戦で御座る!鳴り物鳴らせ!

 軍陣に於いて鳴り物といえば、一般的にかね太鼓たいこ法螺貝ほらがいになります。


 「かね」にはお寺で使われている釣り鐘型のいわゆる「鐘」の小型バージョンと、円盤状の「銅鑼鉦どらかね」(「金鉦」「鉦」)の二種類があります。

これらは「陣鐘」「戦鐘」、「陣鉦」「戦鉦」と呼ばれます。


「鉦」或いは「鐘」で物事を告げ知らせる歴史は古く、『日本書紀』天智10年(671)「初めて時を打つ。鉦鼓かねつつみが動く」とあり、漏刻と呼ばれる水時計で時間を量り、鉦を叩いてその時刻を知らせていた文化が、古来よりあったことがわかります。

しかし端正な文章ですね。


また同じく『日本書紀』天武元年(672)には「鉦鼓のおと数十里あまたさとに聞ゆ。列弩つらなれる おほゆみ乱れはなちて、矢の下ること雨の如し」とあり、戦にも使われていることが分かります。ただしこの文章自体は、当時、高句麗製のおおゆみ(き)は珍しかった為、日本の実情を書き記したものではなく、他の文献からの引用ではないかともされています。

こちらも非常に整った文章ですね。


また上の「鉦鼓」は釣り鐘型で、下の「鉦鼓」は中国式の銅鑼鉦、金鼓だったのではないかとされています。


中国、朝鮮で使われていた「銅鑼」とは、銅製の「ルオ」という意味です。円盤状の薄いものが「鑼」、厚手のものが「鉦」と呼ばれており、いずれも楽器として日本に渡ってきたと言われています。

平安時代になると、鉦鼓は儀式でも使われていることが、『延喜式』の中に残されています。こちらは楽器としての鉦鼓しょうこと、儀式伝達の鉦鼓かねつづみです。


『太平記』の時代になると、小さな釣り鐘型の鐘も、戦で使われている姿が残されています。


円盤状の鉦を叩く人は「鉦役」と言い、本人か従者が背中に背負い、たんぽつきの棒で叩き、釣り鐘型の方は「鐘役」の従者が鐘の上部に木を通して2人がかりで前後をかついで運んだものを、木槌のような形のものでたたきました。

この鉦役、鐘役、また後述の戦鼓、貝は、基本的に本陣に控えて大将の命令で音を鳴らす役で、歩兵程度の身分のものが付いたそうです。


鐘の使用法は家によって違いますが、篭城戦にあっては、一の鐘の音で城下の町屋に火を付け、二の鐘の音で総廓を捨て本城(主郭)に入り、三の鐘が突かれると自刃をすることになっていたり、陣においては、一の鐘で食事をし、二の鐘で身支度をし、三の鐘で打って出るなどとされていました。


鉦の方は、陣中、夜などに敵の奇襲を受けた場合には急ぎ打ち鳴らし、劣勢になった時には「引き鉦」を打つなどしたようです。

先陣を切って敵陣に攻め込む時にも、この鉦や後述の太鼓を打ち鳴らし、士気を高めることもあったようです。


秀吉の朝鮮出兵時に敵軍に鳴り響く銅鑼を見て以後は、「鉦」でもこうした背負ったものではなく、「鉦役」が片手に持って叩く形のものが主流になっていきます。



 太鼓は「戦鼓」「陣鼓」と呼ばれる陣太鼓で、小型で音がやや高めのものになります。「陣太鼓」というのは江戸期に入ってからの呼び方で、資料を見る目安になります。


太鼓の歴史も古く、縄文時代(尖石遺跡)からあったとされ、『日本書紀』巻9「神功皇后」の「許能美岐袁 迦美祁牟比登波曾能都豆美 宇須邇多弓弓 宇多比都都 迦美祁禮迦母 麻比都都 迦美祁禮加母 許能美岐能 美岐能 阿夜邇宇多陀怒斯 佐佐」注)原文の「弓」は弓の下に一

(この御酒を醸した人は、その鼓 臼に立てては歌いながら醸したかもしれない、舞を舞いつつ 醸したかもしれない、飲めば飲むほど、楽しくなるよ、さあさあ」という「酒楽さけくら之歌」にある「都豆美」が太鼓のことであるとされています。

