天下人の生母、土田御前③

 前回の話を前提として、岩倉織田氏の元連枝である(かもな)勝幡織田氏の嫡男に、美濃国衆の娘を継室に迎えるというのは政治的な視点から見てありうるのか考えてみます。


 土田御前の生家と言われる美濃可児の土田城は、現在の木曽川と可児川に挟まれた、尾張側にあります。犬山城からは9キロ程度、木之下城からも7キロ程度、馬でおおよそ30〜40分程度の場所であり、当時的には遠い場所ではありませんでした。

なんなら、なんでここが尾張じゃないんだろうみたいな土地ですね。このもう一つむこうの信濃側に明智光秀で有名な明智長山城とか、苗木とかあって、後には勝幡織田氏が婚姻関係を結ぶ遠山氏もおられます。


 少し前回の話に戻りますが、文明5年(1473)伊勢守敏広が清須を襲撃し、更に斎藤妙椿が援軍として駆けつけました。この時大和守敏定はたまらず信濃守護小笠原家長に助けを求めます。

小笠原家長は、応仁の乱当時東軍に属し、西軍の斎藤妙椿の勢力を削ぎたい将軍足利義政の命により、嫡男定基、木曾家豊らと共に東美濃攻略のため兵を進め、美濃恵那郡、土岐郡などを攻略し、天文2年(1533)撤退が始まるまで、ここら一帯を支配下に置いていました。


妙椿は加茂の善恵寺、そして妙椿の別名の元になる支院持是院への庇護を絶やさず、更には家督を譲った後は恵那の明知に隠居所を建ててそこで亡くなっています。岩村城と土岐明智城の間で、隠居所といっても木曽、小笠原軍との最前線にあたりました。


初代上尾張守護代織田伊勢守の弟広近は、長禄3年(1459)のちに小口城を築城し居城としていましたが、文明元年(1469)兄から命じられ、木之下城と木之下砦(後の犬山城)を築城し移城します。


この木之下城築城を、美濃対策と書いてあるものが多いですが、文明元年あたり伊勢守家と斎藤妙椿との仲は親密ですし、当時の木曽川というのは、現在の境川の場所で、ちょっと離れています。

例えば森可成の葉栗や、実は私も勘違いをしていたのですが、堀久太郎の茜部などは美濃ではなくて尾張だったそうです。

ちなみに現在の木曽川は当時の木曽川の分流で「及川をよひかわ」と呼ばれ、天正13年(1585)大洪水を起こしてこちらへ木曽川が移動したそうです。


 じゃあ、なんでこんな中途半端な位置に木之下砦、木之下城を築城したのでしょう。


先ほど土田氏の土田城というのは近いと書きました。ということで、これはそちらから来る敵、東軍の木曽氏、信濃小笠原氏対策ではないのかと考えられます。丁度応仁の乱が始まった年ですし。


次いで2代目木之下織田氏の寛近(津田武永)は、守山あたりの土豪岡田氏と娘を結婚させて守山の奥(小幡緑地公園近く)に川村北城を築き譲っています。ここは三河からもそうなんですが、やはり多治見から分かれて、尾張へ侵攻する道になっています。


ところで岡田時常は斯波氏家臣なんで、この婚姻は斯波氏の命じゃないかと思われます。

そして岡田さんは出来た娘に牧長義を婿に迎えて、川村北城を譲ったと言われています。

牧長義の父は斯波14代当主斯波義統の弟津川義長。母は、応仁の乱の折西軍に伊勢守家と共にくみして廃された、斯波氏11代当主斯波義廉の四男牧左近義次の娘になります。

そして岡田常時の娘が亡くなった後の牧長義の継室には、信秀の姉妹の長栄寺殿が入り、嫡男の牧与三右衛門長清には、信秀の娘小林殿が入っています。密ですね。

その息子が桶狭間の折、丹下砦の城将を務めた真木与十郎、宗十郎兄弟です。

とても縁が深いですね。

小林殿の名前のもとになった小林城を築城するのは、天文17年(1548)なので、それまでは彼らは川村北城にいたわけです。


ただこの守山というのは、那古野今川氏の領地とも言われているのですが、大永6年(1526)より櫻井松平家の領土です。

今川氏からぶんどったんじゃなくて、何があったかは定かではないんですが、幕府から正式に宛てがわれた領地です。そしてこの年には、櫻井松平氏の信定は、織田信秀の妹を嫡男の清定の正室に迎え、この後になりますが娘を織田信光へ嫁がせています。(兄信秀は大永4〜6年頃に婚姻)

