として培ってきた風格というだけではなく、騎士庁ストラテギオンなどという得体の知れぬ省庁が自分たちの縄張りに入り込んでいることへの不快感と敵意とが、彼らの顔を強張らせているのだ。


「……こちらがガレキア城内の見取り図です。お役立てください」


 ヴィサリオンにむかって、将校たちのなかでも最も位の高い一人が進み出る。

 軍服には他の将校にも増して華美な装飾が施されている。司令官を補佐する参謀だけに許される出で立ちであった。


「ご苦労――」


 受け取るというよりはほとんど引ったくるようなその挙措に、アレクシオスはおもわず拳を握りしめていた。

 だが、怒りに任せて突っかかっていったところで、どうなる訳でもない。本当の敵を前にして、味方であるはずの中央軍と衝突する愚かさは少年も理解しているのだ。


「ガレキアの攻略計画は我々に委ねられている。この図もがね」


 参謀は尊大に言うと、アレクシオスたちを一瞥する。どこまでも冷えきった目であった。


「分かっているとは思うが、諸君は余計な真似はしなくて結構。敵の戎装騎士ストラティオテスの相手だけしてくれればいい」


 化け物は化け物同士で殺しあえ――言外にそう言っているのは明らかだった。

 騎士に対する侮蔑を隠そうともしないその態度に、アレクシオスははらわたが煮えるほどの憤りを覚えながら、おくびにも出すまいと平静を装う。

 そのままイセリアを横目でちらと見やる。暴発を危惧するアレクシオスをよそに、栗色の髪の少女はどこ吹く風とでも言うように佇んでいる。

 もとより参謀の話など聞くつもりもないためだが、この場合は好都合であることには違いない。

 オルフェウスは例のごとく美しい無表情を保ったまま、エウフロシュネーは呆れたように、それぞれ聞き流している。


「では、別命あるまで待機するように――くれぐれも勝手な真似はしてくれるな」


 さっさと立ち去ろうとする将校たちの背後で、ふいにヴィサリオンが立ち上がった。


「待ってください」

「何か、ヴィサリオン殿?」


 呼び止められた参謀はその場に足を止めたまま、首だけで振り返る。


「ひとつお聞かせ願いたいのです。……開城交渉についてはどうなっていますか」

「開城交渉? 何の話をするかと思えば、我々はそんなものは最初から考えていない。敵も応じるつもりもないだろうからな。時間の無駄だよ」

「では、問答無用でガレキアに対する攻撃を開始する……と?」

「その通りだ。明朝から第一陣が攻撃を開始する」


 取り付く島もないといった風の参謀に、ヴィサリオンは一瞬躊躇ったような表情を浮かべたあと、決然と言い放った。


「私は皇帝陛下から密書をお預かりしています。ガレキアへの攻撃に先立ち、この密書を携えた使者を交渉のために城内に送るようにと――」

「使者だと? そんな話は聞いていないぞ」

「これは出陣の直前に陛下から直接託されたものです」


 一向に信じようとしない参謀の前で、ヴィサリオンは懐から密書を取り出す。

 封を開くまでもなく、銀梅花マートルを象った花押かおうを目にした途端、全員の顔色が変わった。

 『帝国』の国花は、皇帝の意思で作成された文書であることを意味している。

 皇帝が交渉を望んでいるなら、皇帝の軍隊である中央軍は唯々諾々とその意向に従うしかないのだ。


「しかし、誰が行くというのだ? 『帝国』を恨む東方人どもと、いったいどんな交渉が出来る? 五体を引き裂かれ、城壁の上からばら撒かれるのが関の山だ!!」

「皇帝陛下から直々に勅命を賜ったのは私です。私が反乱軍のもとへ使者に立ちます」

「確実に殺されるぞ」

「すべて覚悟の上です」


 ヴィサリオンは語気強く言い切ると、アレクシオスたちに顔を向ける。

 そして、不安げに見つめる少年にむかって、ふっと微笑みかけたのだった。


「彼らが命がけで戦うというのに、私だけがここで安閑としている訳には行きませんから」



 参謀と将校たちが立ち去ったあと、アレクシオスはイセリアとエウフロシュネー、そしてオルフェウスにしばらく天幕から出るように願い出た。

 そして、少女たちが出ていったのを確かめると、掴みかからんばかりの勢いでヴィサリオンに詰め寄ったのだった。


「おまえ、本当に行くつもりか!?」

「もちろんです。心配してくれるのですか? アレクシオス」

「当たり前だ。出来ればおれも一緒についていってやりたいところだが――」


 その先の言葉をアレクシオスは飲み込む。

 たとえどれほど強くそう思っても、自分のすべきことを投げ出す訳にはいかない。

 そんな少年の心を汲み取ったのか、ヴィサリオンは短い黒髪をそっと撫ぜる。


「ありがとう。でも、あなたにはあなたの役目があります」

「分かっている……そのくらい、おまえに言われなくても……」

「自分のなすべきことに全力を尽くしましょう」


 あくまで明るく言ったヴィサリオンに、アレクシオスは黙って首肯する。

 どちらの戦いも生還を期しがたく、そして、どちらかが欠けても真の勝利は得られない。

 これから赴く戦場は、武力を用いるかどうかの違いこそあれ、かつてないほどに峻烈なものになることは間違いないのだ。


「攻撃開始は明朝からとのことでした。私は今夜じゅうにもガレキア側の代表者との交渉に向かいます」

「おれたちは敵の戎装騎士ストラティオテスを片付ける。たとえ交渉が上手く行っても、奴らがいるかぎり状況は変わらないからな」


 ナギド・ミシュメレトの下には四騎の騎士が残っている。

 何よりの脅威は、そのなかに最強の騎士であるヘラクレイオスがいるということだ。

 人間同士の話し合いの成果など、あの巨拳の前にはどれほどの意味を持つだろう。天変地異が地上のあらゆる事物を無慈悲に薙ぎ払うように、いともたやすく吹き消されるにちがいない。


「……じつは、陛下から預かった密書はもう一通あるんです」


 言って、ヴィサリオンは荷物のなかから、さきほど参謀に見せたものと寸分違わぬ書簡を取り出す。


「アレクシオス、これはあなたが持っていてくれませんか?」

「ちょっと待て、おれはこれから戦いに行くんだぞ。失くしでもしたらどうする」

「ご心配なく。これは交渉の前に内容を確かめるようにと渡されたものです。私はもう頭に入れてありますから、持っていても仕方がないのですよ」


 アレクシオスの眉宇に逡巡がよぎる。

 それも一瞬だ。差し出された書簡を受け取ると、そのまま内懐にしまい込んだのだった。


「……死ぬなよ」

「ええ、お互いに」


 確かめるように頷きあい、アレクシオスはひとり天幕を後にする。

 外に出てまもなく、所在なさげに少年を待っている少女たちの姿が目に入った。

 ぬるい夜気をかき分けるように、アレクシオスは一歩を踏み出していた。

 運命の夜が始まろうとしている。

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