これは『古事記』の中つ巻の「酒楽之歌」の中にも出てきていまして、『日本書紀』は養老4年(720年)に完成した歴史書で、『古事記』の成立は和銅5年(712年)なので、『古事記』の方が太鼓の初出と言われています。(引っ越しで「古事記」が掘り出せていないため、書き方がおかしくてすみません)

これは調緒で締める「締太鼓」と呼ばれる楽器です。


それに対して鉄の鋲で皮を留める「鋲留太鼓」は、響く音が大きく、当初は儀式の進行の合図や時を知らせる用途に使われていたと言います。

また昨年(2021)今城塚古墳(6世紀)の埋葬物の中に、鋲留太鼓ではないかとされる太鼓型埴輪が見つかり、鋲留太鼓の歴史は更に古いのではないかと話題になっています。


養老令(718)の軍防令に依ると、角笛と共に鼓(太鼓)を二つ、軍団ごとに配備するようになっていました。


それから時は流れ、平安時代後期に起こった前九年合戦(永承6年(1051)〜康平5年(1062))では、小者たちが2人がかりで鋲留太鼓を担いでいる姿が残されています。

東京国立博物館

「前九年合戦絵巻(模本)」

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0006622


この後には、鐘同様に背負う形に変化していきます。

Wikipedia

「長篠合戦図屏風」(江戸末期制作)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/Battle-of-Nagashino-Map-Folding-Screen-1575.png


注)長篠合戦屏風絵は10作例あり、名古屋市美術館本が絵画様式から見て、17世紀初頭、江戸初期制作で最も古いものとされている。これに手を加えて、更に小牧長久手合戦を付け加えたものが現在「原本」となっている成瀬本(絵画様式から見て17世紀後半)であると言われている。上記もまたこの成瀬本を写したもの。


太鼓の合図は基本的に「かかり太鼓」「引き太鼓」「押し太鼓」など、打ち方によって軍を動かしたと言われています。



 法螺貝は「かい」「陣貝」と呼ばれ、これを吹く人を「貝役(螺役)」と呼びました。


当初、戦には法螺貝ではなく角笛つのぶえが用いられていました。

昼神車塚古墳(〜6世紀中期)には「角笛をもった狩人の埴輪」が出土しており、『日本書紀』天武帝14年(685)11月の詔に「「大角はら(大きな角笛)、小角くだ(小さな角笛)、つづみふえ幡旗はた、及びおほゆみいしはじきの類は、わたくしやけに置くべからず。ことごとく群家こほりのみやけをさめよ」とあります。

更に養老令(718)の軍防令に角笛(大角)を配備するように書かれ、平安中期に成立した『和名類聚抄わみょうるいじゅしょう』には、管の形をした小角は「久太能布江くだのふえ」と呼び、戦で「大角はらのふえ(波良能布江)」と共に使うとあります。


この角笛が法螺貝に置き換えられて行ったのは、武士が台頭してくる平安末期になります。

法螺貝自体は奈良時代に楽器として伝わり、平安時代に真言密教の法具として、様々な呪力を持つとされていました。

『法華経』には「大法螺を吹いて、大法鼓を撃つ」とあり、法螺貝の音色により一切の煩悩を祓い、邪気や悪魔、悪霊などを降伏せしめると考えられていました。


当時の迷信深い常識を考えると、これが戦さ場で使用されるようになるというのは、よくわかります。おそらく法螺貝を吹くことで、悪霊祓いをし、味方に勝利をもたらそうとしたのではないでしょうか。


法螺貝が使用されるのは基本的に、敵の奇襲による急な出陣の場合や、開戦、戦の終わりの合図だったようです。


法螺貝を吹いて音を出す、しかも戦さ場で大きな音を鳴り響かせるというのは熟練が必要で、往々にして山伏が吹くことが多かったのですが、この山伏、修験者というのは戦国当時では軍師として参陣していました。

後には足利学校などの設立により、法螺貝を吹ける武士も出現しました。


それぞれの特性を活かして、鳴り物を使用していたようで、当時は戦というのが日常のものだったことが分かります。

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