ですから、なぜこんなとこに木之下織田氏が城を建てるのか、というと岩倉織田氏(伊勢守)と木之下織田氏(津田武栄→岡田常時)、勝幡織田氏(この2、3年前に勝幡へ出ている)、櫻井松平氏、ついでに斯波氏というルートを感じざるをえません。

この頃斯波氏というのは、前武衛の失脚によって衰退はしていますが、文献を見る限り、前武衛義達は完全に力を失っている訳ではなく、勝幡織田氏との仲は悪くない様子(『山科言継卿日記』天文2年の尾張下向)も見られますし、斯波宗家として勢力を拡大して越前、遠江を取り戻したいという気持ちを最後まで持っていたそうです。


さておおよそ天文元年(1532)藤左衛門家は大和守家と一緒に、三河の松平清康と結んで、勝幡織田氏と戦って、信貞は信秀の正室を返しています。


この頃までに守山は織田信光の居城になっており、桜井松平家との関係性が崩れていないことから、信光への移譲があったのではないかと推測されます。例えば、松平氏娘は長禄2年(1530)までには入輿していますから、子供が産まれていてもおかしくなく、ゆくゆくは彼らに譲る話になってたのかもしれません。


そして天文4年(1535)松平清康の森山崩れが起き、その後信貞が木之下織田氏に入ります。


丁度この天文元年から天文2年(1533)の間に、信秀は継室を娶っています。

この流れで何処から嫁取りをするか、です。


今一度美濃に目を向けてみましょう。

天文元年の頃、美濃では土岐氏の家督争いがようよう終結し、守護代斎藤家家臣長井氏を仮冒した長井新左衛門尉の息子長井規秀(後の道三)が台頭する直前でまだ混乱の余韻が続いています。

そうなるとこのチームには、美濃のうちすぐ近場な土田とかあたりからズイズイと、尾張の領土にする意図というのは充分あったかと思います。


また美濃加茂の七宗にある「龍門寺」という七代土岐頼貞の開いた寺がありますが、応仁の乱の折に斎藤妙椿が押領したとも言われています。ここの寺領に関して、長享2年(1488)将軍の側近から木之下織田氏に問い合わせがあったことから、中濃に関してなんらかの関わり合いがあったようです。

この辺りは美濃と言っても端境地帯ですから多属の国衆が多かったと多かったでしょう。


そうなると土田城から娘を取るというのは、ここの城が織田氏と同盟を結んだということになりますから、清須の土田氏と結婚するよりメリットは大きいのではないでしょうか。


更に信秀と同じ天文元年に、長井規秀(道三)に明智長山城の娘が入った(信長正室母)という話もあります。彼女は光秀の叔母にあたるとされています。(『美濃国諸旧記』江戸寛永末期成立、内容不確か)


道三は天文2年に父の跡を継いで政務に携わるようになっています。道三は当初土岐頼芸を擁立しますが、その頼芸は織田伊勢守と親しいですから、小笠原氏の東濃侵略を押し返す為の同盟が成立し、恵那、可兒あたりの多属への許容があったのかもしれません。

現在のところ、天文13年(1544)頼芸が尾張に落ち延びてくるまでは、美濃、尾張間で戦さの記録がありませんしね。

この天文13年の争い、井ノ口合戦ですね、この時、斯波氏まで「勝幡織田氏の命に従え」と守護代たちに下命しています。


そう考えると土田御前というのは、可兒辺りを手につけて勢力拡大する斯波氏らの思惑の為に嫁いできた可兒の国衆の娘かなと思われます。



 さてここから四方山話になります。

信長公のいわゆる宿老、方面大将と呼ばれている方々は、光秀を除いて清須入城前後に出揃っています。


もし土田御前が土田城主の娘であれば、当時、土田氏の主人だったと言われている明智氏とのつながりで、私たちが思っているより早く光秀は信長公と知り合いだったかもしれませんね。


『山科卿日記』中には、岐阜城に入ってからですが、信長公が光秀の叔母(姑)に、礼を尽くして会いに行っている姿が残されています。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る