信長公をめぐる女性たち
天下人の生母、土田御前①
天下人織田信長公の生母になる土田御前は、清須の
信長公母が本当に「土田御前」なのかはわかりませんが、「つちだ」か「どた」なのか、ここを考えてみたいと思います。
話が違うところから始まります。
信長公の側室生駒氏というのは、元々は『山科言継卿日記』で有名な山科家の支流にあたる氏族になります。応仁の乱の頃(応仁元年1467〜)、生駒家広に率いられた彼らはその居住地「生駒」から尾張小折へ逃げ落ちて、木曽川で問丸、馬借と呼ばれる、物流関係の仕事により財をなし、一大勢力になった遣り手の一家であると言われています。
この家広の娘が尾張と隣接していた美濃国可児郡土田郷に住む元六角氏家臣(或いは木曾氏元家臣)土田秀久に嫁し、生まれた政久を養子に迎えて生駒親重と名乗らせて家を継がせたと言われています。
この親重の娘が織田信秀の室に入り、後に継室となった信長公の生母土田御前であると言われている他、土田秀久の妹が織田信貞の正室いぬゐ(一般には織田藤左衛門家の娘であるとされる)であるだけではなく、更に秀久、いぬゐの母親は明智長山城主の娘であると言われています。城主明智氏は土岐氏傍流が明智に住んで改名し、後に明智光秀が生まれたという一族です。
これが事実であれば、なんとも織田弾正忠家と縁の深い一族ですが、非常に奇異な感じを受けます。
というのも、織田弾正忠家というのは通説によると「下尾張守護代」家の家臣であり、生駒氏の小折は「上尾張」に位置していますし、可兒というのも、犬山の東側で下尾張なんて関係ないところだからです。
信貞が正室を迎える永正5年前後(1508)、弾正忠家は清須で織田大和守家に近侍していたはずで、上尾張の守備範囲の家、もしくは美濃の家と婚姻関係を、弾正忠家の主人である下尾張守護代である大和守が命ずるとは考えにくいのです。
さてとりあえず、いぬゐと結婚した信貞に、子供が産まれます。
その嫡男信秀に嫁取りの時期になりますと、おりしも津島が反乱を起こして、信貞が制圧して嫡男信秀の長女くらを津島のトップにあたる大橋家の嫡男大橋重長に与えることで同盟(主従関係)が成立しています。
この辺りの時期に信秀は、主人の家の「下尾張の守護代の娘」を正室に頂きます。
津島も勝幡も下尾張の範囲であり、美濃の土田氏娘が嫡男の側室、あるいは継室に入るのは考えにくいので、土田御前は美濃の
また信長公の母が土田御前の前の継室「美濃国藪田の小嶋日向守信房の娘」説もあり、くら姫を娶った大橋重長の記した『津島大橋記』によるとくら姫は小嶋氏の養女として入輿したとあります。
このあたりを足を止めて見てみましょう。
津島制圧時の大永4年(1524)、永正5から8年(1508から1511)生まれの信秀の年齢は数えで15歳前後で、くら姫が信秀の娘なら、彼女の年齢は3〜0歳辺りということになります。
正室の清須織田氏娘ではなく、小嶋氏娘の養女として入輿したということは、くら姫の婚約をし、小嶋氏娘が継室となった頃、わざわざ継室小嶋氏娘を仮親、つまり信秀の嫡女格として大橋氏に入輿させたということでしょうか。
家臣の娘を当主の養女としてとか、別の家の娘を当主の養女として嫁がせるというのは聞きますが、現当主の娘で、更に元正室の腹の娘を、継室の娘として家臣に嫁がせた話は珍しいですね。
となるとくら姫の母に不満があるということでしょうか。
くら姫の生まれた年を考えると、当時一定の身分の武家の嫡男が、正室との婚姻前に側室を入れる風習はありませんから、くら姫は正室との婚姻前の練習中に侍女との間に出来た子供だったということを示唆しているのでしょうか?
(拙作「若様の子作り事情」参照)
次にもし土田御前ではなく、小嶋氏娘が信長公の生母なら、次の継室である土田御前を娶った時点で信長公は「元嫡男」となり、土田御前腹の長男が跡目になります。
信長公は小嶋氏娘、信勝は土田御前が生母で、それで跡目争いが起きたと述べておられる方もいますが、年齢差的にも戦国時代においてはあり得ません。
少なくとも信秀生前に信長公が嫡男として扱われていることから、①土田御前=小嶋氏娘であるか、②小嶋氏娘は土田御前の前に入輿した正室だが、男児を生まなかったか、③信長公が小嶋氏の腹なら土田御前に男児が産まれなかったかのどれかになります。
『信長公記』では、まず「土田御前」という呼び方はなく、勝幡織田氏の跡目争いの折、末盛城に信勝といる女性を「信長のお袋様」と呼んでおり③はありません。
となると、信長生母は小嶋氏説は、①の土田御前=小嶋氏娘のみ成立します。
信秀の正室を返したのが天文元年(1532)。信長公が生まれたのが、天文3年5月12日(1534、6、23)のため、信長公の生母は正期産であれば、天文2年の夏頃には継室になっているはずです。
もし②の小嶋氏娘が土田御前の前の正室ならば、天文元年から2年の夏にかけての短期間、継室となり、数えで10歳前後になったくら姫を嫁がせた後、生死はわかりませんが、勝幡織田氏を後にしたことになります。
ただ小嶋氏=信長生母説の元になっている『津島大橋記』には「而シテ同年十一月、信長公息女御蔵御方、実ハ信秀ノ女、大橋清兵衛重長ニ入輿ス」
と生まれていない信長公が出現し、更には長男信広の母親は中根氏で、くら姫の他、中根信照を産んでいるとしています。
くら姫、信広の母は同じ可能性もなきにしもあらずですが、20年以上も後、天文15年(1546)頃に生まれる中根信照の母が同じとは思えません。
この中根氏娘というのは、熱田の評判の美人で、それを聞いた信秀が室に入れたという逸話の持ち主です。(『張州府志』)
天文14年(1545)信秀は那古野から古渡城に入城し(拙作「信長公元服までの居城」参照)熱田への支配を強めています。
中根氏娘はこの頃信秀の側室に入れられ、寵愛をされ信照を産んだという方が自然でしょう。
また信孝の異父兄弟の小島兵部小輔は、この小嶋氏の系統と言われています。
拙作「織田三七郎信孝の母、坂氏娘の素性の考察」では坂氏は結局「伴氏」か「塙氏」かわからなかったのですが、「信孝の母は、熱田杜家岡本氏の娘が坂氏に嫁いで生まれた娘で、美濃へ嫁いだ信長公の姉妹の上級侍女として侍り、美濃の武将小島氏と結婚し、長良川の戦いで道三に付いた夫が討死し、戻ってきたのではないか」としました。
これがあっていれば、『大橋記』を書いた方、あるいは加筆した方の胸の内というのは分かりやすいものかもしれません。
熱田への対抗心とか、信長公はもう少し津島を大事にしてほしかったというような、複雑な思いを抱かれていたのではないでしょうか。
そうなると、この小嶋氏娘の話もどうなんでしょうかね。
どちらにしても、美濃の国衆(しかも尾張とは遠い領地)の娘が下尾張守護代の家臣である勝幡織田氏の嫡男の正室になるというのは、非常に考えにくいと言わざるをえません。
いぬゐは藤左衛門家の娘、土田御前は清須の近くの
しかしもし一点違えば、土田御前は美濃の国衆の娘というのはあり得るのです。
次回は織田氏前史なので、よくご存じのかたは飛ばして頂いても大丈夫です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます