戦国大名、婚儀でござる

戦国期における結婚の過程というものはどういったものだったでしょうか。


武田家というのは割としっかり資料が残っている、有り難い家です。

【甲陽軍鑑】から組み立ててみます。


まず、傅役がそろそろ若君は元服の御用意を進めて良いかと思いますと、毎朝の殿を中心に円陣を組んでの重臣会議「評定」で申し上げます。


三男位まででしたら、殿も養子先や嫁取り先の心積りがありますが、四男以下になると嫡男の家臣になるのが決まっていますので、重臣の顔を眺めて、娘はいたっけ?ということになります。


 さて時は永禄八年(1565)九月九日の佳き日に、武田信玄公は、織田信長公が差し向けた武田家指南(取次)織田掃部忠寛を迎えます。


 曰く、桶狭間に街道一の弓取りと名高い今川義元を屠った信長公は、今年中にも美濃をも支配するでしょう。

そうなると信玄公の領土と接するようになりますので、ここは一つ、お互い行き来がしやすいように、勝頼公に信長公の娘を娶あわせたいが如何?


この娘は信長公の姪で、幼い頃から証人として養ってきた両属(織田・武田)の東美濃笛木の遠山勘太郎直簾とおやまかんたろうなおかど(信秀四女が正室)の娘です。


無事に輿入れした姫ですが、のちに信勝となる男児を挙げた後、元亀元年(1571)亡くなってしまいます。(信州日牌帳では元亀二年九月)


更に信長公は、嫡男信忠の正室に信玄の七歳になる松姫をと申し込みました。

永禄十年(1567)十一月二十一日のことでした。(土御門文書では元亀二年から三年の初頭)

この時信玄公の家臣たちは反対をします。

すると、信玄公は引き出物の白絹の入った木箱を床に叩きつけます。

「見よ」

信玄公は割れた箱を指差します。

「この漆塗は何層にも塗り重ねている上物だ。これは信長公が本気で当家と昵懇になりたいという証である」


ということで無事に輿入れが決まります。


信玄の返事がもたらされた織田家から、十二月中旬祝言の酒樽が武田家に届きます。この酒樽は輿入れの際に松姫が織田家に運び込み、固めの杯を満たす酒です。



さて、この時信長公は

「虎皮三枚、豹皮五枚、緞子百巻、金具の鞍鐙十口」を信玄公に。

松姫には「厚板(舶来の地厚な絹織物)、薄板(羅)、緯白(経糸が紫、横糸が白)、織紅梅(経糸が紫、横糸が紅)がそれぞれ百端(反)。

代物千貫、模様に金箔付の帯上中下三百筋」

を内外に経済力を誇示するために盛大に贈りました。


翌年六月上旬、信玄公は落ち着いたものでしきたりどおり

書状と樽、肴と信長公に対して

「越後有明蝋燭三千張、甲斐の名産漆千桶、熊の皮千枚、関東宇都宮氏からの一頭を含む馬十一頭」

信忠公に対し

「大安吉脇差一振、義広の腰物、紅千斤、綿千把、馬十一頭」

が、贈られました。


これで無事に婚約が相整ったわけです。


ここで、大名家の婚儀の難しさ語るのが、徳川家康です。

当時家康は清須同盟を結んでいますが、同時に武田信玄と敵対関係にある上杉謙信とも同盟を結び、信玄を挟撃する戦略を取っていました。

上杉と武田がそれぞれ手合(援軍)を求めてきた時、同盟者同士の織田、徳川が戦う形になり、非常に不都合が起こります。

そこで信長公に抗議をします。

なるほどということで、それは盛り込まれます。


そして元亀三年十月、信玄が信長公との同盟を破棄し徳川領を攻めたことで、この縁組は壊れました。



さて、ここから武田氏と今川氏の婚姻の準備を見ていきます。


時を遡ること天文二十年(1551)八月二十三日【甲陽日記(高白斎記)】

武田信玄は今川義元の娘を当時の嫡男義信に迎えるにあたり、「西の御座」の建設を始めました。


甲斐守護武田信玄は、当時最大級の権勢を誇る今川義元と結ぶに当たり、細心の注意を払うことにしました。


天文二十一年二月、信玄は今川家に使者を送り、婚儀に関する誓句(起請文)の案文(下書き)を渡し、義元はそれを正式の書類にして飛脚に託します。

四月になると信玄が、今川家の取次、一宮出羽守宗是(桶狭間で討死)に誓句を渡し、翌日義元の使いの僧である定院林が、義元の決め事をかいた書類を信玄の出陣先の陣へ届けます。


六月二十一日の佳き日に、西の御座の棟上げが執り行われ、新居が完成しました。


八月になると「十一月に娘を甲府へ向かわせる」という義元の書状を一宮宗是がもたらします。


そして遂に十一月十九日、信玄は迎えを駿河へ遣わします。

【妙法寺記】によると、迎えは鞘や槍の柄に薄い金箔や銀箔を貼った「熨斗付け」といわれる華やかな武具をつけた八百五十人からの着飾った家臣団でした。

また義元も娘に五十人の家臣を付け、輿二十挺、女房衆は鞍馬に揺られ百疋、長持二十竿でこちらも豪華絢爛に送られてきました。


二十二日、駿河を発した御新造は、二十七日の戌の刻と言いますから午後八時ごろ、府中の穴山氏の居館に到着しました。

同午後二時に義信も穴山氏の居館に移っています。そして、日が変わって二十八日の丑の刻、午前一時過ぎに寝所に渡りました。


婚礼の儀式については書かれていず、いきなり寝所に入っています。

婚礼の儀はなかったのではないかと言われています。


甲陽軍鑑に北条氏政の正室である信玄の娘、黄梅院の婚礼に関して三々九度をしたという記事が載っているそうですが、現代訳のを持っていないので、ちょっとよくわかりません。


この婚礼は非常に盛大で一万の供が付き従い、その婚礼荷物の豪華絢爛さの噂があちこちに残っています。





















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