天下人の生母、土田御前②

 今回は少し土田御前から離れて、勝幡織田氏は下尾張守護代大和守家の家臣ではないのではないかという話をします。


 応仁の乱(応仁元年〜文明9年[1467〜1477])からの上下尾張守護代家の確執はご存じの通りです。


応仁の乱で伊勢守家は、当代である11代武衛、斯波義廉(渋川氏出身)と共に西軍についており、敗戦により幕府から「凶徒」として、討伐を受ける立場になりました。討伐するのは勝軍東軍についていた伊勢守家の連枝衆であり、家臣であった大和守家で、この折に尾張守護代を任じられます。

彼は10代武衛斯波義敏(大野氏出身)の息子義寛を擁しており、同じ時期に義寛が12代武衛に就任しました。


この頃、伊勢守家に深く関わっていたのが、美濃守護代家後見斎藤妙椿でした。彼は美濃守護代家の連枝ですが、その主人である土岐氏(従5位)を凌駕する官位(従3位)と権威の持ち主で、西軍についていたにも関わらず、その勢力はほぼ損なわれることは有りませんでした。

応仁の乱時、妙椿の影響力下にあったのは美濃、尾張、伊勢、近江、越前、飛騨と言われ、20年続いた美濃錯乱を収め、乱後には西軍の元将軍足利親子を迎え入れ、保護を与えています。


伊勢守家当主織田敏広の正室には、妙椿の養女が入っており、妙椿の後ろ盾のお陰で「凶徒退治」どころか、大和守家は反撃に遭い、両織田家は応仁の乱に引き続き、骨肉の争いを始めます。

妙椿が幕府に掛け合い、文明11年(1479)1月、尾張織田氏は尾張を上下に分けて統治することになりました。


ところが、文明12年(1480)妙椿が亡くなると妙椿の跡目を巡り争乱が起き、その後妙応3年(1494)美濃守護土岐氏の家督争い船田合戦が始まり、土岐政房、持是院家妙純(妙椿の後継)と土岐元頼、持是院家宿老石丸利光が争い始め、妙応5年(1496)妙純が勝利します。

この時、石丸利光の娘を正室にしていた大和守家は利光方、伊勢守家は妙椿の縁で妙純に付いていました。この合戦に於いて陣中で大和守当主が亡くなると、伊勢守家連枝木之下織田氏が尾張に取って返し、上尾張領土で足止めを食らっていた大和守嫡男の首を取っています。

ここでも両者の同族争いは凄まじく、斎藤妙純が織田氏滅亡を案じて、仲介の労を取ったほどだったそうです。

敗戦した大和守家も、勝った伊勢守家もこの後妙純が亡くなって後ろ盾を失うと、両家は勢力を減退させて暫し大人しくなります。


 ところが永正10年(1513)5代目下尾張守護代家当主達定が、13代武衛斯波義達に叛旗を翻し、自害に追い込まれます。

この理由は皆が反対していた遠江侵攻を止めるためとされています。結局この時斯波義達は出陣し今川氏に負けてしまいます。

遠江はご存知のように斯波氏の領地で、斯波宗家筆頭宿老甲斐氏が守護代を務めており、今川氏との攻防が繰り広げられていました。

そして、永正12年(1515)8月に再度出陣した斯波義達は大敗し、坊主姿で送り返されるという恥辱を受け求心力を失い、まだ数えで4歳の嫡男義統に家督を譲らざるを得ませんでした。


そして6代目下尾張守護代大和守達勝就任前後(永正10〜13)に、三奉行が設置されたとされています。


永正10年(1513)から永正13年頃の尾張の布陣を見てみましょう。

(清須、守護所清須本城)

13代武衛 斯波義達 →14代武衛、義統

(清須、守護代屋敷)

5代下尾張守護代 織田大和守達勝


三奉行   織田弾正忠信貞

      織田藤左衛門良頼

      織田因幡守広延

       (『織田家三奉行奉書』)


(岩倉)

3代上尾張守護代 織田伊勢守広高(初代敏広の実子)

(小口)

2代木之下織田氏 織田寛近(前伊勢守の実弟)


 さて下尾張守護代の三奉行の名前の参考にさせて頂いた『織田家三奉行奉書』とは、永正13年(1516)尾張の妙興寺の寺領や末寺への安堵状です。住所は一宮市大和町妙興寺2438になり、上尾張の領地です。


その後、継嗣の絶える木之下織田氏の代わりに、木之下城に信貞が入り、後に木之下(後に犬山)織田氏を継ぐのですが、この木之下織田氏(2代目寛近、後に津田武永)には息子はいないのですが、娘がいます。娘は守山辺りの土豪の岡田氏に嫁がせているんですけど、相手は次男です。

おかしくないでしょうか?

将軍家御成を受けるような、名家伊勢守家の弟が祖の木之下織田氏です。普通は婿養子にするのでは?

それで、本当は信時ともう一人の娘を結婚させたんじゃないかと考えました。



で、ここまでを振り返ると、家臣の感情というのが大きく影響を与える戦国時代に於いて、果たして骨肉の争いを繰り返してきた下尾張の家臣がこんなに上尾張に干渉してていいものなのか?

その上木之下織田氏を下尾張の家臣が継ぐなど、上尾張の家臣たちの気持ちはどうなのか。

また当時今川氏と斯波氏の対立がクローズアップされてますから、下尾張の家臣ならそちらに注力すべきなのでは。


これは上尾張伊勢守家の連枝衆なんじゃないかという気がしてきます。


しかし三奉行のような人たちが、織田大和守敏定主催の文明13年(1481)大和守家の宗旨決めの「清洲宗論」の折に、奉行として出座しています。

文明年間はまだこの両家は争っており、伊勢守家は斯波氏とも不仲です。そうなるとやはり弾正忠家は大和守家の家臣なのでは、という気がします。


ところが文明13年(1481年)7月に伊勢守敏広の後を継いだ織田寛広は、木之下織田氏である広近(実父)を伴い、斯波義寛に帰順し、8月には大和守敏定と共に上洛し、将軍足利義政に尾張平穏の報告も兼ねて礼物の献上をしました。

帰順した家の連枝を直臣として出仕させ、婚姻関係を結ばせて取り込んでいくというのは定石です。つまり伊勢守家が、斯波義寛に帰順した折、伊勢守家連枝の弾正忠家は斯波家に出仕したと考えられます。つまりこの宗論が7月以降であれば、弾正忠家は伊勢守家の元家臣でもおかしくありません。

その後、また両家は争いますが、斯波氏とは争っていないことから、大和守家についたのではなく、斯波氏の家臣で与力としてついてたんじゃないかと考えられます。

単なる推測ではありますが、三奉行は弾正忠家(元伊勢守家連枝)、藤左衛門家(大和守家連枝)、因幡守家(もしかすると元から斯波氏の直臣?)という構成で、斯波氏が大和守家につけたのかもしれません。


 さて勝幡織田氏は「弾正忠」ですが、「弾正」とも表記されます。

在京時代の正長元年(1428)『満済准后日記』に、斯波氏の二番家老である織田常松の見舞いに使者を向かわせたところ、織田弾正が対応した旨が書かれているそうです。

ここで分かるのは、織田弾正が武衛屋形の織田伊勢守邸にいることから、織田伊勢守の連枝衆の重臣であろうということです。

勿論、後の勝幡織田氏が伊勢守連枝「弾正」家の名跡を継いだ可能性もありますが、永正10年までに連枝格に引き上げられるとすれば、下尾張の家臣とは考えにくいです。


 そういえば大和守達定が斯波氏に叛旗を翻し、自害(4月14日、ないしは5月5日)に追い込まれていますが、12代武衛、斯波義寛が4月17日に亡くなっています。ちょっと意味深です。

そういうのを含め、清須三奉行というのは同じ城に住む下尾張守護代大和守家へ、斯波氏が付けたお目付役なんじゃないかと考えられます。


さて、長くなりました。

以上が織田氏の前史で、弾正忠家は元は岩倉織田氏の連枝の重臣であり、斯波氏に直臣として出仕し、下尾張守護代への目付としてつけられたものではないかという話でした。


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